1.出逢い
辺境の地に生まれ育ったエリサにとって、噂に聞く王都はまるで母の読んでくれるおとぎ話のような場所だった。
石畳の美しい街並み、上品なカフェに流行を真っ先に取り入れたファッション。
令嬢たちは華やかなドレスに身を包み、色とりどりの花々が咲く中庭で優雅にお茶会をして、夜には貴族の男女がきらきらのシャンデリアの下で舞うようにワルツを踊る。
一方でこの辺境、厳しい風が砂利道を吹き抜け、空には鉛色の雲が広がる。国を守るべく存在するこの土地では、美しいものも華やかなものも、ほとんど目にすることはなかったからだ。
それでも幼いエリサの心には、小さな夢が息づいていた。
「いつか、私にも王子様が現れるのかな」
絵本の中で微笑む王子様の姿に胸を膨らませながら、エリサは母アンナの膝の上でそう呟いた。アンナは優しいまなざしでエリサのまっすぐなブロンドを撫でながら頷いた。
「そうね。きっとエリサにも素敵な王子様が現れるわ」
「ふふ!」
「でもね、エリサ。もしもそんな人が現れたら、エリサはただ守られるだけのお姫様でいてはいけないの」
「?」
「守り、守られる。それが、幸せの秘訣よ」
そう教えてくれた母の瞳は誇らしげにきらめき、エリサに絵本のお姫様よりもずっと輝いて見えたのだった。
エリサは、母の言葉をずっと胸に抱いて日々を過ごした。
守るのならば、自分も強くなくてはいけない。この辺境の地では、煌びやかなドレスの鎧なんて重要ではない。もちろん憧れはあった。でもそれ以上に、エリサは母のようになりたかった。王子様に守られてやわらかく輝く姫君よりも、強いまなざしで誇らしく光を放つ母のようになりたかったのだ。
エリサは宝石よりも剣をとった。もちろん知識もマナーも身を守るために大切にしたが、教科書を読むのと同じくらい戦術の本もめくった。
マナーの授業が終わればすぐに三つ上の兄と泥だらけになって過ごした。
それは、エリサが6歳になって少し経ったころのこと。家族で王城に出向くことになったのだ。父であるレオポルドが言うには、この国の第二王子であるアレクシス殿下とエリサの婚約が調ったため、顔合わせを行うらしい。
「王子様…どんな方なのかしら!」
エリサの頭の中にあるのは絵本の中の王子様ばかりだった。美しい衣装に身を包み、優雅に微笑みながら手を差し伸べる姿。
これまで辺境から出たことはない、授業以外で着飾ることもほぼなく、手があけば剣を振り回していた。だから王都にあるタウンハウスに着くなり侍女たちが次々と髪を結い、ドレスを整えていく間、エリサの心は忙しなく動いていた。王子様に会う――その響きに胸は高鳴るが、鏡に映る自分の姿を見て、不安もまたよぎる。
(わたしは、王子様の隣に並んでも大丈夫なのかしら)
しかし、その思案もすぐにどこかへ飛んでいくことになった。
初めて見る王城は、絵本で見たものよりもずっと大きく華やかで、エリサは思わずごくりと喉を鳴らした。レオポルドは王城に来るたび王都の騎士団を指南しているらしく、兄ジュリアンを連れて先にそちらに顔を出すという。エリサはとても興味を惹かれた。辺境の騎士団もとても立派だが、この華やかな王都を守る騎士団はどんなものなのだろう、と。
「おとうさま、わたしも行きたい!」
思わずそう声を上げたエリサを見て、アンナは苦笑しレオポルドは参ったなあと頭を掻いた。
令嬢としてのマナーはしっかり守るように。くれぐれも走ったり、騎士団に混ざろうとしたりしないこと、と重々言い含められ、兄と手をつないで回廊を歩いた。母は、王妃殿下にご挨拶をしてくると言って、小さく手を振り軽やかな足取りでエリサたちとは逆方向へと歩いて行った。
――カキン!
金属のぶつかり合う鋭い音が空気を裂き、騎士たちの雄たけびが響き渡る。足元の地面が震えるほどの激しいぶつかり合い。
エリサの胸は一瞬にして熱くなる。思わず兄と繋いだ手に力が入ったけれど、兄の瞳が「落ち着け」と言い聞かせているように見え、慌てて令嬢らしく力を抜いた。
拓けた訓練場では、何人もの騎士たちが剣をぶつけ合っている。鋭い声や素早く土を踏みしめる音に気持ちは高ぶるが、それでも辺境育ちのエリサに王都の騎士団はずいぶんお行儀よく見えた。
(平和なのね。それは、とてもすてきなことよ…だけど)
そんな中、ひとり。荒々しい動きと、まっすぐな瞳。エリサは思わず視線を奪われた。そこには大人たちの中で必死に剣を振る少年の姿があった。
彼は、鋭い目つきで訓練相手の騎士へ斬りかかっていた。軽くいなされては膝をつきそうになり、けれど懸命に踏みとどまって、休むことなく再び目の前の相手へ剣を向ける。汗が額から頬を伝っても彼は一切手を止めることなく、ただひたすら剣を振り続けていた。きっと美しいはずの銀色の髪は砂ぼこりで汚れてくすみ、騎士服はどろどろでほつれさえ見られたが、その真剣な姿がエリサには誰よりも美しく見えたのだ。
「あれは……」
思わずこぼれた声に、父がゆっくりと振り返り。そうしていった。
「あの方が、おまえの婚約者になるアレクシス殿下だよ」
「アレクシス、殿下……」
幼いながらも、目の前の少年が「絵本の王子様」とはまったく違うことを本能的に悟った。彼の剣を握る手は強いが、その目の奥にはどこか孤独と苛立ちが見え隠れしている。周囲の騎士たちが休憩中にこぼす笑い声にも彼は全く反応を示さずに、ひとり素振りを始めてしまう。まるで、何かに追い立てられているようだった。
(こんなに必死な王子様なんて、絵本にはいなかった)
空いているほうの手をぐっと握りしめ、思わず胸にあてた。
(きっと、この人は本当に強くなりたいんだ。何かを、守るために)
幼い心に芽生えた感情に揺さぶられ、母の優しい声がよみがえる。
『守り、守られる。それが、幸せの秘訣よ』
この人を守りたい。私も強くならなければ――!
エリサは、そのとき思ったのだ。
この人は、自分が守るべき人だ、と。
エリサの熱が伝わったのだろうか。
剣を振る手を止めた彼が、ふと顔を上げた。藍色の瞳が、エリサの視線を正面から捉える。その瞬間、世界の音がすべて遠のいたような気がした。胸が高鳴り、息をすることさえ忘れそうになる。
気づけば足が動いていた。エリサは、兄と繋いでいた手をそっと放すと、視線をアレクシスに固定したまま一歩、また一歩と進んでいく。
父や兄に呼び止められたかもしれない。周囲の騎士たちがざわついたような気もした。けれど、エリサは気にならなかった。
二人の視線は、交わったままだった。
正面まで来て、立ち止まる。
四つ違いの彼は10歳のはずで、背が伸びるのが早かったエリサとそこまで身長が変わらない。それが、芽生えたばかりの想いを強くさせる。
ドレスのポケットから取り出したハンカチで、すっかり汚れた彼の中性的なかんばせをそっと拭った。周囲の騎士たちが息を飲む気配が伝わる。誰も言葉を発しない中で、エリサとアレクシスだけがその場に取り残されたようだった。
ここにきて急に緊張が押し寄せたエリサは、思わず視線を伏せる。それでも、これだけは伝えなければならない。
「なにかを守るためには、ご自分も大事にしないとだめですよ。殿下」
その声はかすかに震えていた。余計なことを言ったかもしれない。淑女らしくと言われていたのに、淑女らしくなかったかも。今更そんなことに気づいて、恐る恐る視線を上げる。
そして、はっとした。
冷たい鋭さを宿していたはずの瞳が、丸く見開かれている。再び目が合うと、アレクシスは先ほどまでの気迫が嘘のように眦を和らげた。ハンカチを握ったエリサの手をそっと触れる。
「僕にそんなこと言ったのは、きみが初めてだ」
その子供らしくもあり、大人びた優しさも湛えた微笑みにエリサの胸が感じたことのないほど高鳴る。
運命の歯車が、回り始めた瞬間だった――。
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