【令嬢転生】
「シト。異世界転生は好きか?」
その言葉に、大きく頷いた記憶がある。
頭を撫でる大きな手。父と、父の教えてくれた異世界転生が大好きだった。
「……そうだな。もしかしたら、それが一番正しいことなのかもしれない」
父は微笑んで、独り言のように呟いている。
その言葉の意味も、もう永遠に分からないままになってしまった。
「シト。お前はいつでも、異世界転生を心から楽しんでいた。最初に転生した日と同じように、純粋な心のままで。だから、父さんは……お前に、このCメモリを託そうと思う」
幼い手にそのCメモリを握らされたことを、シトはどのように感じただろうか。
尊敬する最強の転生者だった父からCメモリをプレゼントされて嬉しかったのと同じように――鮮血のようなその赤色と、いつになく深刻な様子で話す父の姿に、言い知れない不安を覚えていなかっただろうか。
「お前は、父さんの未来だ。だから、いつかその日が来た時には、その最初の心のままに――何が正しいのか、誰と戦うべきなのか。きっと、お前自身の心で決断するんだ。覚えていてくれ。それが父さんがシトに託す……転生だ」
行かないで、と叫んでいる。曖昧な光景は溶けて、やがて二つの光が現れる。
その光はシトと父とを隔てて、永遠の別離に断絶してしまう。
それは、ひどく見慣れた光。――トラックのヘッドライト。
巨大な5tトラックが迫る転生レーン。
シトの手は届くことなく、父は光に消えていく。
…………
――――――――――――――――――――――――――――――
「夢か」
純岡シトは、その朝も一人で目覚めた。
寝間着は汗に濡れている。父が残したこの家は、シト一人には広すぎる。
「この転生だけは……何度見ても、慣れないな……」
WRA異世界全日本大会関東地区予選トーナメント準優勝。それがシトの結果だ。
目標としていた外江ハヅキへの雪辱は果たせず、それどころか、決勝ではさらに鬼束テンマに惨敗を喫した。
決して悲観するべきことではない。十分な成績であったはずだ。全日本大会本戦トーナメントという次の機会すら与えられている。黒木田レイや大葉ルドウ……シトが得た結果に届くことなく敗れていった転生者が多くいると、理解してもいる。
だが完璧を自らに課し、そして勝ち続けてきた純岡シトにとって、無残極まる今回の敗北は何よりも手痛いものであった。
(何よりも……アンチクトン。連中を野放しにしてはならない)
異世界の滅亡を厭わぬどころか、それを積極的に実行し……観客の興奮や熱狂ではなく、恐怖と忌避をこそ望む、異様な集団。
彼らの目的は何か。日本全国が注目するWRA異世界全日本大会トーナメントに出場することで、何をしようというのか。彼らの転生スタイルこそが最強なのだと証明されてしまったとすれば、その時、異世界転生の未来はどうなるのか。
(全日本大会まで、残り二ヶ月。休んではいられん……)
純岡シトが普通の学生のように日曜の自由を楽しむことは、久しくなかった。
時刻は七時半。朝の鳥が鳴く中、シリアルと野菜のみの簡素な朝食を済ませる。
父が失踪したあの日から……テレビも、テニスボールも、ピアノも、年月を経るごとに消えていった。
室内は白く几帳面に整頓され、父の形見である異世界転生筐体のみを残している。シト一人が寝て目覚めるだけの、殺風景な自宅であった。
その筐体の前に立ち、入念に準備運動を行う。
単独救済は難易度も高く、通常の対戦とは異なるセオリーを要するが、それでも構築したデッキの動作確認には役立ち、何より一人の時間を確実に異世界転生の鍛錬に費やすことができる。
少なくとも純岡シトは、そのようにして孤独に実力を積み上げてきた転生者だ。
「今日は【器物転生】型か……それとも【集団勇者】型を試すか」
トラックを模した轢殺ブロックを前にして、その日の訓練メニューを思案していた頃である。
玄関のチャイムが鳴り響いた。
朝も早い。このような時間に宅配や来客の覚えもないが。
「……?」
やや訝りつつもドアを開けると、そこには見知った顔があった。
首の辺りで二つ結びにした黒髪。切れ長の目。
「――や、シト。存外に元気そうじゃないか」
「黒木田」
同じ転生者として幾度も相見えた強敵、黒木田レイである。
予選トーナメントで見た時とは装いも異なっている。白いレースのワンピースと、その上に羽織った濃い紺色のベスト。そして、肩に斜めにかけたベージュ色の小さなバッグ……
「……これから町にでも行くのか?」
「うーん……きみらしい反応だね。もうちょっと驚かないのかい」
「住所は剣からでも聞いたのだろう。何故俺の家に寄ったのかは理解できないが」
「そういうところだぞ。きみを誘いに来たに決まってるじゃないか」
「俺を?」
「そ」
閉じた唇の両端を吊り上げるように微笑む。いつもそうしているような、真意を悟らせない笑みだ。両腕を腰の後ろに組んで、彼女は首を傾げた。
「……剣くんに頼まれたのさ。シトのことだから、この前の敗北でナイーブになってるんじゃないかと思ってさ。もしもそうなら、気晴らしにぼくと一緒に出かけてみるのはどうだろうか」
「……そういうことか。助かる」
シトは頭を下げる。
普段のシトでは滅多に示さないような、素直な謝意だった。
今朝の悪夢のこともある。きっとレイの言うとおりに、知らず識らずの内に心が追い詰められていたのだろう。他の誰かに指摘されて初めて気が付くのは、転生者としてまだ未熟である証拠だ。
「単独救済と対戦救済では、やはり訓練の質に大きな差が出るからな……相手が全国クラスの転生者ならなおさらだ。悪いが、手伝ってもらいたい」
「もちろんだとも。代わりに、ぼくの用事にも付き合ってくれるかい?」
「安い用だ。どこに行く」
「うーん……そうだね。どうしよう」
形のよい唇に人差し指を当てて、少女は悪戯っぽく笑った。
「映画館かな?」
――――――――――――――――――――――――――――――
「ああ、楽しかったね! シトはどうだい? 男の子はああいうアクションものの方が好みなんだろう?」
「俺はどちらかといえば、恋愛映画のほうをよく見る」
「えっ」
「――だが、悪くはなかった。あの手の作品は娯楽としてもそうだが、異世界転生の参考となるところが多いからな……特に主人公が粉塵爆発で特殊部隊を撃破したところなど、とてもリアリティがあった」
「そ……そうか。ふふ。楽しんでもらえたようで、よかった」
映画館の向かいにある喫茶店で、二人はごく軽い昼食を取った。
食事の間にも、黒木田レイはシトの話題に親身に耳を傾けてくれた。全日本大会におけるデッキ環境。数学の成績がやや伸び悩んでいること。平民階級を見下す王国最強の騎士と、私利私欲でハーレムを形成する勇者のどちらを優先して倒すべきか。
「さて。じゃあ、そろそろ異世界転生の訓練でもしようか?」
「……? 用事はこれで終わりか?」
「え……」
「貴様の用を優先した方がいい。俺は異世界転生のことになると、その、認めたくはないが……少々熱くなるタイプのようだからな。いつ終わるか分からん」
「でも、ぼくは映画も見て……食事もしたから、ええと」
一転して余裕を失い、レイは指を折って何かを思案しはじめた。
シトは訝った。
「……ふ、服を……買おうかな……?」
「いいだろう」
二人は、ショッピングモール沿いのアパレル店へと向かった。
レイは少しだけ歩調を早めて、シトと横並びに歩いている。
「どの店にする? 悪いが、俺にアドバイスは期待しないでくれ。異世界であれば服飾スキルで作成することもできるだろうが……」
「ふふ。筋金入りの異世界転生バカだね、きみは」
「……フ。確かに。あまりこういった思考は良くはないな……」
「最初にぼくと戦った時のことを覚えているかい?」
黒木田レイは、シトともタツヤとも通う学校が違う。
最初の出会いは、このモール沿いのデパートのゲームコーナーだった。圧倒的な強さに対戦相手もいなくなった少女の相手に名乗りを上げたシトは、その一戦で彼女の連勝記録を止めた。
レイの【令嬢転生】デッキは、通常はランダムに左右される転生の初期条件を貴族の令嬢に確定し、【超絶交渉】との組み合わせで政治掌握と社会改革を容易に実現する基本的なデッキだったが、彼女の内政はシトが見た誰よりも洗練されていた。
「――あれが初めてだったんだよ? シト以外には、負けたことなかったんだ」
「少なくともあの時の試合は、紙一重の差だった。俺も、中学生異世界選手権大会の優勝者とゲームコーナーで出会うとは思っていなかったからな」
「そ。天才美少女中学生転生者……ふふふ…………」
胸に手を当てていつもの名乗りを上げた後で、レイは眉根を下げた。
どこか、脈絡のない不安に襲われたようであった。
「……。ねえシト。ぼく、美少女だよね? どう?」
「美少……!? い、いや。十分、可愛らしいと思う。貴様ならば、アイドル……いや、異世界のSSR級召使にも引けを取らないだろう」
「あ、また言った。『貴様』じゃないだろう」
レイはシトの片袖を引き、細い肩を寄せてくる。
「せめて『君』とか『レイ』とか……せっかくの美少女とのデートなんだから。その辺、気を使ってほしいな」
「デー……ト……!?」
シトは驚愕に目を見開いた。
……確かに、ある。異世界の召使攻略過程において、そのようなことは無数に体験している。
だがそれでも、異世界転生と彼本来の人生とは、違うのだ。
「デート……デート、だったのか、これは……!」
「あ」
あらためて、シトは黒木田レイの姿を見た。
男子とははっきり異なる、すらりとした肢体。予選トーナメントと違って、白くすらりとした脚がワンピースの裾から見えている。長い睫毛に覆われた切れ長の瞳が、すぐ下にある。耳にかかる数筋の黒髪。肩の体温が伝わってくる。
「そう、そうか……悪かった。すまない……情けない……」
「い、いや!? 別に、今のは言葉のあやというか、た、確かに……まったく大したものじゃなかったかもしれないな!? もちろん、ぼくは最初からきみの転生の訓練に付き合うつもりで……そんな、他意なんてなかったとも!」
「お、俺は……確かに、異世界転生バカだ……」
「そんなこと言われたら、ぼくだって……き、気にしないで。やっぱり、ゲームコーナーに行こう。ね?」
「……ああ」
関係が変わってしまうことへの気まずさがあった。
同じ道を求道する転生者であり、気の置けない敵同士であったはずである。
仮に――異世界において二十年以上の人生を送ったとしても、転生者はそれで二十年分を老成するだろうか。
壮絶な転生を駆け抜ける転生者にも、現実の中学生としての人生がある。
彼らは何度でも人生をやり直すが、転生体ではない、現実の肉体で味わう青春は、やはり一度きりしかないのだ。
「だが、貴さ……君の服を買う用事は……」
シトがそう口を開いた時、レイは道の傍らに目を留めた。
年は小学生くらいだろう。子供が座り込んで、泣きじゃくっている。
レイは小走りで彼の元に駆け寄り、目線を合わせて尋ねた。
「きみ、どうしたんだい? 迷子かな?」
優しい、柔らかな口調だった。
「うっ……ううう……」
「――ふふ。きみは運がいいよ。こう見えても、お姉さんは天才美少女転生者なんだ。きっときみを助けてあげられる」
「……」
彼女は道を歩むどの通行人よりも早く、道端で泣く少年に気づいた。
それにもし気づいたとしても、シトでは声をかけることもできなかっただろう。
喫茶店で、シトの他愛ない相談を文句一つ言わずに聞き続けていた姿を、シトは思い返している。彼女の後を追うようにして、子供に駆け寄った。
「俺も、転生者だ。彼女ほどではないが……親御さんを探す手伝いくらいなら、できると思う」
「……シト」
「ぼ、ぼくも……ぼくも転生者なのに……ううう……」
「……どうした? 異世界転生で負けたのか?」
本気で戦って負けたのであれば、悔しさに涙を流すこともあるだろう。そうであれば、むしろ安堵できる話だ。しかし、そうではなかった。
「違う……! おかしいんだ。変な、Cメモリを、使うやつが、ひぐっ、いるんだ」
「Cメモリだって……!?」
「うん、うう……異世界が、そいつのせいで、ボロボロになって……ぼく、ぼくは、救いたかったのに……!」
「……っ!?」
「……」
二人の表情が、同時に強張る。
異常なCメモリ。異世界を崩壊させて憚らぬ転生スタイル。
……心当たりがあった。あの予選トーナメントを見たものならば、誰でも。
シトは、子供の背後の建物を見上げている。奇しくもかつてレイと出会ったデパートである。
「このゲームコーナーに、その相手がいるということだな」
もしそうであれば、手掛かりを逃す訳にはいかない。
レイは微笑んで、子供の頭を撫でた。
「大丈夫だよ。このお兄さんは、とっても強いんだ。もしも悪い転生者がいるなら、凄い転生でやっつけてくれるさ」
「ほんと……?」
「立てるかい? 一緒に見に行こうか」
正体定かならぬ敵。五階ゲームコーナー付近を見上げながら、シトは低く呟いた。
「……行こう。黒木田」
次回、第八話【異界災厄】。明日20時投稿予定です。