5-20 バーミリオン卿と空
ヴィクトルが公爵家の敷地内から無事去るのを確認してから、マグナファリスの後ろについて離れから出る。兵の前を堂々と歩き、最後にドミトリに一礼して。
夜はまだ深い。外には冷たい風がゆるやかに吹いていた。借りた上着の前を合わせ、身体が冷えないようにする。
マグナファリスは正門に向かうのではなく、その反対、離れの裏側へ歩いていく。飛竜との戦いで無残な姿になった庭の端を通りながら。
「先生、約束してください」
人の気配がなくなってから、前を歩く背中へ呼びかける。
「もう二度と記憶を触らないと」
「君にはもうしないさ。同じいたずらは芸がない」
振り返らずに答える。
(いたずら……)
マグナファリスにとってはその程度のことなのだろう。言質を取れたのはいいが、複雑な気分になる。
「さて、この辺りでいいか」
他の誰もいない、誰の視線も感じない場所で歩みを止める。高い塀の近く、大きな木の茂る敷地の端で。
すっと持ち上げた右手の指先が光っていた。そのまま、上から下へと振り下ろす。何もないところに光の線が一本、描かれた。
その線が、ぱっくりと口を開いたように割れ、穴が開く。
(空間を操る力……)
マグナファリスは亜空間ポーチをつくった錬金術師でもある。
別の空間に、サイズの制約はあるがあらゆるものを収納し、中の時間を止めてしまう道具をつくった錬金術師だ。
このくらい、さほど驚くことでもない。
夜より暗い闇を内包した穴は、大きく広がり、広がり、異空間から何かを呼び寄せた。
最初、小さな山かと思ったそれは、黒い鱗に覆われた巨大な身体だった。
眠りに閉ざされた眼、太く長い首、背から生える一対の翼。それは先ほど見たばかりの、忘れられるはずもない姿。
(飛竜……!)
つい先ほどのこともあり、身構える。
そもそも飛竜という存在自体にあまりいい思い出がない。先ほどのこともあるが、王国時代の最後の記憶は、飛竜の群れに包囲された景色だ。
王国では軍事力としても活用されていた神性生物が、いま目の前で、丸くなって眠っている。
「紹介しよう。バーミリオン卿だ」
マグナファリスは寝ている飛竜の横に立ち、人間のように――否、人間よりも敬意を払い、紹介する。少し自慢げに。
「バーミリオン卿……?」
飛竜に個体名が付けられることは珍しいことではない。ノアが知るものよりいささか大仰な名前ではあったが。
「……こちらもホムンクルスですか?」
できるだけ動揺を抑え、質問する。
「バーミリオン卿はホムンクルスではない、本物の飛竜だ。君たちが立ち向かったのはホムンクルスだがな。よくできていただろう?」
「…………」
「どうした?」
「いえ……何故、ホムンクルスを公爵家に差し向けたのですか」
悪びれないマグナファリスに、一番の疑問をぶつける。
「誤解するな。狙いは侯爵だ」
「なっ?」
どうしてマグナファリスがヴィクトルを狙うのか。
「また、誰かからの依頼ですか」
「違う。少し試練を与えてやろうと思っただけだ。あまりにも生意気なことを言うものだから」
「いったい何を――」
「侯爵は、昨日すぐに私のところまでやってきた」
目を細め、バーミリオン卿の頭を優しく撫でる。
「錬金術師が欲しいなら紹介してやるし、なんなら私が侯爵のものになってやろうと言ったのに、あの男」
喉の奥で笑い、ノアをじっと見つめる。
「私はついぞ愛というものは理解できなかったが」
遠くに向けられた眼差しは少し寂しそうで。
「なんとまあ、愚かでひたむきで、可愛らしいものか」
――何を言ったのだろう。
マグナファリスは満足しているように見えた。ずっと抱えていた疑問の、答えの一つを見つけたように。
借りた上着に顔をうずめる。
別れたばかりなのに、もう会いたい。話がしたい。顔が見たい。手を握りたい。
(会いたい)
早く会いたい。
(……弱気になってる場合じゃない!)
自らに活を入れ、顔を上げる。
また会うために、ヴィクトルを幸せにするために、こんなところで弱気になっていてはいけない。
(私は、私にできることをする)
「さて、バーミリオン卿。そろそろ起きてくれ」
飛竜の頭に手を触れたままマグナファリスが呼びかけると、ぴったりと閉ざされていた瞼がくるりと開く。
金色の大きな目が夜闇に輝いた。
「エレノアール、君は飛竜とはあまり関わりがなかったな。竜と錬金術師は導力で繋がれることは知っているだろう。挨拶をするといい」
「失礼します」
言われた通りに、導力を飛竜と繋ぐ。細く薄く。
金色の目が、ノアを見る。落ち着かない気持ちで深く一礼した。
「はじめまして、バーミリオン卿。エレノアールと申します」
《ふん。主と同種にしては、まだしも礼儀はわきまえているか》
聞き覚えのある声が、頭の中に直接響く。
ホムンクルスの飛竜の叫びと、同じ声だった。
頭から冷水を浴びせかけられた心地になるが、それよりも何よりも、飛竜の話し方が理知的なことに驚いた。湖のような広く深い知性が窺える。
飛竜は知能が高いと聞いていたが、ここまでとは思わなかった。
それともバーミリオン卿が特別なのか。
この時代まで生き残り、マグナファリスが寵愛している飛竜だ。特別でないわけがない。
《錬金術師というものは礼儀を知らぬ。そなたがそうではないことを願う》
トカゲ呼びしたことバレていないことを願う。
「ご期待に添えるよう、努力します」
最大の敬意を払い、礼をする。
「話の続きは帰ってからにしよう。さてエレノアール、空を飛んだことはあるか?」
「私は歩いていきます」
「バーミリオン卿の背に乗れるなんて、こんなチャンスは滅多にないぞ」
「いえ、遠慮しておきます」
いまだに高いところは怖い。
二階程度の高さでさえ足が竦むのに、飛竜に乗って空を飛ぶなんて無理だ。絶対に気絶して落下する。
マグナファリスの手が、ノアの肩をぐっとつかむ。
「安心しろ。バーミリオン卿は荷を絶対に落とさない」
いままで見たこともない爽やかな笑顔だった。
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眼前にはどこまでも続く空。
上には満天の星。
下には人の灯火。
風を操る飛竜とひとつになり、絵画のような世界を飛ぶ。
ノアは高揚していた。
言葉が出ないほど、この感覚に没頭していた。陶酔していた。
空を、飛んでいる。
恐怖は忘れていた。この高さ、この速さ、共に現実感がなさすぎて。
「ほら、いい体験だろう」
マグナファリスがバーミリオン卿の首の付け根辺りに座り、笑っている。
長い髪を揺らす風は、ゆったりと柔らかい。
「はい」
鞍も手綱も命綱もないのに、身体も心も驚くほど安定している。飛竜の風を操る力のおかげなのだろう。
「素直でよろしい。卿、もう少し帝都の上を楽しもうか」
夢でしかありえないような体験は、空の端が白くなり始めるまで続いた。






