空が泣く桜の木の下で/もう一度、やり直そう。
「空が泣いているよ」
そう俺の祖母は今日の天気を言い表した。ざあざあ、ざあざあと空から滴り落ちる水音が、屋根を鳴らす。こんな天気の日に外出するのはいつもなら嫌だと感じるのだが、今日は別だ。
行かなければならない。そういう義務感にかられつつ、そわそわとしながら朝食を食べる。失敗して固焼きにしてしまった目玉焼きに、もっと落ち付けと言われているかのようだ。
朝食をサッと食べた。卵焼きと同じく、味噌汁も少し塩辛く作ってしまったなと自分の落ち着きの無さに苦笑しつつ、祖母に行ってきますと言った。
「まだ捕らえられているのかい? あの過去に」
そう祖母に問われたが、俺は答えなかった。少々裏の擦れてきた靴を履き、傘をさす。
玄関を出て、水たまりを踏めば。ばしゃりと音が鳴る。歪んだ水面に映る俺の表情は、水たまりに睨まれているかのような感じを受けた。
傘を空からの水滴が鳴らす。少し風があるので、傘をさしていても、ズボンの当りが濡れてしまう。このベタベタした冷たい感覚は大嫌いだ。だが、雨合羽を着るのも、不格好で嫌だし、結局、我慢して歩く。
途中、子供達が登校しているのが目に入った。少しだけ、心が温かくなった気がした。やはり子供というのはいい。こんな陰鬱な天気でも、元気が有り余っている。
そのまま俺は、この街の小さな駅に向かい、上りの電車を待つ。その間も、水滴は途切れることなく、降り続けていた。
◇
ジリリ、ジリリとスマートフォンの目覚まし時計が私に起きろと叫ぶ。私は気怠く目を空け、カーテンへと向かった。ざっと開けると、やはり私の目に映る天気は悪い。
今日も空が泣いていた。いや、もしかしたら、私のことを嘲笑って、空が笑い泣きしているのだろうか。そんな暗い思いに駆られる。
すこし、お腹が空腹を訴えてきたので、買い置きしておいたパンを齧る。中にマーガリンが入っているパン。子供のころからの付き合いで、美味しいのだが、少し寂しい。
ふと、カレンダーを見れば、今日があの日だということがわかった。そうか、もう一年か。そう思うと、涙がこぼれてくる。そうだ。あの人は約束を覚えているだろうか。
多分、覚えていないだろうけど。行かない理由もない。私は、身支度を整え、雨の日用の靴を履き、玄関から外に出る。
外では、子猫が雨宿りしていた。親はどうしたのだろうか。そう思い、近づけば逃げられる。ふっと苦笑し、傘をさして私は歩き出す。水たまりを踏み、その揺らめく水面を見た。私の表情が映り、水たまりまで泣いている。そんな気分になった。
クチュ、クチュ、ジャブ、ジャブと靴が音を鳴らす。そのまま私は、町の小さな駅に向かい、下りの列車を待った。
水滴が止む気配は、まだない。
◇
電車に乗って、二十分ほど。周りにほとんど何もない無人駅に到着する。そこで降り、俺は桜の木のある丘へと向かう。あいつ、来ているだろうか。その想いがとても強い。来ていなくても仕方がないが、来ていてほしい。
桜の木のある丘。そこに向かう道の雑草が水滴に濡れ、靴を、ズボンを濡らす。雑草が馬鹿にしてきているかのようだ。それも仕方がないが。
ジャブ、ジャブと音を鳴らし、靴を水と泥で汚しながら桜の木に向かう。そしてようやく着いた。
そこには、長髪の儚げな女性が傘をさして立っていた。俺の、大切だった。いや、今でも大切な女性。
雨風が、桜の花びらを散らし、俺の方に飛ばす。この女性に近づくな。そう言っているかのよう。
彼女の隣に立つ。桜の木に、二人して怒られているような気分になる。それだけ、桜の木は大きく、偉大な雰囲気だ。
◇
電車に乗って、十分ほど。私は桜のある丘近くの無人駅に下りた。地面はアスファルトに水たまりが所々にできており、その水たまりを踏みながら私は丘へと向かう。
少し雑草が茂る道に入る。水気を吸った雑草たちが、私の靴を濡らす。まるで、雑草たちが泣いているかのようだ。ごめんね。そう思いつつ、私は歩みを進める。
桜の木。その傍には誰もいなかった。少し残念に思いつつも。仕方がないかと思う。やはり、彼も他の男たちと同じだったのだ。そう思いながらも、雨音を聞きながら、私は桜の木の前に立つ。桜の木は偉大で、とても大きい。そこからは、優しい気が感じられた。
まるで、桜の木が私を慰めてくれているかのよう。
そんな時、後ろから足音が聞こえた、私は振り向かない。だが、内心とても驚いていた。なんで、本当に来てくれたの?
次に感じたのは喜び。そして、少しの自己嫌悪。ぎゅっと、傘を握る。
彼が、隣に立つ。バクン、バクンと心臓が鳴る。そして、彼が口を開いた。
◇
「一年ぶり。元気だったか」
「ええ」
「ちゃんと、飯食ってるか? なんか、前より細い気がするけど」
「ええ」
「雨が強いな。なんか、俺のことを叱ってるみたいだ」
「ええ」
「……なあ、まだ許せないか? 自分の事」
「……ええ」
「お前のせいじゃない。っていっても、お前の心は癒せないよな」
「……ええ」
「あの子の事がお前のせいなら、俺の罪も思い」
「そんな、ことは」
「お前の体が弱いことを知っていて、お前に子供を産ませようとしたんだ。で、結局。子供を選ぶか、お前を選ぶかの二択で、お前を選んだ」
「……ううん。私も、赤ちゃんが産みたかった。だから、赤ちゃんがお腹の中にできた時、とても嬉しかった。だから、あなた以上に、私も悪いよ」
「俺達が出会った、この桜に木の下で、泣くお前の背中を、俺は抱きしめられなかった。自責の念で、抱く資格はないって思ったから……なんて、体のいい言い訳だがよ」
「……うん。私、抱きしめてほしかった」
「だから、さ。もう一度だけ。一度だけでいい。チャンスをくれ」
◇
ぎゅ、と男が女の体を抱き締める。
女の体は、男を拒絶するように震えているように、男は感じた。だが、それでも抱きしめる。
すると、少しずつ、空からの涙が少なくなる。怒るように吹いていた風が止む。空気が、黙ったかのように静かになる。
「遅いよ。馬鹿」
そう女は呟く。そして、背中から抱きしめていた男の体を振りほどき。
「私も……寂しかった! ずっと、待ってた! 」
そう思いを男にぶつけ、女もまた、男を抱きしめた。二人の湿った服が、体が抱きしめあう。
二人の嗚咽が、黙っていた空気に中に響く。少しずつ、雲の間から光が差し込む。
桜の木が見おろす下で、一組の男女が、夫婦に戻るきっかけをつかんだ。
ふわり、ふわりと散る桜が、笑っているかのような。そんな気を感じさせる。
◇
「おや、空が笑顔になったねぇ。」
その誰かのつぶやきは、空に溶けて行った……