5-11 ふたりの公子
一晩考えてわかったことがある。
記憶は失ったが、常識的なものは覚えている。身体に染み込んだこと、生活に必要な知識は。
その他のことはほぼ忘れてしまったと考えていい。
家族や、いままでの人生で出会い、関わった人々、見た風景、声。記憶は虫食いの穴だらけで、見れるものではない。
それでも、生きていかないといけない。
何も思い出せなかったとしても、生きていく力を身につけなければならない。
ここで厚意に甘えて保護されたままではいけない。その厚意がいつまで続くかはわからないのだから。
翌朝。
メイドのシシリィに頼んで、朝食後に書物を十冊持ってきてもらう。子ども向けの本から娯楽小説、専門的な本までジャンルを問わず。
娯楽小説までは引っかかる場所がありながらも読めたが、専門書はお手上げだった。複雑な言葉が理解できない。
己の知識レベルはそれだけを頼りに生きていけるほどではない。
その後は、シシリィに頼んで掃除の手伝いをさせてもらったが、水の入ったバケツをひっくり返すこと三回。シシリィの手間を増やすだけの結果に終わる。
離れ内のキッチンを使って料理もしてみたが、オムレツ、スープ、紅茶を淹れるぐらいはできたが料理人としてやっていけるほどの腕はない。
これまで使用人としてやってきた気配はなく、これからも向いていないだろうということがわかる。
そしてそれらのことで疲労困憊になっているあたり、体力も運動神経も、いくら自分に甘く見積もっても並みレベルだとわかる。
(私、役立たずでは?)
残酷な現実に気づくまでに、長い時間は必要なかった。
(いままでどうやって生きてきたの?)
絶望しかない。
自分でつくった昼食を食べた後は、ひとまず自分探しを休憩して、屋敷の中を散歩の代わりにうろうろと歩き回る。
危険だから決して屋敷から出てはいけないと言われているため、外には出ずに屋敷内を散策する。一階に二階、屋根裏部屋まで。
離れといえど広い屋敷だったため、散歩には充分だった。
離れに住んでいるのは自分だけで、他の人の気配はない。シシリィも本館から通ってきてくれているようだ。
だが庭や出入口などにはあちこちに警備の兵がいて、勝手に出ることはできそうにない。
(どこかから抜け出せないかな)
外が見たい。
できれば敷地内からも出て、街中へ。更にその先も。外の景色を見てみたい。そうすれば何か思い出せるかもしれない。
外への渇望を抱えながら歩いていると、いつの間にか一階の奥に来ていた。そして、地下に続く階段があることに気づく。
好奇心の赴くままに、階段を下りた。
(こんなところに隠し通路とか)
無謀な期待をしながら、近くにあった鍵のかかっていない扉を開ける。
錆びた鉄の匂い。
明かり取りの窓から差し込む光が、部屋に整然と並ぶ鉄の塊を映し出していた。長い棒、やや短い棒、大量の細長い棒――槍、剣、弓矢。
(武器庫?)
中に入ってみる。あるのは訓練用の武具ではなく、実戦用に思えた。非常事態が起きたときのために備えているのだろうか。
もしかしたら自分にも戦闘の才能があるかもしれない。
軽い気持ちで小振りの剣を手に取る。
――重い。
鞘込みだからかもしれないと鞘から抜いてみる。手入れが行き届いていて錆びついてもいないため簡単に抜けた。
持ち上げられそうな重さにはなったが、しかしその銀色の刀身と刃、そして相手を突き刺すための切っ先を見た瞬間、剣の重みがぐっと増した。
――これは命を奪うための道具だ。
柄を握る手がぞわぞわとする。
この分では、とても戦うことなどできそうにない。
剣を鞘に納め、元の場所に戻す。
その隣にあった箱の中に、ナイフが入っているのが見えた。革のケースに納まった、特色のないナイフが何本も積み重なっている。
手を伸ばし、柄を握った瞬間、悪寒が背筋を駆けた。
「これは、何……?」
震える声が零れる。
「危ないですよ」
背後から声がかかり、びくりと身体が震えた。
振り返ると、長い黒髪の男性が扉のところに立っているのが見えた。
「女性が足を踏み入れる場所ではありません」
紫の瞳が細められる。端正な顔には苛立ちが浮かんでいた。
「ごめんなさい」
急いでナイフから手を離し、武器庫の外へ出る。するとすぐに、男性が扉に鍵をかけた。
「猫のように好奇心旺盛な方だ」
向けられた柔和な笑みに、腹の奥がぞわりとする。
「それにしても甘い。早く壊すか奪うかしてしまえばいいのに」
感じたのは恐怖、そして剣のような印象だ。
穏やかな気品という鞘に納められているが、本質は鋭い剣だ。戦うための。
「ルスラーン!」
春雷のように。
怒気を含んだ声が上から響き、地下全体を震わせる。
顔を上げると、階段を駆け下りてくるドミトリの姿が見えた。
地下に降りたドミトリは、真っ先にルスラーンと呼んだ男性に詰め寄っていった。
「何故お前がここにいる。何をしていた」
「迷子の令嬢が気になりまして」
険悪な雰囲気が漂う。
「私が悪いんです。勝手にうろついたりして」
「エミリアーナ……」
ルスラーンは苦笑し、肩を竦める。
「ご安心を。兄上のものに手を出すつもりはありません」
言って、悠然と地下から去っていく。
「エミリアーナ、無事か」
「はい。あの、本当に私が悪いので」
――兄上、という言葉からもふたりは兄弟なのだろう。
自分の好奇心で、ふたりの仲を険悪にするのは避けたい。
「ああ……エミリアーナ、もう地下には足を踏み入れないでくれ。ここは危険だ」
「はい。あの、ドミトリ様……」
いま言うべきことか迷ったが、言おうとした時に言えないと機会を逃す。決意を固める。
「その名前は、違います」
「まさか記憶が……」
「いえ、まだ何も。でも、その名前は違うのです」
響きを聞くたびに感情の渦が巻き、複雑な色彩を織り上げる。
特別な名前には間違いない。だがそれが誰なのかは思い出せない。わかるのは、自分ではないということだけだ。
「ううむ、ではエミィとなら呼んでも構わないだろうか」
それも違う。
だがこれ以上はドミトリを困らせると思い、承諾した。
「はい」
「それで、どうしてこんなところに」
「散歩をしているうちに入り込んでしまって。それで、その、武器が気になってしまって」
「何故武器などに興味を……」
「私は学もなく、家事も苦手で、身体を動かすことも得意ではないようです。もしかしたら武器の扱いなら身体が覚えているかもと思って」
「エミィはそんなことをしなくてもいい」
「えっ?」
顔を上げる。ドミトリの眼が真っ直ぐに向けられていた。
「何もしなくていい。私の隣で笑っていてくれれば」
(えっと……?)
「私が何者からも守ってみせよう。だからもう勝手なことはしないでくれ」
「ドミトリ様……」
――それは困る。
保護してもらった恩はあるが、行動を制限されるのはとても困る。
自分に何ができるのかを知りたい。何もできなかったとしても、自分の足で立って生きていきたい。
でなければ、ひとりになったときに生きていけない。
だから、それらの言葉に頷くことはできなかった。






