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5-10 公爵家の雛鳥




 深い深い眠りから目覚める。

 身体を起こすと、そこは落ち着いた青と白で統一された部屋だった。

 壁紙は流線の模様が入った水色、天井は白、ベッドや調度品も白、床には深い青の絨毯。

 大きいベッドにかかったシーツは清潔そのもの、身体にはシルクの夜着を着ていた。

 部屋にいるのは自分だけ。


「ここは……」

 ここはどこだろう。自分の部屋でないことは確かだ。知らない場所だ。

 知らない場所、知らない部屋で寝ているという不可思議な状況に混乱する。

 停止しそうな思考をなんとか動かし、一つの結論を得る。

(帰らないと)


 自分のいるべき場所に帰らなければ。

 そう思ってベッドから降り、両足を床に着いたところで足が止まる。

 ――どこへ?

 どこへ帰ればいい?


 愕然とし、硬直する。

 何も思いつかない。帰るべき場所が、何も。

(困る……)

 とても困る。非常に困る。途方に暮れる。


(冷静に、冷静に……)

 帰る場所がわからないということは、ここがそうなのでは?

 そう考えた方が自然だ。ここが家で、自室。だからひとりで寝ていた。それならば不自然なことはない。

「どう考えても不自然」

 まったく見知らぬこの場所が自室なわけがない。




 その時、部屋の外、扉の前に、誰かの気配を感じた。

 扉を開けようとする音がする。

 自分の姿を確認する。夜着のみの姿。こんな格好で知らない誰かと対面するのは、よくない。

 慌ててベッドに戻り、シーツにくるまり身体を隠す。


 ノックもなしに扉が開き、誰かが入ってくる。

 やわらかそうな金髪の、青い目の、若い男性。知っている人物かと期待したが見知らぬ人物だった。

 端正な顔がぱっと華やぐ。


「ああ、良かった。目が覚めたのか」

「えっと、どなたですか」

 問いかけると驚いた顔をしたが、すぐに紳士的な笑顔になる。


「驚かせてすまない。私のことはドミトリと」

「ドミトリ様……?」

 知らない名前だ。


「当家の前で倒れていた貴女を私が保護したのだ」

「そう……だったんですね。ありがとうございます」

 ここにいる経緯まで説明してもらう。

 となるとここはやはり、自分がいるべき場所ではない。落胆と恥ずかしさで消えたくなる。

 そして助けてもらって、名前を教えてもらって、自分の名前も名乗っていないことにいま気づく。


「ご迷惑をおかけしました。私は――」

 言いかけて、声が出ない。

 否、言葉が出てこない。

 自分の名前が出てこない。


(そ……んなことがある? 私の、名前は?)

 答えをくれる人はいない。自分自身にまで裏切られたような気持ちだった。

 名前が。自分の名前も、他の人の名前も。何ひとつまったく思い浮かばない。


「もしや、記憶がないのかい?」

 心配する声が頭の上に降ってくる。その言葉はとてもしっくりと来た。

 そうだ。記憶がない。

 帰る場所も、自分の名前も。どこから来たのか。自分が誰なのか。

 これまでどうやって生きてきたのかも。


「ああ、やはり……」

 腑に落ちたように呟く。

 真剣な眼差しが向けられる。


「エミリアーナ」

「えっ?」

「貴女の名前はエミリアーナだ」

「私の、名前?」


 ――違う。

 とても大切な名前な気はする。

 だが、自分の名前かと言われると、しっくりこない。まるで他人の服を着ているかのような違和感だった。

 しかしそれだけでは自分の名前ではないという証明にはならない。いまは受け入れるしかなかった。


「……どうして、ドミトリ様は私の名を?」

「ああ、それは運命だからだ」

「運命?」

「天啓があった。今日記憶を失くした女性と出会い、彼女の名はエミリアーナであると」

「はあ……天啓、ですか」


 なんとも具体的な天啓だ。残念ながら純粋に信じられるような幼さは己の中になかった。

 エミリアーナという名前も、もしかして適当に言った名前なのだろうか。

 やけに胸がざわつく名前なのは、ただの偶然なのだろうか。


「記憶がないというのは、心細いことだろう。落ち着くまではここで過ごしてくれたまえ」

「ありがとうございます」

「もちろん貴女が望むのならいつまでもいてくれていい」

「……ありがとうございます。でも、どうしてそこまで親切にしてくださるのですか」

「もちろん、困っている女性を放ってはおけないからだ」


 言葉や声、表情に裏表は感じられない。

 ドミトリは心の底からそう思って親切心で言ってくれている。

 行く当てのない身にはありがたいが、申し訳なさを強く感じる。早く出ていく算段をつけなければと、強く思った。



##



 ドミトリが部屋を出ていった後、バルコニーへ続く窓を開けて外に出る。

 半円形のバルコニーには気持ちいい風が吹いていた。長い髪と夜着の裾が揺れる。

 手摺から身を乗り出して下を見てみる。下には庭が広がっている。高い。二階だが、飛び降りるのは無理がある高さだ。

 できるだけ下を見ないようにして、顔を上げて遠くを見渡す。


 同じ敷地内――広い庭の向こう側には大きな屋敷が見える。あちらが本館で、こちらが離れだろうか。

 屋敷を取り囲む高い塀の向こうには、五つの塔の影が、夕焼けに染まる空の中に見えた。


(どうして私はここにいるんだろう)

 屋敷の前で行き倒れていたというが、本当にそうなら。

(怪しすぎるし、迷惑な話)


 そんな自分を保護してくれていることには感謝しかない。

 だが、いつまでも世話になってもいられない。

(そのうち何か思い出すかもしれないし、思い出さなくても――)

 なんとか生きていくしかない。生きている限り。


 ぼんやりと赤い空を眺めていると、規則正しいノックの音が室内に響く。

 返事をして、バルコニーから部屋の中に戻る。

 入ってきたのは、灰色の髪をきっちりとまとめたメイドだった。

「メイドのシシリィです。エミリアーナ様のお世話をさせていただきます」


「よろしくお願いします。あの、私の着ていた服とか、持っていた荷物とかはどこに?」

 そこに手がかりがあるかもしれない。

「着替えをさせていただいたのはわたくしですが、荷物のようなものは何も持っていらっしゃいませんでした。身に着けていらしたものは汚れていましたので、処分いたしました」


 一縷の希望が打ち砕かれる。

(どんな格好していたの、私!)

 事故か盗賊にでも遭ったのだろうか。その割には身体には傷ひとつなかったが。


「着替えは明日お持ちします。夕食はこれよりお持ちしますので、本日はそのままお休みください。何かご所望のものはありますか?」

 問われれば、空腹なことに気づく。

 記憶がなくなっていること以外、身体は正常そのもので。嬉しいような、悲しいような、複雑な気分になった。


「……コーヒー」

 ぽつりと言葉が零れる。

「コーヒーが飲みたいです。ミルクたっぷりの」

「申し訳ございません。そちらはすぐにはご用意できませんので、紅茶でもよろしいでしょうか」

「あ、ごめんなさい。それなら紅茶で」

「かしこまりました」


「あと、ここはどこですか」

 シシリィは感情のない顔で答えた。

「ここはボーンファイド公爵家。その帝都の敷地内です」





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