前編
「前から思ってたけど、鳳さんの絵ってすごく繊細だよね」
美術室の隅にある椅子に腰掛けて無心に筆を動かしていた私の背中にそんな声がかけられたのは、冬が訪れて間もない十二月のことでした。振り向くと、茶色の髪をショートボブにした子が、黒目がちな双眸を輝かせて描きかけの人物画を凝視していました。
「そ、そうでしょうか」
「うんうん! 髪とか瞳とか、描き込みが細かくて綺麗で素敵」
「ありがとうございます……」
絵を褒められるのは嬉しいですが、この子が誰なのかまるで思い出せません。同じ部活にいるので顔は知っていますが、よく知らないから名前がわからないのです。私が頭上に疑問符を浮かべているのも気にせず、その子は私のキャンバスをしげしげと眺めました。まるで自分の中身を見つめられているかのように感じて頬が熱くなります。思わずさっと目を伏せてしまいました。
しばらく観察して満足したのか、その子はキャンバスから私へと視線を移し、おもむろにスカートのポケットからスマートフォンを取り出しました。スマートフォンの裏面を覆うグリッターケースのラメがきらきら光り、吊り下げられたウサギのマスコットがぴょんと跳ねました。
「初めて喋ったよね? 連絡先交換しようよ」
「ふぇっ? い、いいですけど……」
どうして、とは言えません。私はパレットと筆を置いて簡素なポリカーボネート製のケースに入った自分のスマートフォンを取り出し、その子と連絡先を交換しました。
「私、沢野友梨奈。これからよろしく!」
「は、はい……こちらこそ、です……」
状況が飲み込めぬまま握手をすれば、思いがけない温かさにドキリとして、私は拍子抜けしたように小さく息を吐きました。私の骨張った手を優しく放すと、友梨奈はケースに入ったキャンバスと画材一式、イーゼルと椅子をひとつずつ持ってきて私の横に来ました。
「ねぇ、横で描いてもいい?」
「ええ構いませんが……」
そう言う私は、既に色が混じってベトベトのパレットとイタチ毛の絵筆を再び手に取って、作業を再開しようとしていたところでした。横でうるさくされては敵わないなどと思いましたが、イーゼルに置いたキャンバスを見る表情は真剣そのものです。私は友梨奈の本気を疑った自分に心の中で恥じ入りました。
白い下地塗料の上に木炭で下書きがされただけのキャンバスに、友梨奈は細いペインティングナイフで大胆に絵具を乗せていきます。細かいところにはコシの強い豚毛の筆を使っているようで、全体的に生き生きとしていて、どこまでも自由で、細かくて丁寧なだけが取り柄の私の絵にはない躍動感がありました。
「どうしたの優美?」
「はっはいっ!」
気づかないうちに友梨奈が絵を描く様子を見るのに集中していたようで、私は突然名前を呼ばれて大声で返事をしてしまいました。
「あはは、そんなに驚かなくても……もしかして下の名前で呼ばれるの嫌だった?」
友梨奈は上半身を少し屈め、私を見上げているようなポーズをとりました。
「いいえ、嫌ではないんです、びっくりしただけで。私も、友梨奈って呼んでいいですか?」
思いがけず気を遣わせてしまったことを申し訳なく思いながら、私は友梨奈のライトブラウンの瞳に問いかけました。
「もちろん!」
人懐こい犬のような瞳が喜色に染まるのを見て、私は深い安堵を覚えました。
その夜のことでした。布団に包まってスマートフォンでネットサーフィンをしていると、メッセージアプリに友梨奈からの連絡が入ったのです。何の用件だろうと思いながら『夜遅くにごめん』という当たり障りのない挨拶から始まるメッセージを開きます。明日の放課後、テレビやティーン向けの雑誌などで取り上げられたこともある原宿のパンケーキ屋さんに一緒に行ってみないかというお誘いでした。少し迷ったあと、私は行くことに決めました。友達とどこかに出かけたことも誘われたこともなかったので、正直驚いています。でも友梨奈のあの小動物のような円らな瞳と眩しい笑顔を思い出すと、不思議と行ってみようという気になったのです。
次の日パンケーキ屋に行ってみると、それは盛況でした。冬の寒空の下にも関わらずミニスカートの中高生が長蛇の列をなしていて、人気店だということがよくわかりました。外装もとても凝っています。店先には苺と絞ったホイップクリームの大きなオブジェがくっついており、柔らかそうなスフレパンケーキの写真が印刷された旗が風になびいていました。
「うわーすごい並んでるね……」
「ですねぇ……」
列の最後尾についてから友梨奈と私は揃って白い息を吐きました。やがて私達の後ろにもミニスカートの子たちが並び、その後ろにも同じような格好の子たちが並び、私達はあっという間に列に溶け込んでいました。私と友梨奈の通う高校の制服はスカートが長めで少しシックなので、ミニスカートの大群には馴染めないかと思っていましたが、そんなことはありませんでした。ぺちゃくちゃとお喋りをしている子たちを横目に雑談に興じれば、私達ももう原宿の高校生です。
順番が来て店内に入ると、窓際にある二人用のテーブルに案内されて、私達は華奢な白い椅子に座ってリュックサックを床に置き、メニューを広げました。
「えーとなになに……ストロベリーパンケーキ、チョコレートパンケーキ、プレーンパンケーキ、フルーツデラックスパンケーキ……」
友梨奈がページをめくりながらメニューを読み上げていきます。載っている写真はどれもゴージャスで、SNS映えしそうなものばかりでした。周りのテーブルをチラリと見てみます。みんな写真を撮るのに夢中のようで、パンケーキを食べに来ているのか撮りに来ているのか少し疑問に思いました。
「えーと、私はチョコレートパンケーキにする……優美は?」
「あ、えーっと、うーん……」
周りを観察するのに夢中になっていて、何を注文するか決めるのを忘れていました。シンプルでお安いプレーンパンケーキにするか、少し奮発してストロベリーパンケーキなどを頼んでしまうか。
「ストロベリーパンケーキにする」
しばらくの逡巡のあと、私はきっぱりと言いました。言ったあとで敬語を忘れていることに気づきましたが、まあいいかと訂正はしませんでした。
「オッケー、じゃあ店員さん呼ぶね。すいませーん!」
友梨奈は頬に手を添えて大声で店員を呼び、私のぶんまで注文を済ませてくれました。私は他人と話すのが苦手でいつもどもったような話しかたをしてしまうので、大変助かりました。どうやったらあんなにハキハキと話せるのか、私は友梨奈の過去や置かれていた環境を色々と想像してみました。きっと両親の仲は良くて、大人には可愛がられて、学校では沢山の友達に囲まれていて……きっと、私とは真逆の人生を送ってきたに違いありません。そう思ってしまうくらい、友梨奈の振る舞いには陰がありませんでした。
パンケーキがやってくると、友梨奈は早速他の子たちと同じようにパシャパシャと写真を撮り始めました。高さを変え角度を変え、一番美味しそうに見える位置を探しているようでした。私はというと、苺が贅沢に飾られ生クリームがこんもりと盛られたパンケーキを観察していました。まずはパンケーキだけを味わおうと、きつね色の分厚い生地にフォークを突き刺します。掬うようにして口に運べば、ふわふわとろりとした軽い生地と滑らかなリコッタチーズが舌の上でとろけます。苺と生クリームを絡めれば、甘酸っぱくてクリーミーな味が口いっぱいに広がりました。
「美味しい……」
「ね、美味しいでしょ」
思わず感想をこぼした私に、友梨奈は得意げに微笑みました。本当にパンケーキが好きなのでしょう、写真を撮り終えたあとは私以上のペースで食べ進めていて、削りチョコレートとチョコレートソースがかかっていた部分はほぼ食べ終えていました。残りの部分をメープルシロップと生クリームでたいらげると、友梨奈は満足したというふうにガラスのコップに入った水を飲み干しました。
少しして私が食べ終わると、私達はお会計を済ませて店の外に出ました。日は既に暮れかけていて、空には一番星が輝いていました。
「ねえ、ちょっと画材屋に寄ってもいい? レモンイエローがもうすぐ切れそうなんだ」
時間の確認をしたかったのか、友梨奈はスマートフォンを一瞬だけ見て言いました。
「いいよ。私もちょっと新しい筆とか欲しいと思ってたんだよね」
「本当? じゃあいこっか。世界堂でいい?」
「うん。私もいつもそこで買ってる」
世界堂とは、驚いた表情のモナリザの旗が目印の大きな画材屋さんです。いろいろな画材がお安く買えるので、制作費用を安く抑えたいときには必見なのです。原宿駅から山手線に乗って新宿駅で降り、駅から七分ほど歩くと、例のモナリザが描かれた旗が見えてきました。油絵具や絵筆が置かれている階に上ると、私達はまず絵具コーナーに向かいました。そこで友梨奈はレモンイエローを手に取り、私は次に描く絵のためにブライトレッドを買うことにいたしました。それから絵筆コーナーに向かうと、私はいつものイタチ毛の筆を買うか、豚毛の筆を買うかで迷いました。黙って筆を見ている私がじれったくなったのか、友梨奈は穂先が飴色がかった豚毛の筆を指さしました。
「これ、私がいつも使ってるやつ。力強く描けるから好きなんだけど、どうかな」
そうおすすめされては、買うほかに選択肢はありません。
「うん、買ってみる。使ってみたいと思ってたんだよね、前に何回か使ったっきりだったから」
私が友梨奈の指さした筆を手に取ったのを合図に、私達はレジに向かってお会計を済ませました。筆と絵具ひとつずつだったので当然かもしれませんが、大した額にはならずに済みました。これ以上の散財は避けたいところでしたので、私は胸の中でひっそりと、世界堂の安さに感謝いたしました。
世界堂を出たあと、私達は明日の放課後に美術室で一緒に新作の下書きをする約束をしてから別れました。帰りの電車の中でスマートフォンを見ていると、メッセージアプリにまた友梨奈からの連絡が入りました。
『今日楽しかったね』
『うん』
『明日描くものもう決めた?』
『決めたけど、明日まで内緒』
『えー』
『友梨奈は何にするの』
『うーん、なんか果物とか?』
『私も似たような感じ』
他愛ないチャットを続けていると、電車での時間はあっという間に過ぎていきます。友達のいる生活ってなんて楽しいんだろう、なんて柄でもないことを思うくらいには、今の私はいい気分でした。何しろ小中高と知り合いと呼べる人すらまともにいたことがなかったのです。舞い上がってしまうのも仕方のないことでしょう。