第一章
食堂は異様なほど静かだった。
テーブルが四つ。椅子が十二脚。壁際にはティーポットと紙コップ、そしておそらく使用禁止になっているであろう飴色のテレビが一台。どこもかしこも、白と灰色と、わずかに剥げた木目調の色しか存在していない。
柊一は足を踏み入れた瞬間、その空気の“うすさ”に息が詰まりそうになった。
食堂にはすでに五人の患者が座っていた。だが、誰ひとり口を開いていない。
うつむく者、宙を見つめる者、目を細めて柊一を見ている者。表情のどれもが乾いていて、まるで“この世の話”をしていないような顔つきだった。
「ご紹介します。今日からこちらで療養される、藤堂柊一さんです」
三嶋医師が、職業的な笑顔で紹介する。誰かが拍手をするでもなく、ただ数名が顔だけをこちらに向けた。
「……こんにちは」
柊一はぎこちなく頭を下げた。だが返事は返ってこない。気まずさと居心地の悪さがじわりと胸に張りついた。
「皆さん、少しずつ打ち解けていければいいと思います。藤堂さん、あちらの席にどうぞ」
三嶋医師に促され、窓際の空いた席に座る。
外は灰色の空、濡れた枝葉、そしてぼんやりと遠くの山影。どこにも都会の光や音はなく、電波が届く気配すらない。ここが「世界から切り離された場所」だという感覚が、じわじわと身体を締め付けてくる。
やがて、女性の職員が配膳用のカートを押して入ってきた。
皿の上には、野菜スープ、プレーンなパン、そしてゼリー。どれも味の主張はなさそうで、逆にそれがこの施設の“思想”を物語っているようだった。
ふと、向かいの席から声がした。
「……新入り?」
顔を上げると、痩せた青年が椅子に寄りかかってこちらを見ていた。ぼさぼさの髪、無精髭、鋭い目つき。だがどこか、柊一と同じ“迷子”の匂いがした。
「……ああ。今日から」
柊一が答えると、彼は鼻を鳴らした。
「記憶、ないんだろ。ここの奴ら、だいたいそうだ。事故とか、事件とか、──自分で選んで思い出さない奴もいる」
「君も?」
「さあね。俺は“思い出したくない側”だからさ」
そう言って笑うが、その目は冗談の色を含んでいなかった。
「名前は?」
「藤堂柊一」
「へえ……柊一、ね。俺は佐久間。佐久間誠。忘れたくても、名前だけは残るもんだな」
彼はスープに口をつけながら、ちらりと他の患者を見回す。
「いいか、あの白髪の女は“話しかけちゃいけない奴”だ。見えてるものが違うらしい。隣の窓際の男は毎晩、自分に向かって何か喋ってる。“自分のなかに他人がいる”とか言ってな。あと──」
言いかけて、佐久間は声を潜めた。
「この施設、雨の日になると誰かが……おかしくなるんだよ。これは冗談じゃない」
「どういう意味だ?」
「さあな。けど、去年は三人いた。雨が続いた日、一人ずつ消えた」
「……消えた?」
「事故だったってことになってる。屋上から落ちたとか、シャワー室で倒れたとか。だが誰も死体は見てない。病院送りになったって言うが、戻ってきた奴はひとりもいない。だから──」
佐久間は柊一の目をじっと見て、言った。
「雨が降ったら、気をつけろ。……そういうことだ」
その瞬間、窓の外で雷鳴が鳴った。
曇ったガラスに、一筋の稲光が滲んだ。
雨は、やんでなどいなかった。
それどころか、あの朝よりも──
激しく、重く、施設の屋根を叩いている。