1-11 エレノアールの万能薬
「この馬鹿!」
危険はひとまず去ったと判断できた直後、ノアはヴィクトルに掴みかかった。
掴みかかるといっても体格差があるのでほとんどぶら下がるような格好になる。
身長でも体格でも、実際に積み重ねてきた年齢でも敵わないような相手に、戦いの勢いのまま、胸を沸かせる勢いのままに叫んだ。
「あなた領主なんでしょう? 死んだら街のひと皆困るんでしょう? そんな人が、ひとりで無茶するんじゃない!」
「すまない」
意外と素直に謝られて困惑しながら、胸ぐらを掴んでいた手を放して後ろに下がる。
ヴィクトルは憂いを帯びた眼差しで顔を逸らし、剣を鞘に納めた。
「私には時間がないんだ」
ああこれは、おとなしく帰る気はない。
ノアはポーチから縄を取り出す。錬金術でつくった縄はノアの導力によって思考通りに自在に動く。先を操ってヴィクトルの上半身をぐるぐるに巻いて拘束するなんてことも動作もないことだ。
「なっ? なんだこれは!」
「ニールさん、これ持ってて」
「ああぁ……本当にやるなんて……旦那様申し訳ございません……後でどんな罰も受けます」
「ノア! どういうつもりだ! たとえあなたと言えど――」
「これくらいしないと、まともに私を見てくれないでしょう」
ヴィクトルは怒っている。怒りの戸惑いの表情でノアを見ている。
初めて、自分自身を正面からきちんと見てもらえた気がした。
彼が本気になれば縄から抜け出すのはかんたんなはずだ。腕は縛ってあるが足は自由だ。
そうしないのはノアがどんな行動をするか見ているから。
ため息をつく。
「自分の手持ち時間があとどれくらいかなんて、誰にもわからないわ」
三年時を飛ばすつもりが三百年飛ばされるケースもある。
だから時間がないとかいう言葉では納得できない。それでも、ヴィクトルがひどく焦っていることはわかる。
落ち着いて、なんて言葉は届かない。
何がわかる、とか言われるだけ。
ノアはポーチに手を入れて、亜空間の中から一番大切なものを取り出した。
「はい。これ上げるからいまは我慢して」
ルビーのような輝きを放つ液体の入った小瓶。
「不死の霊薬までとはいかないけれど、万病や致死の傷を治す薬よ。私のひとつの到達点」
人体修復の力を薬で再現するためにつくった、強い命の源と、複雑な術式をいくつも重ねた、いわゆる万能薬。
「これならもしかしたら、あなたの妹の身体は元に戻るかもしれない。あくまでもしかしたら、だけど」
ノアにとっても未知の病だったので断定はできない。薬の効能には自信があったが、ノアは自信家ではない。
小瓶をヴィクトルの胸のポケットに差し込む。
ノアはまっすぐに、困惑するヴィクトルの目を見つめた。
「けれどこれだけは覚えていて。死んだ人間は治せない」
青い瞳は宝石よりも美しく。
かつての婚約者に、そこだけはよく似ていた。
「この薬でも、不死の霊薬でも。身体は治せても、魂を呼び戻すことはできないの」
死者の復活なんて、それこそ何回も試した。
ノアだけではない。先達の錬金術師たちも。
それでも誰もその領域へ踏み込むことはできなかった。
「あとその薬、一回分しかないから。もう二度と作れないので大切に使って」
風の音が、街の静けさが沁み入ってくる。
戦いによる興奮状態が少しずつ落ち着いていくのがわかった。
ノアは小さく咳払いをした。
「とにかく、ひとりで王都を探索なんて無理です。私も探索に協力しますから、いまは戻りましょう」
縄をほどく。
その刹那。
強い風の唸りが聞こえた。
激しい突風が真後ろから吹き付け、身体が飛ばされ地面に倒れる。衝撃で一瞬意識が飛ぶ。
正気を取り戻したとき、ノアの身体は空を飛んでいた。
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冷たい暴風が肌を切る。
眼下に見える地面が、王都の姿が、遠い。城の頂点からでも見られないような景色に、身体が凍りつく。
強く締め付けられ、息が詰まる。
巻きついているのは太い蛇だった。鱗に覆われた紫色の肌が艶めかしく光っている。
「えれの、あーる!」
歓喜の声が頭上から響く。何とか身体を捻って視界を動かすと、鳥頭竜翼、獅子の身体に蛇の尾を持つキメラの姿が見えた。
アリオスを襲ったキメラと同じ姿。同じ個体とは限らないが。
キメラは城の方へ飛んでいく。悠然と翼をはためかせて。
「ぐっ……」
全身が強く締め付けられる。骨が悲鳴を上げるような強さで。
キメラはノアの苦しさなどまったく気にする様子もなく、子どものようにはしゃいで歌う。
「えれの、あーる! えみり、あーな、ナル! ナル!」
ぞっとした。自らの正気すら疑った。狂っている方がまだ救いがある。
(冗談じゃない! 来い、来い、来い――!)
冷静さをかなぐり捨て、必死で指先に呪を集める。
大地に濃く存在する呪素は、空からは遠い。しかし空にもわずかに存在する。
硬い鱗を貫くために自らの指先を変化させ、爪を鋭く伸ばす。激痛を伴う荒業だが、いまはどんな痛みも、どんな苦しみも、感じない。
腹部に巻き付く蛇に、爪を立てた。
鱗の隙間から肉を刺し、中に呪素を流し込む。魂を蝕む呪いを。
蛇がビクリと痙攣し、縛っていた力が緩む。
そしてそのまま空中に投げ捨てられた。
落ちる。墜ちる。
ノアは迫りくる地面を見た。
下は石と土だけの荒れ地だ。おそらく元は貴族の邸宅があった場所。徹底的に破壊されて石しか残ってはいない。
墜落部分の地面をやわらかくして、クッションにしようとした、が。
力が入らない。
錬金術の使いすぎによる、導力切れ。
初歩中の初歩のミス。
(あ、これ死んだかも)
風を受けながら、他人事のように思った。