5-15 揺らぎ、込み上げる
真っ暗な武器庫の中に、ランタンの光が差し込む。
壁にランタンを引っかけて内側を照らす。剣が、槍が、灯に照らされて光る。己の出番を待つかのように、整然と。
「流石良いものを揃えている」
声と足音が地下室によく響く。地下まで下りれば上空の風の音も聞こえてこない。
「弓は使えますか」
視線で質問の意を問われる。
「飛竜は弓矢で翼を傷つけて、落とすのが通例です。生半可な威力では風に弾かれてしまいますが」
「扱えるが、その目的ならば槍の方が適していそうだ」
「槍を投げる気ですか……?」
飛竜は高い場所にいる。槍では重さで威力が殺されてしまいそうだが。
余計な心配かもしれないが。
武器の選定は任せることにして、邪魔にならないように壁際に移動する。
ランタンの揺らぐ光の中で、武器を選ぶ後姿を眺めた。
大きく逞しい背中。服の下にあるしなやかな筋肉と、身体の柔らかさが、飛竜と立ち回ったときのような動きを可能にしている。
どれだけの鍛錬を積み、どれだけの経験を重ねてきたのだろうか。どんなに才能があっても、才能だけではあの胆気と動きは実現できないだろう。
(それにしても――)
公爵家の兵はいつ来るのだろう。これだけの異常事態が起こっているのに、まだその気配は感じられない。
何かトラブルがあったのだろうか。
本館の方で何かあったのかもしれない。
(まさか、侯爵様が陽動を仕掛けたとか)
冷静になってみれば、侯爵がここまでひとりで乗り込んでくるとは考えにくい。手勢の者に陽動をかけさせて、注意をこの離れから逸らしているのではないだろうか。
(まさか、ね……)
それよりも、自分も武器を持っていた方がいいだろうか。剣や槍を持っても重くて振れない役立たずだが、何か一つでも持っていれば、いざという時があるかもしれない。
(ナイフくらいなら)
武器庫の中には小ぶりなナイフもあった。
あのナイフなら、自分も扱える。
ナイフが入っていた箱のところに行き、手を伸ばす。鞘に納められたナイフに触ろうとした時、手首を握られ、止められた。
「触れるな」
鋭い声で止められる。顔を上げて見えたのは、険しい表情だった。
こちらの行動を制しながら、指先の方向にあるナイフを注視している。
「ふん、やはりな」
得心がいったとばかりに独り言を言う。怒りがこちらにまで伝わってくる。声、表情、そして腕を握る手から。
「これには触れないでくれ。毒が塗られている」
「毒っ?」
「死に至る猛毒だ」
言いながら、手を放してナイフを一本、手に取る。
そんなものが何故ここにあるのか。
何故それを腰のベルトに差すのか。
「侯爵様は何を知っているのですか」
「この家のことは少し」
話はそこで終わる。それ以上話す気はないようで、武器の選定に戻っていく。
胸に灯ったのは、もどかしいという感情だった。何かに急き立てられているようなのに、何もできないもどかしさ。
確かに何も覚えていないが、だからこそ知りたいという欲は無限にある。
毎秒押し寄せてくる情報で溺れそうだが、まだ足りない。全然足りない。情報も、整理する時間も。
沈黙をどう受け取ったのか、ヴィクトルがこちらを振り返る。
青い瞳の中に、ランタンの灯が映っていた。
「あなたのことはよく知っている」
「婚約者……でしたっけ」
「そうだ」
侯爵と婚約とは、いったいどんな身分なのだろう。
ふと、オリガ公女の忠告を思い出す。フローゼン侯ヴィクトルは、たくさんの女性を不幸にした悪い男で、女の敵で、目を合わせるとダメ――……
(合わせてしまっている……)
何度も。そしていまも。
「あなたを知れば知るほど、思いは変化していった。人を助ける姿も、勇敢に戦う姿も、微笑みの愛らしさも、涙のあたたかさも」
柔らかな声音で紡がれていくのは、都合のいい相手への評価ではない。
優しくもどこか鋭さを帯びた瞳に灯っているのは、冷静さだけではない。熱だ。
政略的な婚約だと思っていた。貴族の結婚なのだから、そういうものだろうと。
だが、違う。
これは違う。
「あなたの全てに惹かれ、恋焦がれた」
これは、愛の告白だ。
「侯爵様……」
記憶を持って聞いていたら、どんな気持ちだったのだろうか。
自分が人を助ける姿も、戦う姿も、まったく想像もできない。この非力な身体で、本当にそんなことができていたのだろうか。別人のことを言われているかのようだった。
それが、とても辛い。
(どうして)
いまの自分は出逢ったばかりのはずなのに。胸が焦がされるようなこの感情はなんなのか。
「ごめんなさい……」
「謝らないでくれ。あなたのせいではない」
――この人は何を知っているのだろう。
知りたい。この人の知っていた自分のことを。この人のこと。
ちゃんと知りたい。
何も思い出さないかもしれなくとも、それでも。
渇望する。それと同時に恐怖する。
(本当に何も思い出せなかったら、どうしよう……)
以前の記憶にこそ価値があるのなら、それを失ったままで、何ができるのだろう。
できると思いたい。信じられる根拠はある。過去の自分は、できた。
「もし何も思い出せなくても、気に病むこともない。私はこれから新しいあなたを知っていくことができる。それもまた喜びだ」
本当に楽しんでいるように聞こえた。
思わず笑ってしまう。少しだけ、心が軽くなった。
誰かが信じてくれることで、自分のことをより強く信じられる。
「ありがとうございます」
「ああ。私は永遠に、あなたの味方だ」
「永遠は大げさです」
「本心だ」
ヴィクトルは微笑みながら剣を一本、剣帯に差す。折れて、鞘に納められているだけの剣の横に。
槍を二本片手で取る。背中にはナイフを一本、忍ばせるように。
重い武器を軽々扱い、身に着ける。自分の手には一本だけでも重かったが、彼の手にかかると羽根のように軽そうだ。
(この人は、英雄になる人なのかもしれない)
あの飛竜との戦いといい。
今度こそ、本当にひとりで竜を倒してしまうかもしれない。
「……竜族の弱点は、喉元の逆鱗です」
何故こんな知識だけ残っているのだろう。不思議に思いながらも、溢れ出る知識を伝える。
竜という強大な存在に立ち向かうには、人は脆すぎる。それでも戦いに行くというのなら、知る限りのことを伝える。
「宝石のように輝く、甲殻のような鱗。それを傷つけられれば、竜は死にます」
「あの赤い鱗か」
すでに見当がついているらしい。さすがによく見ている。
そしてやはりまったく臆する様子はない。むしろ楽しそうだった。
「死なないでください」
切実な懇願が口から零れた。
瞳を見つめる。心が奪われそうな、深い青。
「私も、あなたのことが知りたい」






