5-23 蜂蜜のクッキー
空中庭園を出て、急いで賓客室へ向かう。
どうして忘れていたのか。
記憶を取り戻したとき、新しい情報と古い記憶が激しく混ざり、掻き回されて、流されてしまったのか。
記憶を失っていたときはまったく気にしていなかったことが、この事態を招いた。
あの時にちゃんと気にしていれば、どこかのタイミングで対処できたはず。
(とにかく、確認しないと)
反省は後にする。
まず公爵家から回収し、確認しなければ気が済まない。一度部屋に戻り、計画を立て、準備をして、着替えて――
「どこへ行く気だ」
廊下を歩いていたノアを、落ち着いた声が咎めてくる。
「勝利の乙女が戦いの前に出歩くものではない。加護を与える相手を思い、おとなしく祈っておけ」
マグナファリスが壁に肩を付きながら、こちらを眺めていた。
抜け出そうとしていたことが読まれている。
ノアは、迷った。
(先生に相談するべき?)
マグナファリスも賢者の石の失敗作については気にしていた。だが、マグナファリスが誰の味方なのかが読みきれない。
誰の味方でもないと思っていた。
だから誰の敵にもなりえると。そういう政治的なものは気にせず、自由に生きていると。
「先生に預けたナイフのこと、覚えていますか?」
「……ああ、そういうものもあったな」
「でしたら――」
「エレノアール」
話を遮られる。
「私は研究と平穏は好きだが、政治はどうでもいい。争いは好かん」
「決闘を勧めておいて?」
この話の流れでは不要なことだったが、どうしても口を突いて出る。
「あれはそうした方があの場は平穏に収まりそうだったからだ」
呆れたように息を吐く。
「君の攻撃的手法ではその場は切り抜けられても、すぐに別の問題が生まれる。それを攻撃的手法で突破して、突破して、行き着く先はどちらかの破滅だ」
自嘲気味に笑う。
「私のも単なる時間稼ぎに過ぎないがな。時間があるということは、その間に対策が立てられるということだ」
「つまりいまは手を出すなと?」
「物事には優先順位がある」
「…………」
マグナファリスは公爵家にあのナイフがあることを知っていて、明言しないようにしている。ノアが手を出さないように釘を刺してくる。
「先生らしくありませんね」
「君はいつまでもまっすぐだ。その刃は深く刺さる。が、横からの力で簡単に折れる。柔軟さを学べ。折れぬ柔軟さと、切れる鋭さを併せ持て」
――確かに、短慮ではある。
「もし君が行けば、私は君を捕まえに行く。公爵家に投げ渡す」
そうなれば、その後に起こることは考えるまでもない。
「それが嫌なら私を出し抜く方法を考えるといい」
マグナファリスは親切に忠告してくれている。それは本当なら感謝すべきことだ。
「それでも、このままにはしておけません」
「その情熱はどこから来るのか」
「超えてしまった人たちに会ったからです。あんなことはもう見過ごせない。先生こそ、どうして今更無関心になったのですか? 誰の味方ですか?」
「ふむ。ならば聞くが、目的のものを回収したとして、どう証明する? 誰に訴える? 誰が裁く。誰を?」
「それよりも、これ以上の拡散を止めることの方が大事です」
言いながら気づいた。これは考え方の違いだ。
ノアはいますぐ止めたい。マグナファリスは全容を見ることを望み、敢えていまは泳がせようとしている。そのためになら多少の犠牲が出ても仕方ない、と。
「私は誰の味方でもない……約束のものは明日には用意できる。おとなしく、楽しみにして待っておけ」
##
結局、その夜は大皇宮で過ごした。マグナファリスの理屈に納得したわけではない。単純に、賓客室から出ることが不可能だった。
室内の扉や壁や床や天井、窓は錬金術も物理的な力も通用せず、脱出ができなかった。さすがはマグナファリスの貴賓室である、と感心する。
できないことはできない。早々に諦めて、翌日のために早めにベッドで横になった。
扉の外から声が聞こえたのは、朝早くのことだった。
「ノア様、いる? 入っていい?」
(あれ……? いつの間にか、帰ってきてた……?)
いまだまどろみの中にあって働かない頭で考えながら、瞼を開く。見えたのはやはり、大皇宮の貴賓室。
慌ててベッドから飛び降り、部屋の中を走る。無駄なほどの広さをもどかしく感じながら。
昨夜どれだけ苦労しても開かなかった扉は、中から引くとあっさりと開く。
「ナギ!」
「うわっ、なんて顔してんだよ。ちゃんと食べてんのか?」
部屋の前にいたナギは、驚いた顔でノアを見上げる。大皇宮の中に相応しい、綺麗な服を着て。
変わらない声に、様子に、胸が震える。
会えなかったのは、ほんの数日のことなのに。
「ほら、ニールさんからの差し入れ」
ナギは頭に被っていた帽子を脱いで脇に挟み、ポケットから白い布袋を取り出し、ノアに突き出す。
懐かしい匂いが漂う。この甘い香りは、蜂蜜のクッキーだ。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「コーヒーが飲みたいぃ」
「はぁ? あの苦いやつの何がいいんだ?」
賓客室のソファにナギと並んで座り、間に蜂蜜クッキーを置いて、懐かしい味を噛みしめる。フローゼン領にいた頃よく食べた味が、全身に染み渡る。
「やっぱりニールさんは天才! 美味しい!――それで、どうしてナギだけでここに?」
「使者にオレだけ呼ばれたんだよ……途中までは旦那様に送ってもらえたけど」
「ヴィクトルも来てるの?」
近くにいるのなら、会いたい。
「建物の中に入るまでは、いっしょだった」
そこで別れたのなら、この広大な大皇宮で出会える可能性は限りなく低い。残念だが諦める。
「それからはオレと年が近そうなやつに案内してもらった。変な仮面付けてたけど、割といいやつだったな……はぁー、ここに入る日が来るなんて思わなかったよ」
帝都の路地裏暮らしのナギにとっては、ずっと見えていた場所であり、近くて一番遠い場所だったに違いない。
ナギを呼んだのはマグナファリスだろう。でなければナギがノアのところに来られるはずがない。
「あ、旦那様からの伝言。ノア様の無くしたペーパーナイフ、見つかったけど装飾がちょっと欠けてるかもって」
「……ありがとう。良かった」
昨日レジーナに頼んだ伝言の返答だ。
ナイフとは、賢者の石の失敗作が塗られたナイフのことを指す。見つかった、というのは回収できているということ。欠けているかも、というのは全数回収できているかはわからない、ということだろう。
(とりあえず、良かった……)
これ以上の拡散はひとまず抑えられるだろう。
あとは事故が起こらないように封印しに行かなければならない。やはり今夜あたり抜け出すことに決める。朝までに戻ってくれば問題ない。
「家の方はどう?」
「んー、みんな何となくピリピリしてる。なんかバタバタしてるし。そろそろ領地に帰るのかも」
帰り支度でもあるのだろうが。
万が一のことが起こったときの準備でもあるのだろう。すぐに帝都を脱出できるように。
「ノア様も、早く帰ってこないと置いてかれるよ」
「それは困る……」
「オレが連れ出してやろうか」
ノアは目を瞬かせ、ナギの顔を見つめる。
ナギはとても真面目に言っている。
「ありがとう。でも、帰る時は自分でここを出ていくわ」
「ちぇっ、本気にしてないだろ」
「ううん。ちゃんと信じてる」
ナギは強い。
しかもどんどん逞しくなっていっている。これからの成長が本当に楽しみで、できればこれからも見守っていきたいと思う。
ナギは拗ねたように顔を反対側に向けた。首が赤い。怒らせてしまったのだろうか。
その時、ノックもなしに扉が開いた。
「――ああ、揃っているな」
白いローブを着た女性、マグナファリスが蒼い髪をさらりと揺らして入ってくる。
「先生」
立ち上がり、顔を見る。
いつもと変わらない表情。何を考えているのかわからない顔。
昨日の口論などなかったかのような、落ち着いた雰囲気だった。
いまだにわだかまりを抱えているのはノアの方だけだ。それが少し腹立たしくもあり、寂しくもあった。
「服を着替えて、六階まで来い。約束の授業を始めよう」






