⑼代理人の宣戦
雷鳴が、腹の底を打つように響いた。
稲光と共に、嵐に煽られた椰子の木が真っ二つに裂ける。この古びたヴィラも、もし直撃すれば、ただでは済まないだろう。
湊と侑は、ディスプレイに釘付けになっていた。
コードの海に浮かぶ、黒い三角帽。魔女のようなアイコンが、くるくると意味深に回っていた。
「……こいつ、もしかして」
湊が低く呟いた。侮蔑と嫌悪が滲む、苦々しい声音だった。
彼の濃褐色の瞳にブルーライトが反射する。窓の向こうの稲光すら、彼の関心を奪わない。その視線は、小さなディスプレイの、顔の見えない何者かに引き寄せられていた。
「何者なんだ?」
ルイの問いに、湊は目を細めた。
「電脳の海に住む、伝説級の犯罪者さ」
吐き捨てるように、湊が言った。
その存在が確認されたのは、十年前のアメリカ大統領選挙だった。
画像の加工、虚偽の記事リーク、捏造したコンプロマートによる恐喝。あるハッカーが組織的なサイバー攻撃を指揮し、情報を巧みに操り、選挙結果を支配しようとした。
仲間が逮捕され、新たなセキュリティ技術が開発されても、その攻撃は止まらなかった。兵器や航空機の機密情報を盗み出し、有名サイトをDos攻撃で沈黙させ、社会に与えた不安と経済的被害は計り知れなかった。
「アメリカ政府も十年間、こいつを追い続けてるけど、証拠はいつも霧の中だ。国防総省のAIさえ、こいつには騙された。こいつは歩きながらログを書き換え、FBIやCIAが証拠を掴む前に、事件そのものを無かったことにする」
奴が現れる場所には、秩序は崩れ、混乱が支配する。テロが起きれば、その背後の影を狙い撃ち、権力が膨れ上がれば、その足元に分断の種を蒔く。氷のように冷徹で、蛇のように巧妙。何が目的で、誰が操っているのか、それすらも分からない。
ただ一つ、疑いようのない事実がある。
奴は電脳の深層に潜み、意図せずして世界を動かす。その存在は、今も確かにネットワークの中に息衝いている。湊はキーボードから手を放し、膝の上で手を組んだ。凄まじい情報の奔流は、まるで人知の及ばない自然災害のようだった。
「CIAはこいつを、こう呼んだ。——戦争代理人」
戦争代理人。
ルイはその言葉を口の中で繰り返した。それは鉛のように重く、冷たかった。
ディスプレイの向こうで、エナスタ共和国の公式SNSが荒らされ、狂気的な演説と賛同者のコメントが雪崩のように流れていく。偽情報を信じた人々は集団を形成し、新たな真実を作り出す。
赤く染まったSNSの投稿、無限に拡散されるデマ、自分のアカウントを使った破壊工作。そのどれもが許し難いはずなのに、何故だろう、もっと見ていたいと感じる。 不思議な感覚だった。
生成AIを使った主義主張の衝突、脳の刺激報酬系を刺激する誹謗中傷と神秘体験に似た他者承認。荒唐無稽な陰謀論と秘匿されるべき真実を交錯させ、人々は自由意志と信じ切ったまま、誘導されるままに偽情報を拡散させる。その無駄のない手口は、もはや芸術的だった。
思惟に沈むルイの横で、侑が念を押すように問い掛けた。
「つまりこいつは、国際社会に戦争を仕掛けているってことか?」
その問いは疑念ではなく、確信を持っていた。
これは、洗練された情報戦。いや、こいつの戦いは武器も真実も必要としていない。
大衆の認知そのものを武器として、プロパガンダとして理想の敵を作り出す。湊は侑のエメラルドの瞳を見詰め、静かに頷いた。
「認知戦だよ。真実も武力も必要ない。——これは、意識そのものを奪う戦争だ」
湊が冷たく言った。
その突拍子もない話に、ルイは絶句した。奈落の底に突き落とされたかのような途方もない恐怖が襲い掛かる。楽園と呼ばれた南国の孤島は、次世代の戦争の最前線にある。アカウントを奪われたルイは当事者として、湊は蚊帳の外に追いやられ、情報の正当性を主張することは敵わない。
その時、SNSの間抜けな通知音が鳴った。ダイレクトメッセージ。湊の指がゆっくりと動き、開封を躊躇う。その僅かな逡巡さえ、何者かの手の平の上だと分かる。しかし、自分たちにはそれを無視する選択肢さえ、用意されていない。
@louis_the_maverick
Alrigt, let`s start the war.
(さあ、戦争を始めよう)
それは柔らかで、静かな、宣戦布告だった。
1.悪党ほどよく喋る
⑼代理人の宣戦
現地時間、午後九時。エナスタ共和国の公式SNSに、突如として一本の動画がアップされた。その内容は、正体不明の何者かが政府の情報網を掌握し、ネットワークプロトコルを改竄しようとする証拠を映し出していた。ディスプレイに映るその証拠は、鋭い刃物のように、まさに警告のように人々を突き刺すものだった。
正論と暴論、事実と陰謀論が入り混じり、まるで混沌そのものが形を成したかのような内容。瞬く間に、関心を引き、拡散の波が広がり始めた。
平和に飼い慣らされ、無自覚に日々を過ごしていた市民たちは、政府から支給されたデバイスを手に、その動画を無邪気にシェアしていった。無邪気な手がシェアするたび、その拡散力は恐ろしいまでに広がっていった。
そして、その何者かは、驚くべきことに、ルイのアカウントを使って、演説の動画を送信してきた。
画面に現れたのは、三十代前半の男性。華美ではなく、むしろ洗練されたモダンな服装が、その人物に落ち着いた印象を与えていた。温かみのある肌色と清潔感あふれる髪型、何処にでも溶け込みそうでありながら、何処か異質な輝きを放つ姿。まるで静止画のように動かず、その瞳だけが光を反射しているかのようだった。
その男の背後には、かつてホロコーストで苦しんだ人々への微かな擁護の念を感じさせる宗教的シンボルが浮かび、視線を引き寄せていた。彼の姿は、ただの男ではなく、強烈な印象を残す神秘的な存在に映った。
ルイは、その男を見覚えがなかった。それは湊や侑も同じだった。誰もがその男の正体に疑問を抱きつつ、調査を始める間もなく、動画は火のように広がり、瞬く間に国中のディスプレイを支配した。
まるで未知の伝染病が空気中に忍び寄るように、情報は人々の心に深く入り込み、やがてそれが真実として再構築されていった。人々の間に広がった不安と熱狂は、誰にも止められないように見えた。
男は低く、冷徹な響きの声で語りかけてきた。
『エナスタ共和国の市民たちよ、私は貴方たちに、一つの事実を伝えなければならない。冷静に、しかし、真剣に耳を傾けてほしい』
その声には、深い重みがあり、まるで時が止まったかのようにルイはその言葉を受け止めた。
男の冷静さには強い自己主張はなく、どこか神秘的な雰囲気が漂っていた。崩れた壁を背に、鈍色の空を背景に立つその姿は、戦火に差し込む一筋の光のように輝いて見えた。
『長年、我々は外部の圧力に晒されてきた。国際社会の声に耳を傾け続け、その結果、今の私たちの現状がある』
男は少し間を置き、再び視線を画面越しに注いだ。
『国際社会が言うこと、民主主義が謳うこと、それらが全て我々にとって必要だと言われてきた。しかし、その言葉の裏に何が隠されているのか、貴方たちは見抜いているだろうか?』
男の目が鋭くなり、その瞳は画面を突き抜けるように、ルイを貫いた。その瞬間、ルイはすでに彼の演説に引き込まれていた。
『我々は、この国を支配するために、経済を、政治を、そして未来を、外国の手に預けてきた』
少しの静寂が流れた後、男は一度視線を下ろし、再び言葉を続ける。
『だが、それは我々の意志で選ばれた道ではない』
その言葉は、まるで刃のように深く胸に刺さった。
『だが、我々はその枠組みの中で、知らず知らずのうちに生きてきた。……それが、この国の現実だ。だが、それは果たして、正義なのか?』
男は言葉を止め、視線を鋭くした。ルイの心は不安と期待で揺れ動いた。
窓の外で稲光が走り、銃声が遠くで響く。ルイには、どちらが現実で、どちらが虚構なのか分からなくなっていた。
『もういいだろう。……誰が我々の声を聞いてくれるのか?』
男は一言一言を、力強く続けた。
『誰が我々の望みを叶えてくれるのか?』
その声が次第に高まり、心に火を灯すような衝動が伝わってきた。男は怒りを堪えるように俯き、声を振るわせながら訴え掛ける。
『我々は、何度も何度も黙ってきた。権力者たちは、我々が何も考えていないかのように振る舞ってきた。そして、結果として、我々は何を得た?』
男は視線を此方に戻し、強い決意を込めて続けた。
『ただの支配、抑圧、そして屈辱だ。だが、もはやその状況に耐えることはできない』
ディスプレイの中で男が前景に浮かび上がり、その背後の灰色の空が彼を包み込む。
男が語るたびに、周囲に炎や煙が立ち上がり、暗い空から無数の弾丸のような光が飛び交う。ルイの視界に広がる光景は、まるで戦場の一部に自分がいるかのような錯覚を与えた。
『エナスタ共和国の人々よ、今こそ目を覚ませ!』
男の叫びは、今、この瞬間、全てを覆す力を持っているかのように響いた。
『我々の運命を決めるのは他でもない、我々自身だ!』
その言葉が運命を引き寄せるように響き渡る。
『国際社会が与えた道を歩み続ける訳にはいかない。選ぶべき道は、彼らが押し付けたものではない!』
その声は正義を奮起させる力強い鼓舞であり、見る者を圧倒した。画面の向こう、傷だらけの兵士、子を抱いた母親、足を引き摺る老婆。年齢も人種も宗教も超えて、彼らは一つになり、男の熱に呼応して問い掛けてくる。——正義とは、何か?
『私たちは、ただの駒ではない! 外部の力に左右されることなく、自分たちの未来を築く権利がある。それを拒否し、我々を支配し続けることが許されるのか?』
激しい雨音が、世界を赤く染め上げていく。腹の底に沈めてきた憎悪に火が点けられたようだった。
その時、ルイは思い知った。自分を戦場に放り込んだ社会、顔に油を引っ掛けてきた大人たち。搾取し続ける利己主義の豚ども、弱者に群がる資本主義の狼ども。贅沢を貪る飼い慣らされた羊ども。
ルイは、奴等を許してなどいなかった。
その言葉がルイの心を突き刺した。怒りの矛先を見失い、ただ流されていた。だが今、ルイは思い出した。自分が何に怒っていたのか、自分が何を奪われたのか。それが全て、今此処で蘇ってきた。
『そして、貴方たちが忘れてはいけないのは、この状況を作り出した者たちは、決して正義を求めていないということだ!』
男の言葉が進むにつれて、ディスプレイ上で戦争の影が色濃く浮かび上がる。
銃撃音が響き、爆発が遠くで起こると、画面の中で男の瞳が一瞬、赤く光る。その瞬間、ルイの視界も揺れ、画面が歪み、冷や汗が流れ始める。
言葉の力が、まるで目に見えない力となって、ルイの精神を支配していった。
『彼らが欲しているのは、我々を踏み躙り、奴隷のように扱うことだ。彼らの偽善、彼らの不正義に、今すぐ立ち向かわなければならない!』
傷だらけの民衆が、正義と自由を求めて声を上げる。その声が震え、熱く、心に響く。ディスプレイの男が目を閉じ、深い息を吐いた。
彼の声は冷徹で、まるで遠くから響いてくるようだった。しかし、その瞳は、カメラ越しにまるでルイを直接見詰めているかのように感じられた。
『今、此処で言おう。我々の力は、この国に根ざしている! 我々の力は、誰にも奪わせない! エナスタ共和国の未来を、今、此処で取り戻すのだ!』
その言葉の裏に、確かな狂気が渦巻いていた。男の目は、ただ冷徹ではなく、どこか歪んで見えた。その目に見つめられるたび、ルイの胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
画面越しに響く男の冷徹な宣告が、刃のようにルイの胸を貫き、静かな震えと共に、空気を引き裂いた。その言葉は無慈悲に、新たな戦争の幕開けを告げた。
『戦争を始めよう』
爆発的に炎が立ち上がり、その視覚的インパクトがルイの心を打ち抜いた。まるでその炎が、彼の内面の何かを引き起こしたかのように感じられた。
画面越しの男の目が、まるでルイを見据えているように感じる。男の視線は鋭く、ルイを引き寄せるように心臓を締め付け、鼓動が速くなる。
『——今、この瞬間から』
その瞬間、ルイははっきりと感じた。彼の中にあった静かな怒りが、今、爆発しようとしていることを。それは、ただの言葉の力ではなく、視覚と心情が融合し、まるで火花が散るような瞬間だった。
男の言葉が暗闇を切り裂く刃のように鋭く響いた。それは、静かな夜に雷鳴のように轟き、ルイの心に直接響き渡った。