小さき花嫁の悩み
小話としては、長め(当社比)です。
キリエ城にやってきたその人は、チサを視界に入れたかと思うのにスーッと視線を外してしまった。
微笑みながら城主であるキリエ侯爵を見据え、「侯爵のご趣味に難癖を申し上げるつもりは 毛頭 ありませんが、私は 子供 は嫌いです」とのたまった。
ガーン!
と、チサは後頭部を大きなハンマーで殴られた気がした。
もちろん、自分の外見がそんなふうに映るのは長年の経験とか、毎日眺める鏡とかで十分に痛感させられている事柄ではあるけれど……何も大好きなキリエ侯爵の前で、自分に聞こえる声で言わなくてもいいと思うっ!
ググッと唇を噛むチサに手を置いて、慰めてくれたのはキリエ侯爵の侍従であるリザだった。男装のよく似合う美人の彼女は申し訳なさそうに微笑むと、謝った。
「あまり気に病まないでください、チサ様。兄は大人げはありませんが、侯爵に忠実なので、命令には従います。結婚の反対は多少するでしょうが、侯爵は頑固なので問題ありません」
「………」
それは、問題あるのではないの? と感じるものの、侯爵とリザの兄である彼の会話は一方通行のようだ。
「シリル、チサは子どもではないよ。ちゃんと成人しているし、立派なレディだ」
「仮にそうだとしても、です。何もキース様がこんな……」
「シリル」
「はっ、口が過ぎました。申し訳ございません」
膝を折る彼に冷やかな声で侯爵は、命じる。
「私とチサとの結婚は決定事項だ。すなわち、チサは君の主でもある――解かるね?」
「はい。チサ様、ご無礼をお詫びいたします。どうぞ、何なりとお申し付けを」
「あ、うっ……いえ、その、よろしく……お願い、します、ね?」
いーやー、睨んでる。超睨んでますからっ! こ、怖いぃぃぃ!!
「兄上、チサ様が怯えています。もう少し友好的になれませんか?」
「これが地顔だ、リザ。お前が付いていながら、なんだこの花嫁は? 子供〔ガキ〕ではないかっ」
「チサ様は大人です。少なくとも 大人げない 兄上よりは、ずっと」
「なにーっ」
え? えー?! ちょっと、頭上でケンカしないでよー。
「落ちついて、ねぇ、二人とも」
懇願してみるけれど、勃発した兄妹喧嘩はなかなか収束しそうにない。途方に暮れていると、腕を引っ張られ侯爵にその場を離れるよう促された。
あう、あう……ほっといていいんデスカー?
「大丈夫、二人の喧嘩はいつもの挨拶みたいなものだからね」
って、侯爵は可笑しそうに言うけれど、チサはそれどころではなかった。その諍いの発端がほかならぬ自分の「幼い」見た目のせいだと思うからだ。
「こ、キースさま。わたし……頑張ります。花嫁として、認めてもらえるように」
執務室の扉を開けて、侯爵は「うん」と嬉しそうに頷く。
執務室の椅子に座ると、膝にチサを横抱きにして座らせた。
「でも、まあ、十分だと思うんだけどね。今のままでも貴女は可愛いから」
「……侯爵さま」
「キース、だってば。まだ、慣れない?」
「すみません。……キースさま」
ふふふ、と笑う侯爵の煌めく笑顔にチサは真っ赤になって、常にない至近距離(ベッド以外で!)に居たたまれず目を泳がせた。
そうこうしている内に額に彼の手がかかり、前髪が払われる。
(ん?)
と、思っていると、そこに柔らかな感触が触れた。
唇だと気づくのに数秒。
ぼうっと見ていると、さらに手を取って侯爵は指先にキスをする。
(こ、じゃなかった……)
「キースさまは、キス魔ですか?」
チサからすれば素朴な問いかけだったのだが、彼には面白かったらしい。
クスクスと笑うと、どうかな? と首を傾げる。
「血を貰う以外にも、欲はあるからねぇ?」
と、チサの胸元にあるリボンを弄りながら呟いた。
(――欲?)
首を傾げるチサに、侯爵の唇が迫った。
息がかかるほど傍にやってきたそれに思考が追いつけないまま固まっていると、不意に動きが止まって扉の方をアメジストの瞳が見つめた。
「勝手に入ってくるなよ、二人とも」
「申し訳ありません」
リザとシリル、二人が同時に頭を下げ、「ですが、執務に差支えが出ては困りますので」と温度差のある瞳で答える。
リザは温かい眼差しで、シリルは氷点下の眼差しで主〔おも〕にチサへと視線を向ける。
視線の先は胸元にあるリボンだと気づいたチサは、慌てて乱れたリボンを直した。
「き、キースさま! わたしはもう大丈夫です。あのっ、お仕事のお邪魔をして申し訳ありません」
「そうか? 私はまだ構い足りないのだけれど……仕方ないね。チサ」
「はい」
「また、夜にね」
「……はい」
なん、だろう? ものすごく胸がザワザワとして騒がしい。
毎夜、同じことをされているだけで恥ずかしがったりするのはおかしいと思うのだが、夜毎に胸への行為〔それ〕がエスカレートしていると感じるのは、気のせい……だろうか?
(それに、さっきの……唇に、触れそう、だった?)
そう思い至ると、チサはボンッと胸が破裂するのではないかと思うほど、鼓動が跳ねた気がした。
*** ***
また夜にね、と言ったのにその夜は彼は寝室に戻らなかった――少なくとも、チサが起きて待っている間には、という意味だが。
そうして。
朝。彼女が目覚めた時にはすでに侯爵の姿は寝室にはなく、まるで一晩戻ってこなかったようだった。
けれど、どうやらチサが眠っている間には一度戻っていたらしい。
シッカリついた首筋の歯型が、その証だ。
困惑しきりのチサに、侍従のリザが目を見開いて、楽しそうに言った。
「これは……侯爵らしいというか。なんていうか……また、あからさまな 所有印 ですね」
「しょゆう、いん?」
とは、ソレは、ナニ??
意味が理解できず、チサは首を傾げた。
「ええ、痕を残すなんて子供染みたことをなさるのは、よほどチサ様に構ってほしいんでしょう? 貴女を起こせなくてジリジリなさる彼〔か〕の御姿が目に浮かびます」
「……そう、なの?」
目に浮かぶと言われて想像してみるけれど、チサには まったく 思い浮かばなかった。これが、長年付き従っているという侍従の彼女と、俄か花嫁の差だろうか? なんだか悔しい。
「でも、まあ。その印はあまり人目に触れるのはよろしくありませんし、バンソーコーでも貼って隠しちゃいましょう」
聞き慣れない単語が出てきた。
「バンソーコー?」
「コレです。怪我したトコロに貼って悪化するのを防ぐテープです」
「ふーん。そうなのね、初めて見たわ」
「便利ですよ? 少しお持ちになりますか? チサ様」
「そうね、欲しいわ」
どちらかというと動き回ることの多いチサはコクリと頷いて、リザから数枚譲ってもらった。貼る前にはキチンと汚れを落として消毒してください、と注意をされて神妙に頷くと、丁寧に布に包んでドレスのポケットに入れた。
それから二、三日侯爵の姿をチサは垣間見る程度にしか見ることができなかった。
どうやら、結婚の儀式に際してかなり仕事を調整しなければならないらしく、皺寄せに詰め込まれたのだとかなんだとか、リザがどこか申し訳なさそうに告げた。
その忙殺の根源に彼女の兄が関与しているのは明白で、彼女もそれを隠そうとはしない。
なにしろ、「大人げない」と最初から教えてくれていたのだ。
「どうぞ、しばらく兄の嫌がらせにお付き合いください。個人的に満足すれば仕事はしますから……あれでも有能なんです」
「はぁ……」
やっぱり嫌がらせなのか、と納得すれば、侯爵と触れ合っていない時間が妙に寂しく感じられ、彼〔か〕の温もりが恋しくなってきた。もちろん、寝ている間に彼はやってきて痕跡を残してはいるけれど、ここ数日は朝の挨拶さえ交わしていないのだ。
相手が一方的なら、こちらも多少一方的に行動を起こしても許されるのではないか?
そう、たとえば後をつけるとか……仕事の様子を覗くとか……してみたい。
おずおずと男装の美しい侍従に訊いてみれば、彼女は微笑んで「いいんじゃないですか」と頷いてくれた。
改まったように頭を下げられ、ビックリする。
「侯爵をよろしくお願いします、チサ様」
「! うぇ、あ……はい」
どうしてよろしくお願いされたのかよく分からないまま、チサは請け負って頬を赤く染めたのだった。
執務室の扉をこっそりと開けて覗けば、そこには難しい顔をしている侯爵と澄ました顔の侍従……リザの兄であるシリルがいた。
侯爵は執務机の椅子に座り、付き従うシリルはその横あたりで立って控えている。
何かの書類に目を落としていた侯爵は、顔を顰め、息を吐いた。
(なんだろう? 領地内で問題事でも起こっているのだろうか?)
が、チサの心配とはどうも趣きが違うらしい。
「シリル、お前も懲りないな? 何度持ってきても受ける気はない」
「ですが」
「くどいぞ。それより日程の調整はどうなっている? できるだけ早く、と私は言ったはずだが」
「はい。二か月後には……不満そうな顔をしてもこれが限界です、侯爵。結婚とはお二人だけの問題ではないのですよ? 少なくとも侯爵の威厳に適う規模で大々的に、かつ厳粛に執り行うべき儀式です。準備も招待客への挨拶も礼を欠けば将来のお二人のためになりません」
キッパリと告げる侍従の彼に、主たる侯爵は渋々了解した。
「まあ、いいだろう。しかし、結婚を決めた人間に別の令嬢の見合いをすすめるのはやめないか? 労力の無駄だ」
「いいえ。無駄かどうかはやってみなければ……キース様が目を覚まされる可能性は十分にあります」
「ほう? 私はシッカリ起きてるぞ。ここ最近では 一番 冴えてるくらいだ」
「気の、迷いでしょう」
主従の冷え冷えとした(割に当人たちは淡々とした)応酬は続いているが、チサにはある単語が飛び出した時点で聞こえていない。
そう、見合いだと彼は言った。
難しく眺めていたのは、侍従が用意した見合いの書類だったのだ!
フラフラと立ち上がると、チサは執務室から離れた。
(とりあえず、キース様は断ってくれているのだし……落ち着こう。うん、それがいいわ)
衝撃を受けた胸を宥め、それでもかなりのショックを隠せずに表情を歪める。
(泣いちゃ、ダメだ……)
ぽろり、と翡翠の瞳から涙が滲んで、慌てて堪える。頬を濡らした滴に自身の不甲斐なさを感じて、余計に涙が出てきた。
本格的に泣けてきて、チサは誰もいない場所を探して駆け出した。
*** ***
悪いのはなんだろうか?
幼すぎる見た目? それとも、どこもかしこも成長のない体? もっと単純に商人上がりの男爵家と由緒正しい侯爵家の身分差もあるし、いや、むしろそのすべてが理由というあまりに悲しい現実かもしれない。くすん。
と、城の中庭の植え込みの奥でうずくまっていたら通りすがりの妖精と目が合った。
「………」
互いに気まずい沈黙のあと、初対面の妖精の方が気を遣ったのか(チサの泣き顔は庇護欲を掻きたてるらしい)声をかけてきた。
「は、花嫁さま、いかが……されました?」
どうやら、チサが城主のキリエ侯爵の花嫁というのは彼ら城に棲まう妖精たちの中でも有名なようだ。姿を見せないだけで、そこかしこに隠れている……ということだろうか?
「へ、平気です。ありがとう」
にこり、と涙をおさめて慌てて微笑むと、透明の羽を持った少女のような妖精はエヘヘと傍に寄ってくる。
「侯爵の花嫁さま、相談くらいのりましてよ? 侯爵を誘惑したいんですの?」
好奇心いっぱいの爛々とした眼差しで言ったかと思うと、ガサガサと植え込みが揺れて向こう側からも「どうなんですの? どうなんですの?」やら「毎夜、同じ寝台なのですもの、当然ですわよ~!」やら「キャー、ソレって口にしてしまっていいんですのー?」とかしましい若い娘の話し声が聞こえてくる。
どうやら、妖精のお嬢さん方はこういう恋愛話が好物らしい。
泣いていたことも忘れて、チサは真っ赤になって否定した。
「ゆ、ユウワク?! ちがっ、しませんっ!! それに何も、……ありませんから~~っ」
「えー?」
あからさまにつまんない、と言いたげな少女たちの声にチサは申し訳なくなる。いや、べつに彼女たちの楽しみに協力する必要はないのだけれど……チサ自身も自分の身の不徳のいたすところ、というか。なんというか。ううっ。
もうちょっと、色気があればなあ……なんて思うワケで。
「ここ数日は、姿もほとんど見てないの……」
シュン、となったチサに妖精たちは同情を示した。
「まあ、そうなんですの?」
「そういえば、最近城内〔なか〕が騒がしいですわ。誰かが邪魔をしてますのね!」
嬉々とした声。同情っていうか、……好奇、かも?
「花嫁さま、大丈夫です。侯爵さまはきっと今夜は戻ってきますわっ」
「無粋な邪魔者は我らが退治しますわぁ、どうぞ存分に侯爵さまを誘惑なさってネ」
キャーキャー言いながら彼女たちの声は遠のき、植え込みにはチサだけが取り残された。
「……え?」
呆然と呟いて、去り際の妖精たちの会話を消化した頃、ボン! と頭から火が出るほどに狼狽えて当惑した。
(退治って、え? 誘惑って……えー? 勝手に決められても困るんですけどーっ)
まさか、と思っていたけれど妖精たちの言葉通りに数日ぶりの彼の姿を寝室で見つけてチサはショックを隠せなかった。
「どうしたの? チサ」
「いえ……あの、キースさま……お仕事は、落ち着いたのですか?」
だったらいいのに、という希望を込めて訊いてみる。けれど、侯爵である彼の答えは曖昧だった。
「うーん、それがよく私にも分からないんだ。シリルが今日はもういいって……なんだか、彼の方が疲れていたようだけど、何かあったかな?」
「そ……そうなのですか。申し訳、ありません」
平身低頭、チサは身を縮めた。ただでさえ小さいのに、さらに小さくなりそうだ。
侯爵は彼女に手を伸ばすと、引き寄せて抱き上げる。
右腕に彼女を乗せて、耳元に唇を寄せた。
「ん? なんでチサが謝るの? 私としては彼の方が貴女に謝罪すべきだと思っているのだけどね?」
「……いえ。そんな……謝罪だなんて」
「そうかい? 彼は貴女に失礼極まりないだろう。私の方がそろそろ腹に据えかねていたのだけど、チサはもっと我儘になった方がいいね」
「わがまま、ですか?」
そんなことを言われたのは初めてで――何しろチサは十分に貴族の娘としては落第点を貰えるほどの行動派だし、落ち着きがなく、大人らしさも色気もない。むしろ、行儀作法の先生からは「もっと自覚を!」と小言を言われるほうが多い生徒だった。
「そう、君が求めるものは、なに?」
「え、あの……どうしよう。考えたこともありませんでした……でも、不満はありません。侯爵さまとこうしているだけで幸せなので」
慌ててチサは言い募り、頬を染める。
「そうなの?」
「はい。会えないと寂しいです、侯爵さま」
「……キース、だよ。私も寂しかったな」
彼は彼女を寝台まで運び、下ろすと、小さな体を白いリネンのシーツに沈めて抱き締め、首筋に歯を立てる。
「あ……」
吐息を吐いて、ナデナデと侯爵の頭を撫でるのは数日ぶりだ。けれど、もっと長い時間離れていたような気持ちになって、無性に懐かしい。
「眠っている貴女の血だけいただくのは、やはり味気ない。次からは起こしても――いい?」
「は、はいっ!」
ペロペロと首筋を舐めた侯爵が無邪気な笑顔で提案したそれが、チサはとても嬉しくてギュっと彼に抱きついた。そうか、求めていたのはこれだったのか、と自分でも気がつかなかった望みに驚いて、知らず腕に力がこもった。