6-1 叛逆者
闘技場の観衆が見守る中で、皇帝は首を落とされて死んだ。
皇帝の死によって、闘技場は悲鳴と混乱に満たされた。
賓客席の壁になんとかしがみついて宙づり状態になっていたノアは、足が引っかかる位置に、錬金術で壁から足場を生やして身体を安定させる。そのまま足場を上にいくつも作って壁をよじ登り、室内に戻る。
室内ではイヴァン皇太子殿下が身体を縮こまらせて震えていた。
先ほど無力化したばかりの黒装束の錬金術師は、変わらぬ姿で床に転がっている。両手を手錠で封じられた状態で。
振り返り、皇帝席を見る。
皇帝席にて皇帝の首を剣で刎ねた仮面の少年――カイウスも、猫の姿から高位精神体の姿に戻って、ノアを空中からあざ笑っていたグロリアも、既に姿を消している。
彼らの行動、狙い、考え、すべてわからない。
(カイウスの記憶が戻った?)
最悪の可能性が頭をよぎる。
ノアの双子の妹と、ノアの元婚約者の王との間に生まれたカイウス。
不老不死の身体を手に入れ、父を殺し王となり、錬金術師マグナファリスに封じられたカイウス。
この時代に封印から解放され、マグナファリスに復讐を果たそうとするも、記憶を封じられ従者として使われていたカイウス。
(いまは考えてる暇はない)
いまするべきことは幼い皇太子を、祖父である皇帝を目の前で殺された皇太子を守るきること。
「失礼します」
ドレスの下に付けていた亜空間ポーチから、黒の上着を――ヴィクトルから借りたままだった服を取り出し、イヴァンの頭から被せる。
いまは床に転がって身動きができないでいる黒装束の錬金術師を一瞥する。この錬金術師はイヴァン皇太子の命を狙いに来たとしか思えない。
同じ格好をして皇帝席に侵入した男は、闘技場の地面にいるヴィクトルが投げた剣で頭を貫かれ、死んだ。
そしてその剣で、皇帝席に入ってきたカイウスが、皇帝を――……
(考えろ、考えろ、考えろ)
皇帝は死んだ。
次の皇帝は、皇帝の長男の嫡男であり、皇帝の孫であるイヴァン皇太子。
しかし皇太子はまだ八歳と幼い。
実権は皇帝の次男であった公爵が握ることになるだろう。
「いまからここを脱出します」
いますべきことは逃げること。
イヴァン皇太子を抱えて逃げて、ヴィクトルと合流すること。
「私が必ずお守りします」
「うむ……」
イヴァン皇太子を抱きしめ、全身の力を強化し、抱えあげた、瞬間――
「フローゼン侯よ、乱心したか!」
重厚な声が響き渡る。
ノアのいる場所の反対側の貴賓席にいたボーンファイド公爵が立ち上がり、地面にいるヴィクトルに向かってそう吠えた。
闘技場の底を見てみれば、いつの間にか出てきていた衛兵がヴィクトルを取り囲んでいるのが見えた。
そしてそのヴィクトルを、従者であるニールが守っている。
「皇帝陛下を弑した叛逆者を捕えろ!」
「……叔父上は何を言っているのだ」
イヴァン皇太子の声が震えていた。
ヴィクトルが殺したのは皇帝席に入ってきた黒装束の男。
皇帝を殺したのは仮面の少年。
多くの人がその光景を見ていたはずだ。すぐ近くにいたボーンファイド公爵も、見間違えているはずがない。
(犯人なんて、どうでもいいのかも)
ヴィクトルに罪を負わせられれば、それで。
皇帝が死んだいま、次の実権を握るのは――いや、すでに握ったのは、ボーンファイド公爵だ。
闘技場にいる貴族も一部の市民も、すでにそう捉えている。
もはやボーンファイド公爵の言葉が、皇帝の言葉。
(――そんなの、私は認めない!)
イヴァン皇太子を抱き上げたまま、右手を天井に向ける。
貴賓席は最上階。闘技場は石造り。
ならば。
闘技場の一番上に、ゴーレムをつくることもできる。
錬金術で石を人の形に変え、仮初の命を与える。巨大な石人形が闘技場の上を制する。
観客たちは衛兵に取り囲まれたヴィクトルの姿を見ているため、誰も気づかない。
だから見せる。その姿を。全員に。
「ゴーレムくん、飛び降りて!」
ノアの目の前を、巨大な石人形――ゴーレムが落下していく。
闘技場の底に向かって。
巨大な地響きと、地面の揺れ。そして大量の土煙。
土煙が薄れゆく中で、地面に落ちたゴーレムが、割れた地表の間からゆっくりと立ち上がる。
衝撃はかなりのものだったが、幸い、壊れてはいない。闘技場もゴーレムも。
しかし天からの巨大で異質な人型の落下物は、混乱の中ですらもわずかに残っていた秩序を、粉々に破壊した。
ただの観客として安全な場所から楽しんでいた人々は、悲鳴を上げて逃げ惑う。
衛兵たちもゴーレムと叛逆者に挟まれ、どちらと戦うべきか迷い、あるいは持ち場を逃げ出そうとしている。
混乱が混乱を呼び、闘技場は騒然となる。
ただ助かるために危険から逃げようとしている人々が、他人を押しのけても進み、新たな危険と混沌を生む。
混沌の渦を、ノアは貴賓席から見ていた。窓辺に立って。
ボーンファイド公爵は焦りもせず、悠然と事態を見ている。こちらからの視線に気づいたかのように一瞬だけノアを見て、また視線を闘技場の底に戻した。
(我ながら無謀かも)
思いながらも、これが最善と信じて、下を見る。
逃げようとする人々によって、観客席の出口側には人がたくさん詰まっており、真ん中あたりにはもう誰もいない。
ぽっかりと、空洞ができている。
闘技場の観客席はすり鉢状になっている。なだらかな傾斜をつけながら下へと狭まっていく。
真横から見たら滑り台。
ノアはドレスの裾を短く切り落とす。膝下ほどの長さに。
靴のヒールを折り、底を柔らかくする。
切り落としたドレスの裾布で、イヴァン皇太子の身体を自分の身体に巻き付ける。錬金術も使って。
もう後戻りはできない。突き進む覚悟を決めた。
窓を大きく開き、下に足場をつくる。その横の少し下にも足場。さらにその下にも。
大きく息を吸い、止めて。外に飛び出し、走る。
壁に沿わせるように階段を作りながら、風を切って駆け下りる。観客席の大きく開けた場所に向かって。
誰もいない観客席に無事降り立つと、今度は底に向かって一直線の階段を作りながら、走る。
息が上がる。足が痛い。膝が痛い。肺が痛い。全身が痛い。錬金術で全身強化しているのに。元の身体が弱すぎる。止まれと悲鳴を上げている。
だが止まらない。止められない。
邪魔が入らないのだけが幸いだった。
走る。走る。混乱の中心、混沌の底へ。ゴーレムの元へ。
耳元でごうごうと鳴るのは、血潮の音か、風の音か。
視界が揺らぐ。
(もう、限界……!)
走って走って、落ちるように走り続けて。
横から、とん、と。
一本の矢が、先ほど闘技場全体から決闘者たちに降り注いだ矢が、ノアの肩に刺さる。
(あ……)
視界が白く染まり、足が滑り、道を踏み外し。
身体が浮いた。
――落ちる。






