4.揺れる心
すうっと息を吸い、静かに視線を上げる。
「長期のお勤めお疲れ様でございました。ご無事の帰還を大変うれしく思います」
「ああ。――ひとまず現状の報告と確認をしたいのだが案内を頼めるか」
アレクシスの言葉は事務的で、抑揚を感じさせない。その冷たくも聞こえる口調に、エリサの胸がわずかに痛んだ。感極まっていた自分に対し、その響きはまるで冷や水を浴びるかのようだった。
彼にとって指揮官としての報告が優先されるのは当然だ。そんなことは分かっている。それでも、彼のその態度がどこか他人行儀に感じられたことが悲しかったのかもしれない。
しかし――。
「かしこまりました」
ここで私情を持ち込んで表情を崩すわけにはいかない。エリサはすっかりと自己統制がうまくなったと自負している。それは令嬢としては可愛げがないのかもしれない。けれど辺境を守る一人としては大切で重要なことだと思っている。
エリサは視線で執事長たちに合図を送る。受け止めた従者たちが、到着した兵たちから馬を引き継いだり、武具を預かったりと動き始めた。
「殿下、こちらへ」
わずかに身軽になったアレクシスや彼の側近たちの姿を確認してから、エリサは彼らを中へと案内するべく先に立つ。そうすれば背中に彼の視線を感じて、エリサの心臓は音を立てて高鳴った。
城内ではあわただしく使用人たちが行き来しているが、エリサがアレクシス達を伴って歩く姿を見つけると、はっとしたように立ち止まり頭を下げていく。
それを視線でねぎらいながら少し歩くと、中庭を囲む回廊に出る。すでに宵闇に沈もうとしているが、松明に照らされてかすかに姿を見せている。
貴族の屋敷の中庭というにはあまりにも味気ない。当たり前だ、ここは茶会をするために設けられたものではないのだから。大した花も咲いていないが、それでも緑の広がるこの場所を、エリサは気に入っていた。
(懐かしい)
昔、たまに彼が辺境を訪れたときにはよくこの中庭で父や兄と剣を振っていた。
たまにエリサも混ざることがあったのだが、はじめてそれを見た際のアレクシスは、いつもの冷静な表情を崩してぎょっとした顔をしていた。
その顔がおかしくて、そして同時にうれしくて、エリサは思わず笑ってしまったのだ。
「――変わらないな」
突然耳に届いた声に、エリサは思わず足を止めた。
そっと顔を振り向けると、アレクシスもまた遠くを見つめるように夕暮れの庭を眺めている。
「はい。今でも兄が鍛錬に使うので、どうしても殺風景なままで」
「……エリサも」
ゆっくりと彼がこちらへ顔を向ける。澄んだ藍色の瞳にどこか郷愁を覚えた。
「エリサもここでまだ、剣を振るっているのか」
「え……」
その言葉に目を見張る。アレクシスの瞳からは、相変わらず感情を読み解くことが難しい。
「は、はい。昔ほどではないのですが、腕が鈍らないようにと」
「そうか」
その一言のあと、わずかに瞼を伏せた彼が再び口を開くことはなかった。
いまの答えが正しかったのか、間違っていたのか。アレクシスがどう受け止めたのか。
聞けばいいのに、それができない。ざわりとした心を持て余しながら、エリサは再び前を向いて歩みを進めた。
父が主に使っている重厚な会議室の扉。
それを控えていたカルラが開き、エリサは一歩横に避けると先にアレクシス達を誘導する。
全員が入室し扉が閉まれば、外の喧騒が一気に遠のいて静寂が部屋を包んだ。
机の向こうへ立ったアレクシスが、重たく口を開く。
「さて、取り急ぎ報告だが」
「はい」
「隣国側で軍の再編成が進んでいるらしい。しばらくこの城を拠点に周辺の警備を強化する必要がある」
彼の言葉で、空気に緊張が走る。
アレクシスの視線を受け止め、エリサはいっそう背筋を伸ばした
「ならば、補給の状況をさらに改善しておく必要がありますね。急場をしのぐ手立てを検討します」
アレクシスがわずかに目を開く。
彼が今求めているのは、婚約者の存在ではなくこの砦を守るための力。それを分かっているからこそ、エリサは前で組んでいる手に力を入れて、気を引き締めた。
「軍の状況をここまで整えてくれたこと、感謝している。エリサの働きがなければ、今回の防衛はもっと苦しくなっていただろう」
「お褒めの言葉、恐悦至極に存じます」
エリサは丁寧に頭を下げる。
心の奥で湧き上がろうとする嬉しさと同じくらいの切なさを、そっと押し殺した。
彼に褒められることを嬉しい。役に立てていると実感できるから。しかしその一方で、互いのあまりにも遠い距離を容赦なく悟らされて切ない。
(大丈夫。私はまだ、彼に必要とされている)
そうだ。
必要とされているうちは、微力であったとしても彼を守れているに違いないのだから。
「今後の流れだが――」
机上に広げられた資料を指し示しながら話すアレクシスの考えに、彼の側近たちと机を囲んで耳を傾けた。
退室を促されることもなく、この場に留めてもらえることをエリサは心の奥で感謝していた。
話し合いが終わり部屋を辞したエリサは、カルラを伴い先ほど歩いてきた廊下を戻る。
途中の回廊で、夜風が冷たく頬を撫でた。エリサは不意に立ち止まり、中庭へ出る。カルラは何も言わず、立ち止まってこちらを見守ってくれている。
何気なく見上げた夜空の雲間から、星の瞬きが覗いていた。
この時期に、星の瞬きが見られるのは貴重だ。それはまるで王子の帰還を祝福しているようだった。そっと目を閉じる。
蘇る、彼の言葉のひとつひとつ。そして「よくやっている」と言われた瞬間の高揚感。
それを、うまく消化できずに何も言えなかった後悔。
(もっと……何か話せたらよかったのに)
伝えたいことのひとかけらさえ、言葉にできなかった。こんなの、ちっとも自分らしくない。
(せっかく、お会いできたのに)
無事に帰還してくれてうれしい。大きなけががなくて本当に安心した。
とても成長されていて見違えた。エリサと会わない間、どのように過ごしていた?
会えなくて寂しかった。わたしは役に立てていた?
あなたの、婚約者としてきちんと振る舞えていたかしら。
握りしめた手をそっと開き、吐息をひとつこぼす。彼との距離が縮まる日は果たして来るのか――答えを出せないまま、エリサは城内へ戻る。
いつの間にかショールを手にしていたカルラが、そっと寄り添い肩にかけてくれた。
その温かさに、心がほぐれる。
「お嬢様、どうかご無理はなさらないでくださいませ」
「ありがとう、大丈夫よ」
視線を合わせてにっこりと微笑んだ。
いつものように答えたつもりのエリサだったが、カルラの表情には心配の色が残る。二人の間に漂う微妙な距離感を、彼女も感じ取っているのだろう。
「本当に、大丈夫」
エリサを見つめるカルラの目には、静かな疑念が宿っていた。
侍女として主の心の変化を敏感に察知する彼女は、エリサが隠そうとしている感情をおおよそ理解しているだろう。しかし、それを指摘することはせず、ただそっと寄り添ってくれる。
「さてと! まずは皆さまにゆっくりと休んでいただかなくてはね」
「……はい」
「兵たちの部屋は足りているかしら? 彼らにもなるべく快適に過ごしてもらいたいのよ」
「ぬかりなく。客間はすべて開放しております」
「さすがね。これから忙しくなるわよ、カルラ」
言いながら、エリサは気を引き締める。
そうだ、やらなくてはいけないことはたくさんある。自分の感情に振り回されている暇はない。
自分がしっかり働いて、この地の守りを堅持するのだ。油断してしまえば、領地どころかひいては国の安全さえも脅かしてしまうのだから。
「はい、お嬢様」
エリサの気持ちを汲み取ったように、優秀な侍女もまたしっかりと頷いたのだった。