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5-17 本当の名前




「外が落ち着いたら、朝が来るまでに帰ってください」

「それはできない」

「アバラが折れている方に、お荷物は抱えさせられません」

「これぐらいはかすり傷だ」

「わがまま言わないでください」


 身体に包帯を巻きながらぴしゃりと言う。包帯及び手当て用の薬は、離れ内の物置から借りてきたものだ。

 飛竜に圧迫された影響で、肋骨の骨折、皮膚の裂傷と出血等、様々なダメージを負っている。むしろこのくらいで済んだのが奇跡だ。

 この状態で自分を抱えて公爵邸を脱出するのは不可能としか思えない。


「明日になれば、私からあなたのところに伺いますから。そうしたら、たくさん話を聞かせてください」

「あの男があなたを離すとは思えない」

 ドミトリのことだろうか。公子と侯爵、どちらも高位貴族だから面識はあるだろうが、いったいどんな関係なのだろう。


 自分はヴィクトルの婚約者らしいが、ドミトリはそれを知っているのだろうか。おそらく知らない。きっと誰も知らない。知られているなら、もっと早く、別のかたちでヴィクトルと会っていただろう。

「オリガ様にお願いします」

 公女の名前を出すと意外そうな表情をした。


「オリガ様なら私が出ていくのを快く手伝ってくださると思います」

 次期公爵に近づく正体不明の女など、血統を重んじる一族には不要だろう。公女で無理なら公爵夫人に頼むつもりだった。


「……侵入者の痕跡に気づかないほど愚かな男ではない。今後はますます警備を固め、あなたを誰の手も届かないところに閉じ込めるだろう」

 侵入者その人が言ってくる。

 痕跡――気絶させられた複数の警備兵、裏口の破壊された扉、武器庫の破壊された扉、持ち出された剣と槍とナイフ。離れの内外に残る足跡、この部屋の血痕。


「…………」

 誰のせいかと言いたくなるが、言っても仕方のないことだ。それに、部屋に入れたのは自分自身。自業自得。

 もう、どんな言い訳も通じない状況だ。何もなかったことにはできない。


 できるのは、部屋に来た侵入者に抵抗して追い払ったと言うか、もしくは何も気づかなかったと言い張り、侵入者は部屋まで来たが何もせずに出ていったことにするかだけ。

 無理がある話だ。誰が納得するというのか。


 ドミトリが激昂すれば、それこそヴィクトルの言うとおりになる可能性もある。

 それは困る。

 非常に困る。


「……わかりました」

 現状は変わらない。ならば腹をくくる。

「私を攫ってください」

 一度だけ。

 一度だけヴィクトルを信じてみることに決める。


「失敗したら諦めてください」

 一度だけの賭け。

 侵入者の痕跡はもう隠せない。加えて侵入者に味方したと知られたら、激しい怒りを買うだろう。そこはなんとか誤魔化せても、更に自由を奪われるのは間違いない。


 それならいっそ本当に攫われる。

 もし途中で妨害されても、こちらは誘拐の被害者になる。被害者ならば非は少なくなるかもしれない。

 卑怯な選択をしている自覚はある。


「承った」

 立ち上がったヴィクトルは不敵に笑っていた。

 こちらの思惑がわかっていないはずがないのに、どこか嬉しそうだった。

 いったい以前はどんな関係だったのだろう。

 公爵家という高位貴族の屋敷に忍び込んで、飛竜とまで戦って、怪我をしても笑っているなんて。


「侯爵様は、以前の私が好きだったんですね」

 零れた声の響きに、自分で驚く。これではまるで拗ねているみたいだ。

 思わず顔を逸らし、目を伏せる。顔を見られたくない。


「ごめんなさい。変なことを……」

「過去の話ではない」

 低く響く声に顔を上げる。

 真剣な青い瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。


「記憶を失おうと、あなた自身は何も変わっていない。あなたを愛するこの気持ちも、変わるはずもない」

 真摯な言葉が胸を打つ。だが困惑する。いまの自分には、愛してもらえる理由がない。

 何故、こんなことが気になるのか。こんなことに悩むのか。


(信じられない)

 自分が信じられない。

 熱に浮かされた心で、ただ純粋に信じられたなら、どれだけよかっただろう。

 激しく脈打つ心臓が痛い。

 震える指先を、服の裾を握って抑え込む。


「侯爵様……私の本当の名前を知っていますか」

 気持ちを切り替えるために、ずっと聞きそびれていたことを問いかける。

「エレノアール」

 一瞬の迷いもなく紡がれたのは、あの名前と似た響きで、そして違う名前だった。

「エレノアール・エリンシア・ルーキス」



##



 それは水だった。

 冷たく透き通った甘い水が、乾いた記憶に染み渡る。

 冴えた頭が、今度は熱くなる。頭だけではない。全身が、血が、熱い。やけどしそうなほどに。

 封印の氷が溶けて、どろどろと溶かされ、沸き立ち、溢れる。隠されていた記憶と知識と共に。


 押し寄せる感覚のうねりの強さに耐えるため、頭を抱えて目を閉じる。

「ノア!」

 心配する声が遠くで聞こえる。

 この時代に来て、新たな自分として生きるために名乗った名前。


「ヴィクトル……」

「――――っ」

 短く息を飲む音。

 涙で滲む視界に、驚いているような、安堵しているような、泣きそうな顔が見えた。

「ノア」

 声が震えている。


 傷だらけの身体を抱きしめる。

 背に触れ、折れた肋骨を修復する。繋げ、固定し。全身の裂傷や内出血、傷ついたものすべてを。

 両腕で抱きしめ返される。まだあちこち痛いはずなのに、構わずに。

 うわ言のように名前を呼ぶ声が頭の上に落ちてくる。何度も、何度も。


「ヴィクトル」

 答えるように名を呼ぶと抱きしめられる力が強くなる。

 苦しい。だが、あたたかい。

 ずっと凍えていたことに気づく。もっと、もっと触れたい。熱が欲しい。

 深い傷の治療を済ませ、顔を上げる。


 大きな指に輪郭をなぞられる。くすぐったいような、切ないような気持ちになった。

 顔が、瞳が、近い。瞳に映る顔は泣いていた。

 顎に指が沿う。息を止め、目を閉じた。


 唇が重なる。

 押し寄せる感情、湧き上がる感情、すべて受け入れて。

 愛しい人を抱きしめ、身体を寄せた。




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