5-26 闘技場の皇太子
「随分早いな。逢瀬はどうした」
大皇宮の塔に戻り、マグナファリスの研究室に入った第一声がそれだった。
窓辺の大きな一人がけ用の椅子で本を読みながら、視線だけをこちらに向けて。
「余計なお世話です」
「せっかく気を利かせてやったというのに。君は真面目過ぎる」
――何を怒られているのだろう。
「なるほど、すれ違ったのか。タイミングの悪い」
ひとりで納得したように言って、再び厚い本に目を落とす。
「それよりも授業をお願いします」
「明日からだと言っただろう」
「時間がありません」
「正直、教えることもそんなに無い」
煩わしそうに息をつき、顔にかかった髪を払い、再び午後の読書に没頭していく。
その時、誰かが研究室の扉を開く。
「おや、今日は随分賑やかですな」
落ち着いた声が室内に響く。
入ってきたのは金髪が眩い、恰幅の良い中年の男性だった。
マグナファリスは本を置いて立ち上がる。
「これはこれは、公爵殿」
(公爵……!)
夜会で遠目に見た姿が、いますぐそばにいる。
ニコライ・ボーンファイド公爵が。
「このような場所にまでご足労いただけるとは。ああ、この者は私の助手です」
「マグナファリス殿が助手を雇われるとは、珍しいこともあるものだ。ぜひとも我が錬金術師たちにも指導をお願いしたいものですな」
「ご冗談を。そちらの錬金術師は皆優秀です。そろそろ賢者の石は献上できそうですか」
公爵は喉の奥で笑う。
「お人が悪い」
マグナファリスが視線だけでノアに退室を促す。ノアは一礼だけして、何事もなかったかのように研究室から出た。
(……あの人が、ボーンファイド公爵)
ぞわりと、首の後ろがざわつく。
(あの人が……)
我が錬金術師たちと言っていた。
何人、召し抱えているのだろう。何を成すつもりなのだろう。
##
翌日から無事開催されたホムンクルスの個人授業は、確かにすぐに終わった。
培養液の作り方、ホムンクルスの種の作り方、複製対象の情報の取り込み方――それらすべてが丸一日で終わってしまった。
時はつつがなく進み、星は変わらず巡り、決闘の日はいつもと同じように訪れる。
澄んだ空の青さが、皮肉なくらい眩しい。
闘技場に集った観客の多さに、ノアは貴賓席で一人溜息をついた。
(どうしてこんなに観客が……)
大きく開けたガラスのない窓から周囲を見たところ、一階席も二階席も貴族や裕福な商人ばかりで、一般人はいない。それでもこれだけの席を埋め尽くす人数が集まるのだから、帝国というものの巨大さが知れる。
ノアのいる三階の貴賓席――仕切られた個室には、他には誰もいない。おそらくここはマグナファリス用の席なのだろう。
そしてマグナファリスはといえば、まだ来ていない。決闘を天覧試合にすると言い出した本人がいない。
また溜息が出る。
この席からでは、すり鉢状の闘技場の底の部分――戦士たちの戦う場は、遠い。これでは導力は届かない。何か話したとしてもここまでは聞こえない。
舞台まで最大速度で行くとすれば、錬金術で近くの壁を変形させて階段を作りながら、駆け下りていくしかない。そしてそんな芸当が可能かと考えると、絶望的な気分になる。階段をつくるのはともかく、運動能力的に。
(まさか、本当にどちらかが死ぬまで戦うとかしないわよね)
祈るしかできない。もしそんなことが本当に起きれば、その時はきっと後先考えずに駆け出してしまうだろうが。
椅子に座り、始まりの時を待っていると、ふと部屋の扉が開いた。
少年が自分で扉を開けて、中にいるノアに驚いた様子もなく平然と入ってくる。
八歳くらいの少年だった。灰色の手入れされた髪、白い陶器のような肌、紫の瞳、利発そうな顔立ち――
育ちの良さそうな服装と雰囲気。
貴賓席がある区画まで入ってこられるのだから、高位貴族の子どもだろう。部屋を間違ったのだろうか。
立ち上がって少年の前に行き、屈んで正面から顔を見つめる。
「ここは危ないですから、戻った方がいいですよ。送りますから」
少年は淀みのない瞳でノアを見つめ返す。
「マグナファリスは安全だと言ったぞ」
(先生っ?)
まさかの名前に驚く。
マグナファリスがここに連れてきたのだろうか。何を考えているのか。
困惑している内に、少年はノアが座っていた隣の席に座る。わくわくした様子で。
「そなたはどちらを応援しているのだ?」
子どもらしい無邪気な問いに、言葉が詰まる。
ヴィクトルには死んでほしくない。こんなところで死なせはしない。
だからといって、ドミトリにも死んでほしくはない。
それでも、どちらかを選べと言われたなら――
「フローゼン侯爵です」
「僕と同じだな」
人懐こい笑みを浮かべ、窓から外の景色をきょろきょろと見回す。
「あ、お祖父様」
そう言った少年の視線の先には、天幕が張られた皇帝の席があった。
皇帝の孫は、四人いる。公爵家の子である、ドミトリ公子、ルスラーン公子、オリガ公女。
そして皇帝の長男の子であり、その死によって皇太子となった八歳の男子。
つまりこの少年は――
(イヴァン皇太子殿下……!)
闘技場が盛大な歓声に沸く。
ざわついた雰囲気が一変し、視線が一点に集中する。
黒い服を着たヴィクトルと、青い服を着たドミトリ公子が、向かい合ったゲートから順に登場する。二人とも同じ長さの剣を持って。遠目で見ただけでは、剣に何か細工がされている様子はない。
主役の登場に場は一気に盛り上がる。
その熱量とは真逆に、ノアの身体は冷えて震えていた。背中にはどっと汗が吹き出している。
「ヴィクトルはとても強いし、頭がいいからな。安心してよいぞ」
「は、はい……」
青ざめながらも、イヴァン皇太子の隣に座る。
護衛はいったい何をしているのか。マグナファリスは? 他の貴族は?
(皇太子殿下がどうしてここに……しかもヴィクトルに懐いてる?)
ヴィクトルを見る目はきらきらと輝いていて、憧れの英雄を見つめるような瞳だ。
普通なら従兄弟であり婚約者の兄であるドミトリを応援するところなのでは。
ノアが知らないうちに、何らかの縁を結んでいる。しかも浅くはないものを。次の皇帝になる少年と。
「もしやそなた、ヴィクトルの婚約者か?」
紫色の宝石のような瞳がノアを見上げる。
「あ、はい。エレノア・ベリリウスです」
「ああやっぱり。ヴィクトルが言っていたとおりだ」
初夏の空のような笑顔を浮かべる。あまりにも眩しい。どんな話をしたのだろう。
「あの、どうしてこちらに?」
「面白い催しがあるとマグナファリスから聞いて、連れ出してもらった!」
(先生!)
皇太子を連れ出したことにも、この部屋に通したことにも、本人が不在なことにも、こんな子どもになんてものを見せようとするのかということにも、困惑と憤りしかない。
無邪気に熱視線を剣士二人に注ぐイヴァン皇太子の隣で、ノアは今までにない緊張感を感じていた。
(傷ひとつ負わせるわけにはいかない……)
いまの願いはただ一つ。
(何事も起きませんように!)






