6-7 帰郷
灰色に塗られた空に、低い雲が流れていく。雨が緩やかに降りだした中を、馬は走る。
ノアはヴィクトルの駆る馬に同乗しながら、前方を見据える。先を行く一団の後方はすぐに見えた。
移動用ゴーレムの速度を落としているため、ほどなく合流できるだろう。
「ヴィクトル、少しだけ話をしていい?」
皆と合流する前に、ふたりきりで話したいことがある。
他の人にはまだ言えない話が。
「皇帝を殺したのは、カイウスで間違いないと思う」
いまでもあの光景ははっきりと思い出すことができる。
闘技場の皇帝席で、皇帝を殺したカイウスの姿を。
カイウスは笑っていた。
「……そうか」
顔は見えないので表情はわからないが、さして驚いた様子もなくヴィクトルは言う。
「記憶を取り戻したのか」
「うん、たぶん」
ノアがされたのと同じように、カイウスもマグナファリスに記憶を封じられていた。
ヴィクトルに真実の名前を呼ばれたことで、ノアは記憶の封印から解き放たれた。カイウスも同じ方法で記憶が戻ったと考えられる。
ならば、誰が名前を教えたのか。
「誰が名前を教えたのか――心当たりはあるの。私と同じ時代から生きている錬金術師で、名前はグロリア。私の連れていた黒猫の中身がそう」
頻繁に姿を消して、時々現れていた黒猫。ヴィクトルにも何度も懐きに行っている。
ヴィクトルの困惑が伝わってくるが、グロリアのことについてはいまは置いておく。
「私と同じようにアレクシスに仕えていたグロリアは、カイウスにも仕えたと思う。なら、本当の名前も知っていてもおかしくない。そして記憶を取り戻したカイウスが、先生と皇帝を……」
マグナファリスの安否はまだわからないが。
カイウスとグロリアが自由に動けていることを思えば、楽観視はできない。殺されていないにしても、身動きできない状況だろう。
「……私がグロリアのことを、きちんと始末をつけていれば、こんなことにはならなかったかもしれない」
「気にすることはない。この状況は、起こるべくして起こったことだ」
言われたことの意味が理解できず、顔を上げる。
しかし懐に抱きかかえられている格好では、真っ直ぐに前を見ているヴィクトルの表情を見ることはできない。
「……もしもいまここに、ノアがいなくても」
――雨が、頬を、髪を、外套を叩く。
肌に触れるそれはとても冷たくて、痛い。
「この時代に父祖がいなくても、マグナファリス殿がいなくても、錬金術師がいなくても。いずれはこうなっていただろう」
「……どういうこと?」
「父祖が皇帝を殺していなかったとしても、いずれ私がそうしていた。私でなくても、誰かが」
何を言っているのか、やはりわからない。
ヴィクトルの声は真剣そのものだった。そして苦しそうだった。氷雨のように、ノアの心を刺し、締め付ける。
「堕ちた王は討たれなければならない。捧げられた剣によって。あるいは敵に。あるいは民に」
己に言い聞かせるように呟く。
ノアは何も言えなかった。
ヴィクトルは皇帝への忠誠心を完全に失っているようだった。
マグナファリスから皇帝の目的を聞かされたからだろうか。フローゼン領民を犠牲にして、賢者の石をつくろうとしていたと言う話を。
それとも何か、別離を決定的にする切っ掛けがあったのだろうか。
「決闘の場で、ドミトリは例のナイフを持っていた」
心臓が凍り付く。
「皇帝に授けられたのだろう。何も知らずに使おうとしていた」
ヴィクトルを疑っているわけではない。
ただそんなことがあることが信じられない。
皇帝の手元にまであれが侵食していたことも、実の孫にそれを授けた皇帝も。信じられない。信じたくない。
「ドミトリも哀れな男だ。奴すら駒のひとつにされていた。異形化するのは、私でも、奴でも良かったのだろう。どれだけの犠牲が出ても、私を葬り去れれば、それで」
「そんなの!」
狂っている。間違っている。
「多少流れが変わっていたとしても、すべてはなるべくしてなった。だからノアが気にすることではない」
ヴィクトルはただ前を見ている。
雨に濡れた顔と髪から垂れる雫が、ぽつぽつと落ちて。
泣いているかのように見えた。
一段の最後尾に合流したところで、ノアはゴーレムを更に落とし、ゆっくりと停止させた。
「ゴーレムが我らを追ってきていたが、ノアが対処してくれた。もう危険はない」
ヴィクトルの声に、安堵と歓声が湧く。
ノアは注がれる視線に作り笑顔で応えた。こういう状況は苦手だ。
だが皆の安心材料に少しでもなれるのならば、役割を演じてみせる。
合流後、全員で近くの森に入り、雨への対策と軽い食事をする。
雨具を準備し、身体を拭き、体温の低下を防ぐ。ノアは皆の間を歩き回りながら、服に沁み込んだ水分を乾燥させていった。
それらが終わると、ゴーレムを一度解体する。形を変えるのにはその都度作り直しが必要だ。
ゴーレムに幌を立てて、雨除けをつくることにする。
使っていない槍を借り、細長く変形させてそれで骨組みをつくる。上に被せる防水布は、亜空間ポーチの中から適当に引っ張り出してきた布を繋ぎ合わせ、自作の蜜蝋で雨を弾くコーティングをする。
骨組みに布を被せる作業だけは、人手を借りた。
それからは、雨の中も日差しの下も、ひたすらに進み続けた。
ノアは自分にできることを、主に怪我人や病人の治療を集中して行った。
危惧してきた追撃は、結局あの黒いゴーレム以降はやってこなかった。
そして大きなトラブルもなく、行きの約三倍のスピード、約七日で城郭都市の姿が見えてきた。
夕焼けに浮かぶ城壁の姿を見た時の、皆の安堵はどれほどのものだっただろう。
無茶な移動で、心身ともに疲労の極限ではあったが、辿り着いたのだ。故郷へ。
最初の約束通り、誰ひとり欠けることなく。






