5-14 飛竜の翼
飛竜。
風を操り空を駆ける竜。天空の王者。
その知能は高く、気性は穏やかなはずなのだが。
いま夜の空を飛行している竜の動きは、理性を失ったかのように荒々しい。嵐の如く。
吹き付ける風と飛竜の視線から庇われながら、ヴィクトルの肩越しに空を仰ぐ。
飛竜は通りすがったのではなく、この屋敷に執着し、上空を飛び回っている。まるで機会を伺うように。
いったい何が狙いなのか。何があの竜を呼び寄せたのか。
耳元で、低く優しい声が響く。
「話は後で。まずはあれを片付ける」
「もしかして、戦う気ですか?」
すぐ近くにある顔を見つめる。
その目には、竜への恐れも慢心もない。長き時を経ても雄大に佇む大樹のように、落ち着いている。
「無茶はやめてください。すぐに公爵家の兵が来ます」
飛竜が屋敷の上空を飛び回っているのだ。嵐のような風を吹かせて。すぐに誰かが気づいて兵を呼び、部隊が討伐しに来るはずだ。一人で挑むよりも、統率された部隊に任せた方がいい。
それにそうなればヴィクトルもすぐに見つかる。
たとえ貴族といえども公爵家の敷地に無断で侵入しているのだ。見つかれば捕らえられるだろう。
自身の安全を考えるならすぐに逃げるしかない。だが飛竜を見上げる表情に、迷いはない。
「あれが街を襲えば大きな被害が出る。ここで食い止める」
「……無茶です」
人には可能なことと不可能なことがある。
竜に単身で挑むのは無謀な愚者、あるいは勇者のすることだ。
「ああいう手合いは慣れている」
この人は本当に貴族なのだろうか。
「それにどの道、見逃してはくれないだろう」
ヴィクトルは風が弱まったタイミングで立ち上がり、室内に続く窓を開く。
白いカーテンが大きく翻った。
「あなたは中へ。窓からは離れて、決して外には出ないように」
背中を押され、部屋の中へ避難させられる。窓はすぐに外から閉ざされる。
風と隔離され、はためいていたカーテンが元の位置へと戻っていく。
急いで振り返ると、ヴィクトルは外で飛竜を迎え撃たんとばかりに、こちらに背を向け、腰の剣を抜いていた。
(本当に戦う気?)
軽く床を蹴り、バルコニーの手すりの上に立つ。
剣を振り回すのにはバルコニーは狭い。だからといってこの強風の中、そんな足場の悪いところに立つなんて。
飛竜が上空から滑空してくる。明確にヴィクトルを狙って。
鳥が獲物を捕らえるように、両足を伸ばして。
ヴィクトルはそれを横に跳んで避けると、もう一度跳躍し、飛竜の背中の上に乗る。
更にそこを足場にしてもう一段跳んだ。屋根の上にまで。
姿が消えたかと思うと、降りてくる。剣先を飛竜の背に突き立てるようにして。
しかし切っ先は硬い鱗に弾かれ、喰い込まずに滑る。
不躾な騎手を振り落とそうと暴れる飛竜の背から、慌てることなく飛び降りて、バルコニーの手すりの上に戻ってくる。
軽々とした身のこなし。背に見えない羽が生えているかのようだ。
風が唸る。飛竜の怒りを表すかのように。
牙で肉を引き裂いてくれようとばかりに大きく口を開けて、ヴィクトルの身体に喰らいつこうとする。
ヴィクトルはそれをさらりと躱すかのように、背中を傾けて手すりから降りる。着地の反動で跳んで、開いた口内に剣を差し込み、中から斬り払おうとした。
耳を塞ぎたくなるような、金属同士が激しくぶつかり合う音。
剣が飛竜の口の端で止まる。歯で無遠慮な剣を噛み留めた飛竜は、それを一思いに噛み砕く。剣は折れ、三分の一だけ残った。
飛竜はそのまま後ろに飛び、ヴィクトルと距離を取った。噛み砕いた剣の残骸を吐き捨てて。
(そんな――)
信じられないものを見た。
ヴィクトルは笑っていた。
戦いを楽しんでいるかのように、不敵に。退く気などまったく見えない。
まさかこのまま、折れた剣で戦う気なのか。
(無謀すぎる!)
飛竜と戦う時は部隊を組んで、まず弓矢を使って翼を矢で貫き、飛行能力を奪うのが常だ。
(どうしてこんなことばかり覚えて)
知識の偏りを悔しく思いながらも、いまはそれが役に立つはずと信じる。
ともかく折れた剣一本で戦わせるわけにはいかない。
飛竜が飛ぶ。高く。人の届かないところまで。
上空からヴィクトルを見下ろしている。様子見をしているのかもしれない。
――いまだ。
風が弱まったタイミングで窓を開ける。入り込んでくる風で髪と夜着の裾がふわりと広がった。
「侯爵様、こちらへ」
呼ぶと、一瞬意外そうな顔をしたが、思いのほか素直にこちらに来てくれた。
「どうした」
腕をつかみ、無理やり部屋に引っ張り込む。
「それで飛竜と戦うのは無謀です。武器庫が地下にありますから、こちらへ」
部屋を出て、廊下にかかっているランタンを手に取り、地下へ向かう。
外から響いてくる風の音はいまだに強く、轟々と吹き荒んでいる。
飛竜は風を操る力があるという。それによってあの巨体を飛ばすのだと。
しかし吹き付けてくるのは風だけで、あの身体で直接屋敷を破壊するようなことはしない。リスクに見合わないと思っているのかもしれない。竜は知性の高い生物だ。
もしかしたらあの飛竜は、既にターゲットを定めているのかもしれない。
ヴィクトルか、自分か、そのどちらかを。
それは好都合であり、不都合もあった。
他の場所を襲う危険性は低くなる。
だが長い時間は待ってくれないだろう。時が来れば様子見から強硬手段に変わるだろう。どれだけの時間があるかは、飛竜がどれだけ我慢強いかだけに依存する。
しかしそれもすべて憶測だ。
そもそも竜の意思などわからない。考えてわかるものではない。
(それにしても)
本館の方はまだ異変に気づいていないのだろうか。
離れの屋敷周辺の警備兵はヴィクトルが気絶させていると推測できるので、そのせいで気づくのに時間がかかっているのか。
それとも飛竜への対策ができていないのか。
考えている内に、地下へ辿り着く。早速武器庫の扉を開けようとしたが、鍵がかかっていて開かない。
ルスラーン公子が施錠していたことを思い出す。
「離れてくれ」
言われたとおりに離れると、鋭い蹴りが扉を破る。
激しい音と共にひしゃげる扉を見て思う。
この人は本当に貴族なのだろうか。






