雪の貌《かたち》
「あ、雪だ!」
六歳のランプロクレスは白い息を吐き出して笑った。
「母さん、雪!」
私の隣を歩く彼女に振り向いて呼び掛ける。その笑顔に胸を衝かれた。
この子は平素は母親似の端正な面差しだが、こんな風に表情に色が付くとあの人そっくりになる。
「そう、降ってきちゃったね」
隣の彼女は苦いような、寂しいような微笑を幼い息子に返した。
微笑む横顔の目尻に刻まれた皺。
豊かに波打つ黒髪の鬢に微かに混じり始めた白い筋。
この人も老けた。
私はその発見に暗い喜びと惨めさを感じる。
「ほら、見て!」
大きな目を輝かせてランプロクレスは彼女に駆け寄る。
開いた小さな掌では透き通った雫が揺れて散る所だった。
「ああ」
幼い少年は悄気かえる。
「今、綺麗な六角形だったのに」
彼女は荒れの目立つ手で小さな黒髪の頭に落ちた雪の欠片を静かに払った。
「手に落ちた雪はすぐ解けてしまうの」
彼女はやおらこちらを振り向いた。
「あの人が雪は六角形で一つ一つ違う模様だと言ったのをこの子はずっと覚えてるの」
初めて聞く話だ。
――君の手はいつも冷たいね。
いつかの雪の晩、そう苦笑いして私の手を包んでくれたことは覚えている。
――自分の手が冷たいか温かいかは他の人の手に触れると分かるな。
いつの冬だったかは忘れてしまったが、あの人の髪はもう黒いものの方が数える程になってしまっていた。
「私は体温が高いから、掌に落ちた雪なんかすぐ解けて雨粒と変わらなくなっちゃう」
彼女は肩を竦めて笑った。
小さな薄紅の唇から白い息を吐き出しながら。
細いが黒く弧を描いた眉。彫り深い眼窩の奥で輝く大きな切れ長い瞳。すらりと背が高く腰高な体つき。
粗末な装いもこの姿の放つ光彩を覆い隠すことは出来ない。
あの人がまだ彫刻家をしていた頃、「アルテミス像のモデルに」と娘ほど年若い彼女を見初めたという。
「私みたいな冷え性よりいいでしょう」
彼女より一回り上の私の手はシミだらけで骨がくっきり浮き出て、「荒れている」というより「老いている」。
「この時期になると特に酷くて」
冷えきったこの手を温めてくれるあの大きな手はもうない。
雪をうっすら延べ始めた路地の匂いを吸い込むと、鼻の奥がツンと痛んだ。
「大事にして……」
言い掛けた所で彼女は前を向き直る。
「一人で先に行っちゃ駄目!」
子供の姿はいつの間にか雪の舞う道の先で小さくなっていた。
「こっちの方にいっぱい積もってる」
雪の向こうに見える笑顔は余計にあの人に似て見える。
「一番綺麗な六角形探してお母さんに上げるから」
この笑顔は隣に立つ彼女に向けられたものであって、私のものではない。
そう思うと、胸の奥に微かな影がさす。
――貴女さえ良ければ、私の妻になって下さい。
あの夏の日の面影が蘇る。
陽射しが照り付ける中で、あの人は酷く眩しげに大きな目を細めていた。
――貴方にはもう奥様がいらっしゃるでしょう。
しかも、私よりずっと若く美しい。
緑の匂いが漂う中であの人と相対して話しながらも、粗末な身なりをした、もう若くもない、もともと人目を引く所などない自分の姿が恥ずかしかった。
――アテナイではもう二人の妻を持つことが出来るようになりました。
あの人は額の汗を拭いながらカラカラと笑った。
――だから、私の妻になるもならぬも貴女の心一つです。
死んだお祖父様が「正義の人」と讃えられ清貧の内に逝った人だったから、こんな私でもあの人の目に留まったのだろう。
それはあの時でも分かっていた。
「積もれば一つ一つの形なんてもう解らないでしょ」
隣の彼女は半ば独り言のように呟いて苦笑いする。
母の言葉が聞こえていないのか、聞き流しているのか、子供はまだ頬の丸い幼げな横顔をこちらに見せて一面に降り積もった雪をじっと眺めている。
「自分だけは絶対に見つけられる気でいるんだから」
彫り深い眼窩の奥の瞳に潤んだ光が宿って揺れた。
「この前、うちにアルキビアデスが来たの」
彼女は潤んだ瞳を伏せると、まるで聞き付けられるのを恐れるように低く抑えた声で語った。
私の中にも美青年の誉れ高いアルキビアデスのどこか女性じみた面輪といかにも勝ち気そうな輝く眼差し、傲慢なまでに臆せず語る声、そして、冷たくなったあの人の亡骸に取りすがって子供のように泣きじゃくっていた精悍な背中が次々蘇る。
だが、それはもう三年も前のことだ。
今のアルキビアデスがどのようになったかは直には目にしていない。
噂では方々から得た富で豪奢に着飾り美女と見れば他人の妻でも奪う放埒な暮らしをしているとのことだが(もっともこれはあの人の生前からそうだったのだけれど)。
「随分とあの子のご機嫌を取っていたわ」
雪に見入るランプロクレスを見守りつつ、まるで自分をも嘲るような乾いた寂しい笑いが彼女の薄桃色の華やかな唇に漂った。
「あの子はあの人に似ているから」
あの倨傲なアルキビアデスの肩を持つ訳ではないが、さすがにそれは亡き師への追慕から出た行動だという気がする。
あの青年があの人に片恋めいた敬意を抱いていたのは傍目にも明らかだったから。
「『妻と別れた、貴女もこのまま師一人を想って後家を通すべきか考えて欲しい』ですって」
屈辱を押し込めた彼女の声がアルキビアデスの尊大な、どこか挑みかかる風な口調をなぞる。
「『哲人だの賢者だの持て囃される男との結婚なんて一人でもう沢山』と答えて追い返したわ」
気丈に笑う頬の片方に光るものが一筋伝い落ちた。
「あの人が生きている時にはやれとんでもない悪妻だ、低俗な女だと方々で私を馬鹿にしていた張本人のくせにいい気なものね」
白い息を吐き、豊かな髪に降り積もった雪を振り払う。
「皆、貴女には嫉妬していたのよ」
同じ妻でも世間の評判になどめったにならなかった私には良く分かる。
注意を引かない人間の噂など誰もしない。あの人の弟子たちが彼女をことさら悪し様に言い立てたのは、自分が師にとって少しでも価値ある存在だと思いたい彼らにとって彼女が見過ごせない相手だったからだ。
「どちらでも私には同じこと」
呟いた彼女の元に子供が駆け寄ってきた。
「これが一番綺麗な六角……あれ?」
小さな掌から光る滴が震えながら流れ落ちる。
「残念だったわね」
彼女は優しく幼い息子の髪に降り積もった雪を払い落とした。
「じゃ、また」
彼女から穏やかな笑顔で告げられて初めて別れ道に来ていたことに気付く。
「お気を付けて」
こちらも精一杯笑顔を作って母子に頷いた。
雪の降り続く道を私はただ一人、もう自分以外は帰る者が誰もいない家に向かって歩き出した。(了)