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2.遠ざかる面影

冬の気配があたりを支配している。

エリサは先日16歳を迎えたばかりだった。


カタカタと音を立てる窓の向こうには、灰色の空が果てしなく広がっている。

彼女は静かに窓辺に立ち、遠くに連なる雪山をぼんやりと眺めていた。吹きすさぶ風はどこからともなく氷のかけらを連れてきて、城の石壁を容赦なく叩きつけている。


冷えた空気が隙間から忍び込み、厚手のショール越しでも肌を刺していく。北の果て、辺境の冬はいつだって厳しい。その冷たさは心の奥底までしみわたり、ひたひたと孤独を運んでくるように感じられた。


エリサの執務机には、父レオポルドから託された補給管理の書類が山と積まれている。物資の不足をどう補うか、兵士たちの士気を高めるためにできることは何か、この厳しい冬の戦いを乗り切るためにどう導線を確保すべきか。


(せめて、これ以上天候が荒れなければいいのだけれど……)


小さくため息を漏らす。暖炉の火がパチパチと咎めるように乾いた音を立てた。


エリサに任されている仕事。それは16歳になったばかりの令嬢が担うには重すぎるものだ。それでも、大切なものを守るためにできることが、女であるエリサには限られている。だからこそ、もらった仕事に「無理」とは絶対に言わないと決めていた。

危険と隣り合わせのこの地では、何か仕事を与えられた時点で多くの命を預けられたと同義。それを守りきることこそ、エリサの存在意義だった。


それでも――どうしようもなくむなしさを覚えることはある。

婚約者から最後の手紙が届いたのは、すでに1年以上前だ。

それは、味気ない時候の挨拶に過ぎなかったし、あとは社交辞令と言って差し支えない程度の身を案じる決まり文句に終始していた。


誕生日に贈り物や祝辞が届くこともない。遠い地で、エリサがまたひとつ年を重ねたことにだってもはや気づいていないのではないか――そんな考えがふと胸をよぎる。


(殿下。わたし、成人しましたよ)


出会って10年だ。すでに婚姻も結べる年になったのに、エリサはいまだアレクシスのことがよくわからない。ーーいいや、わからなくなっている、が正しいかもしれない。

幼いころのほうが、彼の想いが伝わっていた気がするのだ。


アレクシスが成人したのは4年前。そのころから会う機会がどんどん減り、直接言葉を交わしたのがいつだったかも、悲しくなるので思い出したくないくらいだ。


王都から伝わる噂によれば、アレクシスは若き将軍として数々の戦いで勝利を収めているという。彼の兄であるクリストファー王太子殿下が政務で国を支える一方で、アレクシスは国の守護者としてその立場を確立していた。


(殿下はひとつ、想いを叶えられたのよ)


領地から出たことのなかった幼いエリサは、宮廷に渦巻く陰謀だのなんだのというものを知らなかった。ただ物語の中のキラキラとした世界しか想像できていなかったのだ。

けれどアレクシスと婚約してから王都を訪れる機会も増え、王宮に滞在することも何度かあった。そうしていれば、いやでも悪意に気づくものだ。幼さゆえにそういうものを素直に、敏感にかぎ取ることもある。


アレクシスの立場は、当時6歳のエリサにさえも不安定で危ういものに見えていた。

側妃だったアレクシスの母親は、彼が5歳のときに病で亡くなっている。厳格な父王と優秀な兄王子に挟まれたアレクシスの立場は、あまりに微妙だった。

野心家たちは自らを「第二王子派」だなんて嘯きながらアレクシスの周囲に集まり、一方で「第一王子派」を気取る者たちはアレクシスを「不要な王子」と軽んじた。そのことが彼を余計に孤立させていたに違いない。

エリサが出会ったときに感じた彼の「孤独」と「必死さ」は、そんな世界にアレクシスが懸命に抗おうとしていた結果だったのだと思う。

だから、いま彼が築き上げた立場は、まさにアレクシス自身が叶えた希望のひとつ。


「そうよ……だからいいの。殿下が、ご無事でさえあれば」


半年ほど前から隣国との小競り合いが激しさを増しており、それを収めるべく父であるレオポルドと共にアレクシスが前線へ向かった。


(お目にかかることはできなかったけれど)


それでも、辺境の地へ助力のために来てくださったのだ。であれば、エリサがすべきことは決まっている。


感傷的な気持ちを振り切るように窓に背を向け、執務机へと戻る。

身体はどこか鈍い疲労感を覚えているが、それでも手を止めるわけにはいかない。この書類一枚一枚が、戦場の一部なのだから。


「乾燥肉が不足している。次回の補給品に組み込む必要があるか…」


紙に目を走らせながら、エリサは赤いインクでメモを加えた。武器の在庫リストにも目を移す。

今のところ大きな争いにはなっていない。このままであれば十分足りるだろうが……。


――コンコン。


不意に響いたノックの音に、エリサはハッとして顔を上げた。


「お嬢様、カルラです」


聞きなれた声が部屋に届き、エリサはふっと肩の力を抜いた。


「入っていいわ」


許可を出すと、すぐに扉が開く。

栗色の髪をしっかりとまとめ、いつもきりっとした表情を浮かべている侍女のカルラ。幼いころから仕えてくれている彼女の瞳には、心配そうな色がにじんでいる。


「そろそろ休憩になさいませんか。このままですと日が暮れてしまいます」

「え」


慌てて時計を見れば、ティータイムも過ぎようとしている。

明かりの少ない曇天の日は、どうしても時の流れが曖昧になる。


「メイドたちが泣きついてきましたよ。声をかけても返事がないと」

「いやだわ。ごめんなさい。全然気づかなかった」


やってしまったと額を押さえれば、カルラは呆れたように肩をすくめた。


「根を詰めすぎです。これでは体を壊してしまいますよ」

「返す言葉もないわ」

「お気持ちはわかりますが、まずはご自身を大切にしてくださいませ」


その言葉に、思わず目を瞬かせる。


「どうかなさいましたか?」

「/そうね……その通りだわ」

「お食事をお持ちしても?」

「ありがとう。お願いするわ。甘いものもつけてね」

「ではスイーツに合う紅茶もご用意いたします」

「さすがね!」


カルラは一礼をすると、素早く辞した。

エリサはカルラの言葉をゆっくりと反芻し、それから机の引き出しをあけると金の装飾を持った重厚な造りの箱を取り出す。

箱の中には、王家の印が押された封筒がいくつも重なっている。その中からそっとひとつ手に取った。

婚約が決まって初めて送られた手紙だ。


『ご自分を大事にしないとだめですよ、殿下』


そう、エリサが伝えた直後のもの。


――きみの言葉を肝に銘じている。


剣の訓練に明け暮れる彼にとって、筆を執るのはおそらく苦痛だっただろう。それでも、その頃は確かに自分の想いを自分の言葉として、文字にしたためエリサに届けてくれていた。不器用な文字をなぞれば、手紙を受け取ったばかりのころの温かさが蘇るような気がした。

これは大切な宝物だ。同時に、エリサを過去の幻想に縛り付けているものでもある。


「アレクシス殿下……」


エリサはつぶやき、視線を再び窓の外に向けた。

幼い日の母の優しい声が蘇る。

彼女が思い描いた【守り、守られる】という理想の未来。

かなしいかな、近づくどころか遠のいていくように思えるその未来。

王子様を守るために自分が強くなる。幼い頃に母が教えてくれた幸せの形。

けれども、その守りたい相手が自分を見ようともしない今、エリサは果たして自分が何を守っているのか、時折わからなくなることがあった。

それでも止まれない。エリサが守るべきものの後ろには、さらに多くの守るべきものが在る。

幼いころは名を呼ぶだけで幸せだった。今はもう、公に彼の名を口にすることもほとんどなくなってしまったけれど。

それでも、幼い彼の必死な姿を、そのボロボロな姿をいとおしいと思った瞬間を、守らなければと決意したあの日を、エリサは何度も心に描いている。

それは、冬の雪のように冷たくもあり、どこか儚く美しい記憶だった。いまや、その記憶だけが彼との絆を繋ぎ止めるか細い糸となっている――エリサはそう感じずにはいられなかった。

かつては、彼が孤独な剣士のように思えた。その孤独に手を差し伸べたい、自分が支えたいと思った。だが今の彼は、遠すぎる存在に感じられる。勝利を重ねる若き将軍として、王国中の称賛を浴びる婚約者――その姿を想像するたびに、エリサは自分がその景色のどこにもいない事実を痛感する。

守りたいと思ったはずの相手が、いつしか遠くに行ってしまう。自分が守り続けているのは、あの日の彼の幻影なのかもしれない――そんな思いが胸の中に小さな亀裂を作り始めているのを、エリサはどうしても無視できなかった。


「お嬢様、お食事をお持ちいたしました」

「ありがとう、カルラ」

「だめですよ、書類は一度ちゃんと置いてください」

「ふふふ。そうね」


はっきりとモノを言うカルラに感謝しながら、エリサはぐっと伸びをして立ち上がる。ぐう、と小さくおなかが鳴った。


(腹が減っては戦はできぬってね)


空腹だからネガティブになるのだ。

ふわりと漂うおいしそうな香りが鼻をくすぐる。彼女は小さく深呼吸をして気持ちを切り替えると、ぱんっと両手で軽く頬をたたき、食事のためにソファへと向かった。


次回投稿:1/11予定

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