3.邂逅
トントントン!
唐突に、駆け足気味のノック音が執務室に響いた。
「お嬢様、大変です!」
扉の向こうから、カルラの声が響く。
エリサはペンを走らせていた手を止め、顔を上げた。
「どうぞ」
許可の声と同時に、カルラがわずかに息を切らせながら部屋へ入ってくる。その表情には普段の冷静さが買え、興奮の色が見えた。
「どうしたの、カルラ?」
「アレクシス殿下が、本日こちらに戻られるそうです!」
その言葉に、エリサのぴくりと肩が震える。思わず「殿下」とその響きを脳内で反芻してしまった。
(殿下が……ここに?)
どくん。
鼓動が脈打つ。ペンを握ったままの手に、無意識に力が入った。エリサの胸の中で、いくつもの感情が渦巻きはじめる。驚き、戸惑い、胸の奥でかすかな高揚感が芽生える――しかしその裏で、不安がひそやかに広がった。殿下にどう接すればいいのか、彼はどんな様子で現れるのか、どんな瞳で自分を見てくるのか。考えるだけで心がざわつく。
国境付近での小競り合いは局地的な戦闘へと発展し、戦の火種となりかねない緊張状態が続いていた。しかしそれも、ここにきてようやく落ち着きを見せ始め、エリサもその変化を感じとっていた。
物資の消耗量も減少し、部下たちの表情にも少しずつ余裕が戻りつつある。それでも、アレクシスがこの砦に戻ってくるという発想は彼女の中にはなかった。
(王都へお戻りになるものだとばかり……)
この任務が終わればアレクシスが王都に戻るのは当然のことーー少なくとも、エリサはそう考えていた。
今回の件に対する国王への報告や、この状況を元に新たな任を与えられる可能性もあるだろう。それが彼の役割であり、そうあるべきだと思い込んでいたのだ。
「カルラ、その話は確かなの?」
「はい、伝令が直接報告に参りましたので間違いありません。日が暮れるまでにはこちらに到着される見込みです」
「そう……」
カルラの声は少し上擦っていた。普段の彼女はどんな事態でも常に冷静さを損なわない。それなのに、いまはどこか目を輝かせ、言葉の端々にはたしかな熱が宿っている――それは、これが事実であることを十分に確信させた。
この10年で殿下と顔を合わせた機会は数えるほどしかない。婚約者である彼の存在は、遠い王都の景色に溶け込み触れられない幻のように感じられていた。会わないことがいつしか「当たり前」となり、その「当たり前」が、彼が砦に戻るかもしれないという可能性を彼女の中から消し去っていたのだ。
それなのに、今こうして彼が砦に戻ると告げられると――まるで固く閉ざされていた扉が突然開かれ、忘れていた記憶や抑え込んでいた感情を揺さぶろうとしているようだ。エリサは胸の中がざわざわと騒ぎ立つのをどうしても止められなかった。
「すぐに……すぐに、出迎えの準備を」
エリサは立ち上がると、胸に溜まった空気を大きく吐き出して命じた。
「はい!」
カルラはすぐに部屋を出ていき、動き始めたようだ。
そうして徐々に騒がしさを覚えた城内で、エリサは一人しずかに指先を握りしめた。
―――
冷たい風が身を刺すように吹きつける中、エリサはその場に立ち尽くしていた。重なり合う蹄の音がこちらへと近づくたびに、己の心音も速さを増していく。
(殿下に会うのは……何年ぶりだろう?)
思い出そうとしたところでどうしても、その記憶はぼんやりと霞んでしまう。もともといつも、手紙越しに彼の姿を想像するばかり。それが今、この場所に戻ってくる。
(わたしの、目の前に――)
「お嬢様、大丈夫ですか?」
隣に控えるカルラがそっと声をかける。エリサは微かに頷いたが、その視線は砦の門に向けたままだった。
「開門!」
衛兵の声が響き、久しぶりに門が開かれる。
最初に現れたのは、長旅で疲れ切った兵士たちの列。泥にまみれた防具と足取りの重さが、長く続いた戦いの厳しさを伝えてくる。彼らの姿を目にし、エリサの胸の奥で湧き上がるものがあった――それは敬意と安堵。しかし、その感情はすぐに押し流されていった。
最後に現れた、ひときわ目を引く堂々とした人影。
銀色の髪がさらりと流れ、軽やかに馬から降り立つ。その仕草には、幼い頃の彼にはなかった風格と余裕が滲んでいた。
「……殿下」
震えを隠し切れない声が囁きのように漏れた。たしかにアレクシスだった。
陽が沈みかけた空を背後にして立つ彼は、背筋をまっすぐに伸ばし、凛とした藍色の瞳を砦の中へとまっすぐに向ける。鍛えられた体躯からは幼い頃から続けた鍛錬の積み重ねが見える。
彼が現れた瞬間に間違いなく空気が変わった。精悍な造りの顔は美しさを増し、彼が背負ってきた様々な重圧が刻み込まれているようだった。
(こんなにも……変わられたの?)
エリサは言葉を失った。少年だった彼はもういない。そこにいるのは、数多の戦場を渡り歩いた気高く強い将軍だった。
ゆっくりと出迎えた人々を見渡していたアレクシスの藍色の瞳が、ふとエリサをとらえた。その一瞬、彼の眦が幼いころのようにほんのりと柔らいだように見えたのは、エリサの願望が見せた過去の幻影だったのだろうか。――胸がどうしようもなく詰まった。
「久しいな、エリサ」
「っ」
彼の声は低く、かつての記憶よりも力強い響きを持っていた。その言葉は間違いなく彼女に向けられていて、一瞬にして幼い日々が脳裏に蘇る。それなのに――。
エリサはとっさに言葉を返せなかった。
彼の目に映る自分がどんな存在なのか、エリサには分からなかった。
それが、エリサの不安を煽ってしまい、思わず視線を伏せてしまう。
本当は、しっかりと見つめたい。その姿を焼き付けたい。そう思っているのに。
「……お帰りなさいませ、殿下」
それが、エリサの精いっぱいだった。ようやく絞り出した言葉は、寒風に乗って消え入りそうだった。寒風に乗って消え入りそうなその声は砦の冷たい石壁に吸い込まれ、アレクシスの耳にはどう響いたのか―――俯いたままのエリサには知る術がなかった。