第ニ章
夜になると、音が増える。
昼間はあんなに静かな病棟が、闇の帳に包まれると、さまざまな“音”で満たされる。
雨音、誰かの寝返り、微かに鳴るナースステーションの無線、壁越しの呻き声。
その一つひとつが、まるでこの施設が「生きている」かのような錯覚を生む。
柊一はベッドの上で、毛布を引き寄せながら天井を見ていた。
今日一日で得た情報は、どれも曖昧で、不安に満ちていた。
佐久間という男の言葉が頭を離れない──「雨が降ったら、気をつけろ」──あの一言が、夜の暗がりの中でゆっくりと大きくなっていく。
自分はなぜここにいるのか。
なぜ、名前しか思い出せないのか。
どうして、“事件性あり”という記録があるのか。
そして──雨の日に、消えた患者たち。
まるで物語の中に取り残された登場人物のようだ、と柊一は思った。だが、この“物語”は、どうやらミステリーでもサスペンスでもなく、自分自身の記憶という名の“真実”に関わっている。
──ならば、掘り起こさねばならない。
柊一はベッドからそっと立ち上がった。
夜間の病棟は消灯されており、足元の非常灯だけが細く床を照らしている。扉を開けると、廊下の向こうに誰もいないことを確認する。
静かに歩き出す。
スリッパの足音すら出さぬよう、慎重に。
目指すは──資料室だった。
三嶋医師が最初の案内の際に「職員以外立ち入り禁止」と言っていた場所。だがそれが意味するのは、逆に“何かがある”ということだ。
ドアには暗証番号式のロックが掛かっていた。
だが、記憶の奥底からふと浮かび上がった四桁の数字があった。何の根拠もなく、ただ“それしかない”と思えた。
【0310】
──ピピッ。カチ。
ドアが静かに開いた。
資料室は狭く、埃の匂いが鼻を刺す。
蛍光灯は古びていて、鈍い白色が棚のファイルに影を落としている。
「……あるはずだ」
彼は棚の中を漁りはじめた。
“藤堂柊一”の記録。
“記憶障害”と記されたファイル。
そのどれかに、何か引っかかるものがあるはずだ。
――そして、それは見つかった。
棚の奥の封筒。宛名のないそれを開くと、中には一冊の古びたノートが入っていた。
茶色く変色した表紙。罫線が引かれた中に、走り書きのような文字が躍っている。
『2025年3月3日 雨』
──また、あの夢を見た。
ページをめくるたびに、胸がざわめいた。
そこに綴られていたのは、記憶ではない。だが確かに、自分自身の言葉だった。
「誰かが死んだ。だけど僕は何もしていない。ただ見ていた。見ていたのに、なぜか濡れていた。手が。血で」
「彼女の目は、最後まで僕を見ていた。問い詰めるように、赦すように」
「なのに、僕は名前が思い出せない。彼女の、名前が──」
血。死。赦し。
ページの端にはインクが滲み、手が震えていたような痕跡もある。
これは──自分が書いた“日記”なのか?
それとも……誰かに書かされた“告白”か?
「何してるの?」
背後から、不意に声がした。
心臓が跳ね上がる。
振り向くと、そこにいたのは──白衣姿の三嶋医師だった。
「……そのノートは」
「……知ってたんですか? 俺が……何をしたか」
三嶋は一歩近づき、机の角にそっと寄りかかる。
表情は穏やかだったが、瞳の奥は一切笑っていなかった。
「その日記は、あなたがこの施設に来る“直前”まで書いていたものです。つまり、あなたの“消された記憶”の断片です」
「消された? ……誰に?」
三嶋はゆっくりと口元を動かした。
「それは、あなた自身よ」
静かな沈黙が落ちた。
柊一は思わずノートを胸に抱きしめる。
「……俺は、誰かを殺したのか」
「今はまだ、答える時期ではないわ」
「でも藤堂さん……覚えていて。記憶は、真実ではないの。時に、願望であり、罪悪感であり……そして、逃避でもある」
その言葉が意味するものを理解するには、まだ時間が必要だった。
柊一はノートを強く握ったまま、黙って資料室を後にした。
その背後で、雨の音が──
まるで何かを許さぬように、激しく屋根を叩いていた。