爽快感という結果の感情
水源さんの爽快感に関するエッセイの言葉に対してもやもやして居たものが解けた気がする。何故もやもやしていたか?それは納得できない部分があるが思わずそうかも?って相反する気持ちを抱えてしまった点にある。ただ反発するような気持ちじゃないのが引っかかっていた。
確かにこれは正しいが、しかしである、爽快感は結果として得られる感情であって動機じゃないのではないだろうか?例えば不快な因子があり、それを解消に動こうとして最終的に排除された結果爽快感が得られるとすると、これはその前の不快感の解消が心の動きとして重要なのじゃないか?と言う事。
それにこれを取り上げたのは水源さんのエッセイからじゃない、なろうが良く分かって無い人がなろうを批判的に書く時に読者がどう考えてるか?で使う言葉が爽快感が多い。自分が爽快感を得ているわけじゃないんだ。
他のなろうじゃないバトルアニメでこういうのを感じて類推してるだけなんだ。んでこの心の動きって心理学で言われるカタルシスに近い。浄化と不快感の解消が近いのは判ると思う。ただ過程としてそれに至る前の道筋がしっかり描かれることがカタルシスが使われるパターンになるが、ノーストレスの程度が強いなろうで外の作品ほどそれが丁寧に描かれるだろうか?
まあなろうは特殊なわけじゃないだからザマァ展開がある。あれはほぼカタルシスの言葉通りの流れになる。だからなろうは特殊ではない、ただなろうはストーリー作りの初歩の初歩で止まってしまったようなシンプルなそればかりってのが特徴なだけで。またはその過程道筋が淡白であるのも多い。
男達の挽歌のような流れじゃない。まあこれは健さんの任侠シリーズがベースになってるとウー監督が述べてるのでそんな難しい流れじゃない。ただ主人公が切れる直前まで叩き落すのが流れになっててまあまずなろうじゃここまでない。何故か?と言うとそれは観客としてみる側と実際屁にもならない相手に対して自分ならそこまで待つわけ無いだろ?って自己投影的なモデルの違いになる。
ただし、なろうでざまぁ展開が多いのは、氷山の一角に過ぎない。根本はやはり暴力衝動、攻撃衝動にある。結局なろうも観客型の面白さを捨て切る事は出来ない。その点で言えば、見て面白いのと体験して面白い違いとしてやはり孤独のグルメがふさわしいと思う。あれはそれまでの料理漫画が料理人の創る面白さの視点で見ていたのに対して、食べる客側の体験型の面白さに視点を変えた点だろう。
エポックメイキングだと思う。料理人の創る面白さは料理の鉄人などにあるようにショーとしての面白さがあり、これはもろしょくげきのソーマに受け継がれている。その前に美味しんぼなどの料理芸術のようなグルメ漫画の存在がある。当時バブルだったのもとても大きいだろう。外食にしこたまお金をかけていた時代だと思う。イタ飯なんてのがその分かりやすい時代を表す言葉かと。
ざまぁ展開と言うのはなろうもやはりそれまでの古典的な観客としてみる典型例の面白さの一つとして最も単純で効果的だったのでなろうで選ばれた意外にも私はあると思ってる。それはなろうの読者の動機に合致していたからだと見ている。不快な存在の暴力的排除、究極的にはぶっ殺すのを目的としてるから。
ざまぁ展開は要するに、ぶっ殺す相手への罪悪感を軽減させるための舞台装置でしか無い。根本的になろうは攻撃的なものを解消するためのものだと思う。他にもある、立場が上にたって下のものを叩き潰す点にある。だがこれも弱いものいじめの道徳観のような邪魔があるから、最初は違っている立場であるザマァ展開は好都合だとなる。
弱いものいじめじゃない。相手はそう思って無いからってのがある。これで正当化できる。私はなろう読者の真理がゲスだとかやりたいわけじゃない。たかが娯楽だし、罪悪感や倫理観を軽減する装置が無いとただの暴力では満足できない点に正常さがあると見てるから。モンスターと言う存在が動物とは違うって点も動物愛護などの精神から解放される点も上手いと思う。
ようは殺されるべき存在がちゃんといる世界。それはモンスターであり、よわっちい偉そうなだけの身分の高い人間達にもなる。
心理学的な浄化のカタルシスにあるわけじゃなく、アリストテレスの古典的な抑圧に対する解放のカタルシスにこそなろうの本質はあると見ている。偉そうな身分の高い連中ってのは現実にいる存在の投影だろうとは見ている。それは底辺じゃなくて良い、社会の中にいる大人なら誰でも持ってる気持ちだ。
それをぶっ殺すという形にするのは異世界ファンタジーの醍醐味であって別に殺人衝動じゃないと思う。ただの攻撃衝動の力強いものに過ぎないかと。それでもザマァ展開と言うのは根本的には見る楽しみが強いと思っている。要するに体験型と観客型の両者の接点から出てきた、多分最良の展開が、回りくどくなく暴力衝動にストレートなザマァ展開ばかりになったと見ている。作る側が稚拙でも良いってのもポイントが高い。
爽快感に違和感があるのは、心理学的なカタルシスじゃなくても、シンプルなカタルシスでもどっちも結果は爽快感になるって話になる。本来は心理学的カタルシスも古典的カタルシスも同じなのだが、どうも昨今のカタルシスは心理学的カタルシスにやたらとくどい過程の重要性が追加されてしまって、どう見ても意味合いが違うものになってると私は見ている。
苦痛忍耐の時を経て最後に爆発させるような頂点のエクスタシー的なものだけをカタルシスと呼ぶように変わってしまっている。爽快感はなろうの外の漫画アニメでは、この意味で使ってる感じが強いんだ。なろうはもっとシンプルだ暴力衝動の解消だけで良い。後はそれに対して都合の良い負の心理を軽減させる設定を流れを付け加えてやれば良い。
後なろうは俺SUGEEEも多い、ここまで広げると優越感の充足と劣等感の解消があると思う。なろうを俺TUEEEに絞らずに考えた場合の拾い意味ならむしろこっちのほうがザマァ展開が多いのに納得できる。上の立場だったものを貶めるって最高の展開だから。後は良く言われる承認欲求とかもそうなんだろうね。
それらが解消されたり充足された時に爽快感は生じるもので、爽快感を得るための目的じゃないと私は見てて、むしろ爽快感は結果として当たり前に生じる副産物に過ぎない。麻薬の様なものかと思う。麻薬の先には目的が無い。ただ純粋な快楽がある。だが復讐とかなら明確に解消するためにはただ快楽があればそれで良いわけじゃない。
爽快感は動機やプロセスの重要性を無視してしまうところがあるのでモヤモヤしてたんだろうと私は今になると分かる。