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5-27 灰色の悪魔




 ドミトリ・ボーンファイドは幼い頃から将来を嘱望されていた。

 公爵家の長子であり才能に恵まれ、いずれ帝国を背負って立つ存在になると期待され、本人にもその自負があった。

 誇り高き血の頂点に立ち、脆弱な民を導く、誰よりも優れた貴族になる使命があった。己がそういう特別な人間であると理解していた。


 ――ヴィクトル・フローゼンが表舞台に現れるまでは。


 最初は、互いを高められる存在であると思っていた。その血は穢れたものだったが、その才能は心から認めていた。初めての対等な相手だった。

好敵手とさえ思っていた。


 しかしそれはドミトリだけの思い込みで、ヴィクトルはドミトリのことなど視界にも入れていなかったことを知る。


 ――灰色の悪魔は、人の心を持っていない。そう評されるまで長い時間はかからなかった。

 ヴィクトル・フローゼンは己が越えるべき最大の障壁となった。

 しかし灰色の悪魔は、決着がつく前に反乱を鎮圧した英雄となり、ほどなく帝都から姿を消した。


 そしていま、ずっと追い求めていた相手が目の前にいる。

 乗り越えなければならない壁が。




 闘技場に乾いた風が吹く。

 静かな世界にドミトリはいた。視線も歓声も何もない、音のない世界。

 いまこの場にはドミトリとヴィクトルしか存在しない。この機会が与えられたことに感謝する。

 ずっとこの時を待っていた。己の方が優れていると証明する時を。


 言葉も交わさず、互いに剣を携える。

 もはや余計な口上は必要ない。正しさは力でこそ証明できる。

 ドミトリが動き、一気に距離を詰める。

 剣と剣がぶつかる衝撃。

 それは歓喜の瞬間だった。手の痺れが生きている実感をもたらす。


 ぶつかり、離れ、払い、突く。

 激しい剣戟にヴィクトルは手も足も出ない。出ていない。こちらの猛攻を防ぐのが精いっぱいのようだった。一度も反撃せず、ただ受け続ける。

 それなのに。

 何故、何故一度たりとも届かない。

 すぐそこにまで迫れているのに、どうして最後が届かない――


 ドミトリは常に鍛錬を積んできた。誰にも負けないために。既に貴族では誰もドミトリに勝てるものはいない。剣でも、槍でも、騎馬でも。

 なのに何故。

 差は縮まるどころか、あの頃よりも更に広がっているのではないか?


 疑惑を抱いた瞬間、剣が弾き飛ばされる。

 手から離れ、離れた地面に突き刺さる。力に押され、ドミトリの背が、地についた。

 押し出された空気が喉を揺らす。

 武器を奪われて地に背中をつけること。それは死と同意義だ。


 これが、これが才能の差とでもいうのか。どれだけ足掻いても。血を吐く努力しても。

 その高みには届かないのか――?


「敗北を認めろ。死して叶うものはない」


 たやすく殺せる状況を前にしても、ヴィクトルの顔は氷のように冷たく、硬く。およそ人の感情というものがない。

 全身の血が煮えたぎる。


「貴様は、いつもいつも、いつも……!」


 いつもそうだ。

 圧倒的な差を見せつけて恥辱を与え、その上こちらを見ようともしない。ここにいる人間と向き合おうとしない。別の世界に生きているとでも言わんばかりに。そんなことが許されるものか。


「私は、貴様より、強い……! 選ばれし人間なのだ……!」


 ドミトリに敗北は許されない。

 強くなければならない。

 政治においても戦場においても。太陽のごとき存在でなければならない。

 そうであることを望まれている。定められている。

 この戦いはそのための試練――


 すっと、喉元に剣が突き付けられる。顎に鉄が触れる。

 切っ先が首の皮膚を軽く押す。

 少しでも剣が動けば、命を失わせる傷が刻まれるだろう。

 しかしそれ以上死が差し出されることはなく。

 自らに一思いの死を与えることもできなかった。


「また続けるならば、拾え」


 剣が、引かれる。

 ヴィクトルはドミトリに背を向け、距離を取る。弾かれた剣を取りに行かせるための距離を。

 この男はドミトリを徹底的に打ち砕こうとしているのだと理解した。

 剣も、誇りも、魂も。すべて。


「あ……ああぁ……」


 神はどれだけの試練を与え給うのか。

 どれだけの恥辱に耐えればいいのか。

 昏い。目の前が、白く、昏い。ちかちかする。

 寒い。震えが止まらない。


 どうあっても敵わないのか。

 どれだけ努力しても届かないのか。

 視界にさえ入れないのか。

 そんなことが許されるはずもない。


「私は……負けることは許されないのだ……」


 コートの下、腰の部分に備えていた、加護の刃――ナイフの柄に手を触れる。

 それは最も信頼する者から渡された神器だった。

 神の恩寵であり、奇跡であり。

 自らの血を捧げることで祝福が得られる神の御業――……

 最も信頼する相手は、それで誇りを貫くことを望まれた。


 逆手でナイフを抜き、振りかざす。自らの血を捧げるために。

 しかしそれは振り下ろす前に、弾かれて吹き飛んでいく。

 じんじんと、手が痺れる。ヴィクトルは一瞬で距離を詰め、剣で正確にナイフだけを弾き飛ばした。ドミトリの身に傷ひとつ付けることなく。


「それが何かを知っていて頼るのか。知らずにただ起死回生の一手にしようとするのか。どちらにしろ愚かに過ぎる」


 土を擦る足音。

 目の前に影が落ちる。


「誰に与えられた」


 問いが、落ちてくる。

 天から降りてくる声は低く、重く。

 魂を軋ませる審判の声だった。


「父か、弟か、母か。――陛下か?」


 ひくりと、顔が動く。

 ヴィクトルはそれだけですべてを察したように薄く笑った。


「やはり、な」


 ――ああ。自分は、恐ろしい間違いを犯してしまったのではないか。




 刹那、矢羽が風を切る音が耳に響く。

 どこからともなく放たれた矢が、ヴィクトルの足下の地面に深く突き刺さった。

 観客の歓声が広がる。静かだった世界に、音の激流が押し寄せる。


 無数の矢が、眩しい陽光の中、歓声と共に降り注ぐ。激しい雨のように絶え間なく。

 ドミトリは己の正気を疑った。だがこれは現実だ。

 いったい誰がこんなことを。誰の指示によるものか。射手はひとりではない。何十人もの一団が、闘技場の隙間から矢を射ている。

 許されることではない。神聖な決闘の場を汚すなど、決して許されることではない。


 ヴィクトルは、最小限の動きで自分に当たる矢だけ避け、あるいは剣で弾く。それだけではなく、ドミトリに落ちようとした矢も、同じように弾いていた。

 ――守られている。

 呆然としている間に嵐は過ぎ、矢はついに降り止む。


 その時ドミトリは見てしまった。

 ヴィクトルの青の瞳に、灰色の闇が落ちるのを。


 ――灰色の悪魔。

 古き名が脳裏を過ぎる。

 馬鹿馬鹿しいと思っていた。超人のようであろうと同じ人だと。相手を人以外の者だと己を騙し、敵わないと己を屈服させてどうするのかと。


 しかしその瞳の昏さは、間違いなく――……




 ヴィクトルが剣を握り直し、観客席の中央を見上げる。

 そこには天幕と、その下には皇帝の席があった。闘技場の中心から自分たちを見守る皇帝が。


 ヴィクトルが剣を投げる。

 回転しながら風を切り、天を斬り裂くそれは、吸い込まれるように皇帝席へと飛び込み。

 その場所を血に染めた。




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