5-19 いつかの未来の話
「それはいい! 名案だ、マグナファリス殿!」
ドミトリは喜びに打ち震える。
「もちろん、侯爵が受けないのであればそれまでだが」
マグナファリスは含みを持たせた笑みでヴィクトルを見る。
ここで断れば、その不名誉な噂は瞬く間に帝都中に広まるだろう――そう言いたげに。
しかし決闘を受けたとすれば、無事勝敗がついたとして、それで終わる話ではない。
ヴィクトルはきっと――確実に――勝つ。敗北の屈辱をドミトリは受け入れるだろうか。おそらく禍根が残る。もし命のやり取りにまで至れば、公爵家がそれを許すとは思えない。たとえ正々堂々とした勝負の結果であろうとも。
そしてそれは、ノア自身にも同じことが言えた。
たとえ正当な勝負の結果であろうとも。
受け入れられるとは思えない。
「……ヴィクトル」
背中を見上げ、呼ぶ。
「あなたの築いてきたものは、こんなことでは揺らがない」
振り返らない背中に向けて伝える。ヴィクトルの表情は見えない。
いまさらこんな不名誉がどうだというのか。
ヴィクトル自身がこれまで築いてきたものは、決闘を断ったぐらいで揺らぐものではない。積み上がった功績も、領民からの信頼も。
「おやおや。ここの勝負は貴殿の負けだな。ドミトリ公子」
「くっ……」
「だがな、ご令嬢」
マグナファリスがノアを見る。
その瞳から思わず視線を逸らす。
「決闘というものは断れるものではないのだ。ここに、証人もいる。不名誉の名は、子々孫々に伝わるぞ」
諭すような言い方だが、これは命令だ。決闘の命令。状況はもう引き返せないところまで来ている。
「侯爵にも利はある。ここで受ければ、侵入劇については不問としよう。公子もこんな些事で水を差したくないだろう」
「もちろんだとも」
話はつつがなく進む。もう個人の意思など関係なく。
ヴィクトルは嘆息と共に、瞼を下ろした。
「……わかった。この決闘、受けよう。ただし禍根は残らぬように、陛下の前での誓約を」
運命は突き進む。もう、引き返せないところまで。
「よくぞ決心なされた。さすがはフローゼン侯爵だ」
侯爵と次期公爵の決闘が決まり、マグナファリスは嬉しそうに笑う。
そのまま軽い足取りで室内を歩き、ノアの前までやってくる。
「皇帝陛下もお喜びになろう。さて、勝利の乙女は公平を期すため私が大皇宮で預かろうか」
「勝手に決めないでください」
決闘の賞品扱いにされることも受け入れがたいのに、これ以上拘束されるのは避けたい。それもマグナファリスの手によって。
「まあそう言うな」
記憶を消したことなど忘れたように、ノアの肩に気軽に手を置く。
耳元に顔を寄せ、囁く。
「――ホムンクルスのすべてを教えてやる」
それはいま最も欲しいもののひとつ。ナギの右手を治療するために必要な知識だった。
「…………」
マグナファリスの整った顔を見つめる。いつもと同じ、笑みを湛えた内心の読めない表情。
彼女が何を考えているのか、いままで一度たりとも読めたことはない。
何故こんなに決闘のお膳立てをしたがっているのかも。
何が狙いであろうと、
マグナファリスはホムンクルスの研究者でもあることは間違いない。
ホムンクルスだけではない。彼女は何でも知っている。王国の錬金術の祖はマグナファリスだと言われていた。
彼女の知る知識は、ノアが知るそれより何千倍も深い。
彼女が見ている景色は、ノアの何千倍も広い。
マグナファリスはすべてをわかった上で、すべてを支配し、楽しんでいる。同じ盤上で戦って勝てるはずがない。
「……わかりました」
「うん。話はまとまったな」
ノアの背後に回り、背中を押す。
「待ってほしい」
「どうかしたか。侯爵」
「少しだけ、ノアと話をさせてもらいたい」
「ああ、最後の会話になるかもしれないからな。私たちは外で待つことにしようか、ドミトリ公子」
ドミトリは渋い顔をしたが、マグナファリスに促されて部屋から出ていった。
##
扉が閉まると、部屋にふたりきりとなる。
先ほどまでの騒々しさが嘘のように静かになった。
もうこのまま二人で逃げ出したいと思った。いまのノアにならそれができる。
「ノア、これを」
ヴィクトルから黒の上着を渡される。
受け取ると、内側にノアの亜空間ポーチがあることに気づいた。
「ナギから預かったものだ。マグナファリス殿から渡されたと言っていた」
「ありがとう……」
嬉しくも複雑な気分だった。正直、もう半分諦めていたのだが、まさかそんな経由で戻ってくるとは。マグナファリスの考えていることがますますわからない。
夜着の帯にポーチを通し、落ちないようにしっかりと腰に巻き付け固定する。
ともかくこれさえあれば、大抵のことはなんとかなる。
ヴィクトルの上着を羽織りながら、問いかける。
「蒸気機関の研究者とのお話はどうだった?」
「面白い人だった。あなたともきっと話が合うだろう」
「行けなくて、ごめんなさい」
「また機会はある」
「うん」
「――ノア」
名前を呼ぶ声はいつになく真剣で。
その眼差しも同様だった。
嫌な予感がした。
「死ぬつもりはないが、向こうが何をしてくるかは未知数だ」
「うん……」
相手は公爵家。
皇帝に次ぐ力を持ち、錬金術師を何人も抱えているという噂のある公爵家。
「私にもしものことがあったときは、後のことは頼む」
「…………」
聞きたくない言葉が、身体に響き、胸を締め付ける。
「これまで準備は整えてきたつもりだが、最初は混乱するだろう。あなたになら、皆ついてくる」
――ヴィクトルは、自分が不在でも領地が回るように、ずっと制度の整備を続けてきた。領地の運営を各部門に分け、責任者を置き、任せてきた。領主の務めとして。
しかし、もし本当に事があれば、領地は混乱を極めるだろう。ヴィクトルは領民の精神的支柱でもある。
その役割をノアに任せるという。
(――嫌だ)
できるかできないかで言えば、その状況になれば、ノアはきっと立つだろう。表で動くか、裏で動くかはわからないが、ヴィクトルの残したものを守るために行動するだろう。
ヴィクトルの守りたいものは、ノアの守りたいものだ。
だが、そんな未来は想像もしたくない。
ヴィクトルが、自分の死すら冷静に見つめているのが悲しい。とっくに覚悟を決めていることが、苦しい。
彼はきっと、ずっと死ぬための準備をしていた。いつその時が来てもいいように。
ノアが一番守りたいものを、ヴィクトルは必要があれば手放そうとする。それが悔しい。
「うん、決めた」
決意し、深く頷く。
ヴィクトルの顔を見上げ、笑う。
「ヴィクトル、私あなたを幸せにする」
驚いている顔が、珍しくて、おかしくて。また笑う。
「些細なことで笑いあって、美味しいものたくさんいっしょに食べて、やりたいこと我慢せずにいっぱいして」
それは、かんたんに想像できる未来。
陽だまりの中、穏やかな空の下の世界。
「最期はたくさんの子どもと孫や、大切な家族に囲まれて、悪くない人生だったなって、笑って眠るの。私はそれを見届けて、お疲れ様って言って、もし私が先に死んていたら迎えにいく」
「夢のような話だな」
「夢は実現するわ。私は錬金術師だもの」
笑っているのに。笑っているのに、何故だろう。涙が出る。
本当は、いますぐヴィクトルの手を取り、誰も知らない場所に逃げてしまいたい。だがそんなことはヴィクトル自身も望みはしないだろう。
逃げることは解決にはならない。だから立ち向かう。理不尽な運命は変えてみせる。絶対に。
「だから、死なないで」






