第九章
それは、静かな朝だった。
曇り空から雨はもう降っていなかったが、濡れた街はまだ夜の名残を抱いていた。空気には昨日までの憂いがほんのりと滲み、車の走る音も、遠ざかるサイレンも、まるで世界が夢の続きにいるようだった。
藤堂柊一は、公園のベンチに座っていた。雨宮沙月が記事を公開した翌朝、静かにその反響を見つめていた。
スマートフォンには通知の嵐が続いていた。
《某医療研究機関、記憶操作実験の隠蔽》
《告発者・藤堂柊一とは何者か》
《失われた記憶と消された被験者たち──ノクターン計画の全貌》
誰もが、ようやく口を閉ざすことをやめた。
誰かが勇気を出し、嘘を暴いた。
そして、真実がようやく光を浴びた。
「柊一……やっぱり、あなたはあの時と同じ目をしてる」
声の方を向くと、そこに立っていたのは、志乃だった──ように見えた。
いや、違う。彼女は志乃の双子の姉、玲だった。
「……死んだはずじゃ」
「死んだのは、私の記録よ。彼らは“自殺として処理”した。でも、私はあの火災から逃げた。志乃が助けてくれたの。彼女は私を隠し、私の代わりに……」
声が震える。柊一の胸の奥が軋むように痛んだ。
「……志乃は、全部知っていたんだな」
「ええ。あなたが“ノクターン”であることも、記憶が改変されていることも。でも彼女は、それでもあなたを信じた。“本物のあなた”は記憶にある過去じゃなくて、今ここにいる人だって」
玲はバッグから一冊のノートを差し出した。
それは志乃の日記だった。
最期の数週間、療養施設で彼女が綴っていたもの。
柊一は震える指でページをめくった。
文字は丸く、やさしかった。彼の知らない時間が、そこに確かに息づいていた。
《……彼が過去を失っていても、私が見てきた彼の優しさは嘘じゃない》
《記憶は消されても、心までは消せない》
《私は信じる。藤堂先生が、真実を見つけてくれることを》
目頭が熱くなり、視界が滲む。
彼女は、ずっと見ていてくれたのだ。
彼が「誰か」であることを──彼自身であることを。
「ありがとう、玲さん……」
玲は、静かに頷いた。
「私はもう逃げない。志乃が遺した想いを、私が継ぐ。記憶を奪われた人たちが、戻る場所を失わないように」
彼女は立ち去ろうとし、ふと立ち止まった。
「ねえ、柊一さん。あなたは……記憶を戻したいと思う?」
柊一は少し考えて、答えた。
「思わないよ。あの過去がどんなに幸せでも、偽物でも、俺は今を選ぶ。
記憶がなくても、誰かを守ることはできる。
志乃が、俺にそう教えてくれた」
玲は目を細めて、微笑んだ。
それはまるで、志乃が最後に見せた笑顔と重なるようだった。
──その日、藤堂柊一はすべてを捨てた。
過去も、肩書も、安全な暮らしも。
だが、彼が手に入れたものもあった。
それは“誰かのために選べる未来”だった。
◇
数ヶ月後。
山間の小さな町で、小さな診療所が開設された。
医師は元大学教授であり、研究者でもあったが、今はその名を公表しない。
名前も変えた。肩書きも棄てた。
だが、患者はみなこう呼んだ。
「先生は、雨の夜に来たんだよ。まるで、夜が明けるみたいに」
──藤堂柊一。
かつて、ノクターンと呼ばれた男は、もういなかった。
そのかわり、雨音が止んだ朝のように、確かに“誰かの希望”として、彼はそこにいた。