プロローグ
──雨の音が、ずっと聞こえていた。
まるで天井のどこかに雨粒がぶつかっているような、単調で、やけに穏やかな音。けれどその音が、まるで耳の奥に直接染み込んでくるようで、寝ていたはずの身体がそれに目を覚ました。
視界はすぐにははっきりしなかった。ぼやけて、滲んで、白っぽい光に包まれている。
少しして、柊一は天井を見上げていたことに気づいた。無機質な白い天井。小さなシミ。人工的な蛍光灯。どれも見覚えがない。
首を横に動かしても、そこにあるのは白いカーテンと、ベッドの脇に設置された金属製の手すり、そしてガランとした無音の空間だった。雨音を除けば、まるで時間が止まってしまったかのように静かだった。
ゆっくりと身体を起こす。ベッドの軋みが耳に重たく響く。
部屋の隅には小さなテーブルがあり、その上に置かれた紙ファイルが目に入った。掠れた文字で、「患者情報──藤堂柊一」と書かれている。
──藤堂柊一。それが、自分の名前だ。
そう理解するまでに、数秒の間があった。名前だけは確かに覚えていたが、それ以外が、曖昧だ。
どこで生まれ、何をしてきたのか。なぜここにいるのか。何歳なのか。──そんな当然のことが、霧の中に沈んでいる。
柊一は紙ファイルに手を伸ばす。表紙を開くと、無機質な文言が並んでいた。
【入院日】令和七年三月十日
【病名】選択的記憶障害
【備考】事件性有。本人の同意により入所。リハビリ目的。面会制限あり。
──事件性?
眉をしかめた。その言葉だけが、やけに鮮明に引っかかる。何の事件だ。どうして自分が。だが、何度考えても思い出せない。
気がつくと、両手がじっと汗ばんでいた。
ドアの向こう、廊下のほうから、誰かの足音がゆっくりと近づいてくる。
コン、コン……
硬い靴の音が、規則正しく、どこまでも冷たく響く。
扉がノックされた。
「藤堂さん、起きていますか?」
女性の声。柔らかく、しかしどこか訓練されたような冷静さを帯びている。彼は言葉が出ず、一瞬だけ戸惑った。
「……ええ」
ようやく短く答えると、ドアがゆっくりと開かれた。
現れたのは白衣の女性。年齢は三十代半ばほど。髪はきっちりとまとめられ、マスク越しにも整った顔立ちが見て取れる。胸元の名札には、**「三嶋 環 医師」**と記されていた。
「おはようございます。体調はいかがですか?」
問いかけられても、即答できなかった。なにか不自然なほど丁寧で、言葉の温度が身体に馴染まない。
「ここは……どこなんです?」
柊一の問いに、彼女は一拍置いてから、答えた。
「ここは《シリウス記憶療養センター》です。山間の施設で、記憶に障害を持つ方のための専門病棟です。……あなたは、自ら希望してこの場所に来られました。覚えていませんか?」
自ら? そんな覚えはない。が、否定するには確信がなさすぎた。
柊一はただ、曖昧に首を横に振った。
「ご心配いりません。今はまだ“導入期”ですから。ゆっくり思い出していきましょう。……まずは、食堂まで来られますか? 他の患者の方とも、少しずつ交流していきましょう」
そう言いながら、三嶋医師は部屋の外に一歩下がった。
ドアの隙間から見えた廊下は、まるで無菌室のように白く、真っ直ぐだった。そして奥の小窓の外に、灰色の空が見える。雨は、まだ降り続いていた。
──雨の音だけが、この場所で、妙に生々しく響き続けていた。
『雨音のノクターン』というタイトルは、
雨の静かな音(雨音)が持つ「切なさや不安、心の揺れ」を表し、
ノクターン(夜想曲)が示す「夜の静けさや内面の深い感情」を象徴しています。
この二つが合わさることで、
「静かな夜に響く雨音のように、主人公の心に潜む謎や不安、過去の記憶の断片が少しずつ明らかになっていく」
という物語の雰囲気やテーマを象徴したタイトルになっています。