5-12 公爵家の姫
「これより公爵家の姫様、オリガ様がいらっしゃられます」
昼下がり、部屋の椅子で小説を読んでいたところに、シシリィがそう告げてくる。
本を置いて詳細を聞こうとしたところ、部屋の扉がゆっくりと開いたので立ち上がる。
両脇に侍女を引き連れて入ってきたのは、レースをふんだんに使った赤いドレスを着て、豊かな金髪を波打たせた、十歳ぐらいの少女だった。
少女は大人びた凛とした表情で、宝石のように輝く紫色の瞳で、こちらの顔を見上げてくる。
「あなたがドミトリお兄様を誘惑した悪女?」
(誘惑……)
「記憶がないと聞いたけれど、本当かしら」
疑わしげな視線を向けられる。
「お兄様にはちゃんとした婚約者がいらっしゃるのだから、誘惑するなら他の方にしてくださらない」
「えっと……申し訳ありません」
「もちろん、イヴァン様もダメよ。わたくしの婚約者になる御方なのだから。というか、貴族はみんな婚約者がいるものなのだから、誰も誘惑してはダメよ」
「はい」
記憶喪失を装って貴族に近づこうとしていると思われているのだろうか。
そう思われても仕方ない状況なので素直に返事をする。
「ルスラーンお兄様にはまだいないけれど、あなたは公爵家にはふさわしくないわ」
「はい」
「……ずいぶんと聞き分けがいいわね」
「助けていただいたことにはとても感謝しています。ですが、こちらでの生活は分不相応に過ぎると感じています」
「良い心がけね。分はわきまえないといけないものね」
オリガは満足そうに頷く。紫の瞳がきらりと光った。
「特別に忠告しておいてあげる。フローゼン侯ヴィクトル様に関わったらダメよ」
「どうしてですか」
「すっごく美形だけれど、たくさんの女性を不幸にしたすっごく悪い人なの。女の敵よ。目を合わせたらダメよ」
「まあ」
悪い男もいたものだ。
「そういえば最近婚約されたそうだけれど、お相手の方も苦労するでしょうね」
幼い顔で大人びた溜息をつく。
伏せ気味だった顔が再び見上げてくる。
「あなたはこれからどうするつもりなのかしら」
「近くこちらを出て、仕事を探すつもりです」
「よい心がけね」
とても満足そうに頷く。
「庶民の仕事って何があるのかしら。あなたにどんな仕事ができるのかしら。よくわからないけれど、れんきんじゅつし? だけはダメよ」
「それはどのようなお仕事ですか?」
手を顎に当てて考え込む。
「よくわからないわ。ときどき見かけるのだけれど、とても気味が悪いの」
苦々しく呟く。いったいどんな人々なのだろうか。オリガの怯え方からは、彼女にとってはよほど恐ろしい存在なのだと察せられる。
「これは手厳しい」
いつの間にか開いていた扉のところに、白いゆったりとした服を着た女性が立っていた。
濃い蒼の髪が、まるで夜空を紡いだようだった。
そして何よりその瞳。緑の瞳に金の瞳孔が、神秘の光を帯びていた。
「マグナファリス!」
オリガの引きつった叫び声が響く。侍女たちが庇うように前に出た。
「ど、どうしてあなたがここに」
「記憶喪失のご令嬢に興味があってな」
「そう。ならお好きにどうぞ」
言ってオリガは侍女を連れて、逃げるように部屋を出ていく。シシリィもその後について退室していった。
あっという間にマグナファリスと呼ばれた女性とふたりきりとなる。
「嫌われたものだ」
言葉とは裏腹に楽しそうに笑い、閉じた扉を眺める。
「さて」
振り返ったマグナファリスの瞳が、こちらに向けられる。
「気分はいかがかな。エミリアーナ」
またその名前。
初対面のはずの女性は、含みを持たせた声で呼んでくる。
「エミリアーナ・フェリア・ルーキス?」
――違う名前を。
「それは、違う人の名前です」
「ふむ、興味深い。肉体と魂が同じでも、やはり違うものなのだな。個人を分けるものは何なのだろうか」
「それはどういう意味ですか? その名前は、誰のものなのですか」
ひとり呟くマグナファリスに問いかける。
「ドミトリ様もその名前で私を呼びました。天啓があったとおっしゃられていましたが……あなたが教えたのではないですか? マグナファリス様」
「天啓だよ。本人がそう言うのだから、疑っては可哀そうだ」
「…………」
「ふむ、赤子同然のはずなのになかなかに気が強い。おもしろいものだ」
マグナファリスはおそらく、記憶を失う前のこちらのことを知っている。
そしてこの状況を楽しんでいる。
「いい目だ」
しなやかな足取りでバルコニーに面した窓に近づき、窓を開く。
吹き込んできた涼しい風が、髪を揺らした。
「君は記憶を取り戻したいと思うか」
外を見たまま、聞いてくる。
「もちろんです」
「何故」
「生きるため」
振り返った顔には、整った微笑が浮かんでいる。
「思い出さない方が幸せかもしれないぞ」
「その時はその時です」
マグナファリスは破顔し、大きな声で笑い出した。心底楽しそうに、子どものように笑い転げる。
神秘のヴェールを脱ぎ捨てたその姿に、呆気に取られる。
「大いに結構。だがよく考えてみるといい」
目尻に浮かんだ涙を拭い、まだ笑いながらバルコニーに出る。
大きく手を広げ、ローブの袖を風にはためかせる。鳥が翼を広げるように。
「君は籠の鳥だ。しかも生まれたばかりの雛鳥。そんな君が公子の庇護なしに外で生きていけるか。まあ無理だ。それにあの公子はなかなかに苛烈だ。君が出ていくのを許してくれるかな」
「それは……それでも」
「それでも籠の外に出たいというのなら好きにすればいい。ただし、私は君の力にはなれない。公平だからな」
親しげであり突き放すような話し方。
バルコニーの手摺に両手を載せ、気持ちよさそうに空を見上げる。
よく晴れた青空を。
「気をつけるといい。今宵はまた、嵐になる」
##
日が暮れ、夜が更けても、空は晴れたままだった。
ブランケットを肩にかけてバルコニーに出てみたが、風にも雨の気配はない。
マグナファリスの髪のような紺碧の空には無数の星が瞬くだけで、嵐など訪れそうにもない。
(空に気をつけろということ?)
見上げても、もちろん何もいない。
何に気をつければいいのか見当もつかなかった。
シシリィも本館に戻り、離れにはいまひとりきり。もし抜け出すならいまだろうか。警備の兵がいるため簡単には行かないだろうが。
(もし、抜け出すとすれば……)
メイド服を調達してこっそりと、くらいしか思い浮かばない。
(ドミトリ様に普通に言ったほうがいい?)
勝手なことはしないようにと言われた。
ずっと隣で笑っていてほしい、みたいなことも言われた気がする。
(恋愛小説みたいだけど)
今日読んだ小説の中には、恋愛について書かれたものもあった。身分違いの男女が恋に落ちて、様々な障害を乗り越えて結ばれるものだった。シシリィに聞けば大変人気のある作品らしい。
文字を追うことはできたが内容はよく理解できなかった。
運命の出会い、一目惚れ、身を焦がす恋情。
これが人気ということは、皆こんな感情を抱いているのだろうか。もしくはこんな恋に憧れているのだろうか。
よくわからない。
ただ、切ない気持ちはなんとなくわかった。
悲しくて、寂しくて、胸が締め付けられるような感情は。
(私にも恋人がいたのかしら……)
想像もできない。
ドミトリが自分に向けている感情の正体も、解読できない。けれど。
ずっとここにいることはできないと、心が訴えている。
仰いだ空は、広く、高く。
この空を自由に飛ぶことができたなら、どれほど気持ちがいいだろうか。






