第八章
その夜の街は、雨に濡れていた。
アスファルトの道に街灯が揺らめき、行き交う人々は誰もが俯いて傘を差していた。無関心という名のマスクを被り、濡れた現実から目を背けるように。
藤堂柊一は、バスを降りて数分歩いた雑居ビルの屋上に立っていた。眼下に広がるこの都市のどこかに、志乃が残した「最後のメッセージ」がある。それを知っているのは、ただ一人──彼女の元恋人であり、元・同僚研究者。かつて柊一が教鞭を執っていた大学で、彼と共同研究を行っていた男。
その名は葛城湧一。
「来ると思ってたよ。雨の中、ご苦労さん」
背後から、やや擦れた低い声が響いた。振り返ると、コートを羽織った男がビルのドアから現れる。黒縁の眼鏡に、白髪混じりの髪。だがその瞳には、かつての研究室で見たような光が宿っていた。
「湧一……お前、なぜ施設のことを黙っていた」
「……黙ってたんじゃない。忘れさせられたんだよ。あいつらはお前だけじゃない。俺の記憶も書き換えた。志乃の姉が死んだあの日、俺たちは”研究を終えた”はずだったのに」
「でも君は、思い出したんだな?」
「いや、志乃が思い出させてくれた。最後に会ったとき、彼女は“自分は藤堂先生を信じている”って言った。俺には何もできなかった。でも、君なら変えられると思ってた」
湧一は懐から封筒を取り出し、差し出した。
「これは志乃の姉・玲の遺したデータのバックアップ。医療機関の非公開実験、記憶操作による人格改変、そして……“成功例”の記録。お前の名前が最後に記されてる。成功例No.13、コードネーム《ノクターン》」
柊一の目の奥が、焼けるように熱くなった。
ノクターン。
それは、彼のコードネームだったのか? 静かに、だが確かに“誰かの手で奏でられた夜想曲”。
哀しみの中で紡がれた実験体。
いや──それでもなお、意思を持った存在。
「君はどうする、藤堂。これを世間に出せば、確実に君は“消される”。研究所は君を“死んだ被験者”として処理するだろう。だけど……その記録を公開すれば、他の犠牲者たちは“存在を証明される”。志乃の姉も、志乃自身も」
柊一は一歩、ビルの縁に近づく。
雨は細くなっていた。雲間から、うっすらと朝の光が差してくる。夜が終わりを告げようとしている。
彼は問いを自分自身に向けた。
──自分は何者か?
──記憶を失い、操られ、それでも「誰かを救いたい」と願った男は、果たして“嘘の人間”だったのか?
いいや。違う。
記憶が偽物でも、選んできた道は本物だった。
志乃の手を掴んだあの日。
彼女の涙を拭いたあの夜。
全部、自分の意思だった。
「……ありがとう、湧一。君に会えてよかった」
柊一はバックアップデータを胸に抱き、ビルを下りた。
そして向かったのは、フリージャーナリスト・雨宮沙月のオフィス。彼女はかつて、玲の死を単なる自殺と報じた張本人だった。
だが今なら、彼女も分かるはずだ。事実と真実の違いを。
「雨宮さん。君が伝えた“死”には続きがある。あれは終わりじゃない。始まりだったんだ」
沙月はしばらく黙っていたが、データを見て、小さく息を呑んだ。
「これは……まるで、フィクションね。でも……これは“書かれるべき物語”だわ」
柊一はゆっくりと頷いた。
「誰かの命が、記憶が、踏みにじられたまま埋もれるなら──せめて、真実だけは残しておきたい」
「記事にするわ。名前は?」
「……“藤堂柊一”で、頼むよ。俺の記憶が本物でも偽物でも、最後にその名で終わりたい」
その瞬間、遠くで救急車のサイレンが響いた。
だが、それはもう彼にとって、過去の亡霊ではなかった。
朝日が、雨に濡れた街を照らしていた。
どこまでも静かで、まるで夜想曲の最後の一音のように。