⑺亡霊の存在証明
夜の深い静けさの中に、波の音が寄せては返す。
東の空から鉛色の雲が沸き出して、生き物のように形を変えては散っていく。雲間から銀色の月が顔を出すと、仄かな光がスポットライトのように差し込んだ。
ルイにまだ故郷があった頃、煙草をくれる兄気分がいた。黒豹のように屈強な肉体に、芸術的な刺青。頭を覆うカーリーヘアーに、二重瞼に収まる黒々とした瞳。アフリカからやって来た兄貴分は、美味そうに煙草を喰みながら海を見ていた。
いいか、坊主。
支配者ってのは気紛れで、残酷で、退屈している。
だから、思い付きで誰かの生活を壊して、それが正しかったみたいに吹聴する。そして、強者にとって都合のいい事実だけが歴史となるんだ。
兄貴分の指に挟まった煙草から、紫煙が夜空に伸びていく。彼の笑い方は、世界に絶望した者だけが持つ乾いた音だった。ルイは分けてもらった煙草を弄びながら、言葉を捻り出すようにして問い掛けた。
じゃあ、俺たちは排除されるべき弱者だったのか?
兄貴分は答えなかった。否、答えたのかもしれないが、少なくともルイの記憶には刻まれなかった。彼はルイの中では支配者でもなければ、君臨者でもなく、ましてや強者ですらなかった。彼は過去の記号だった。
ルイの生家が行政によって破壊されたのは、五歳の頃だった。都市開発のために、貧しい住民たちに立ち退きを強制し、武装した警察が手入れを執行した。ルイの父親は警察に歯向かって撃たれて亡くなった。父の遺体に縋って泣きじゃくる母を抱き寄せ、ルイは目の前の現実を噛み砕くことに注力した。
裁く機関がなければ、罪は存在しない。だから、父を撃った警察は裁かれないし、罪を背負うこともない。ならば、父は必要のない存在だったのだろうか。
なんて、安い感傷だ。
二十二歳のルイは、救われないままの過去の自分を他人のように眺めながら、煙草を探した。ポケットに押し込まれたソフトケースはくしゃくしゃになり、あと二本しかなかった。
潮風から火を守りながら、先端を炙る。
フィルターが焦げ、柔らかな煙が影の中に溶けていく。重油のような夜の海に、桟橋が頼りなく伸びていく。ターコイズブルーのアロハシャツを着た湊が、ノートパソコンを抱えて桟橋を進む。その真っ直ぐな歩き方が、ルイには不気味だった。
「なあ、お前」
煙草を咥えながら声を掛けると、湊が振り向いた。濃褐色の瞳が、闇に潜む肉食獣のように爛々と光る。淡い月光の下で、彼はゆっくりと立ち止まった。
ルイは試すような心持ちで、彼に言った。
「真実なんてものは、その時代の支配者が作り変える。歴史は、ただのデータの堆積物で、簡単に書き換えられるんだ。時代の潮流に、善悪や正誤を問うことは無意味なんだよ」
諦念を噛み締めながら、ルイは嫌味っぽく肩を竦めた。彼は猫騙しでも喰らったみたいに瞬きをしてから、はっきりと否定した。
「俺はそう思わない」
その毅然とした態度ときっぱりとした口調に、ルイは戸惑った。湊は眉ひとつ動かさず、真っ直ぐにルイを見ていた。
「本当に良いものは滅ばないし、滅ぶべきじゃない。時代や価値観が代謝のように上書きされるとしても、肌に刻まれた歴史や情熱の痕跡は受け継がれるべきだ。俺は、そう思う」
「……」
「もしも歴史の重みが分からないのなら、その人にとっては未来も過去と同様に無価値だろうね」
夜風が吹き付けて、彼のアロハシャツが膨らんでは萎む。
夜の海は静かで、どこか空恐ろしい。潮騒が遠くで囁くように響き、波のうねりが闇の中へと消えていく。風に乗って、湿った潮の臭いが鼻を掠める。雲が月を隠すと、桟橋に濃厚な闇が迫る。ヴィラから溢れた灯りが蕩けるように闇を照らす。
ルイは目を伏せた。心の柔らかいところを、無遠慮に触られているみたいだった。
その否定の言葉をもっと早く聞ければ、違う未来が選べたんじゃないか。そんな嫉妬と羨望が隙間風のように吹き抜ける。
瘡蓋を剥がして、そこにまだ傷があることに安心するような安い陶酔。彼の言葉は包帯のように傷を覆う。それが救いなのか、裁きなのか。ルイには最早、分からなかった。
時代という大きな波に揉まれ、泡沫のように消えていく。浮上を試みたけれど、頼りにする先がない。必死に足掻いて辿り着いた偽物の楽園で、異国の子供に諭される。これが喜劇でないのなら、酷い脚本だ。
「君の歩いてきた道には、価値があるはずだ」
不意に湊が表情を崩し、柔らかに言った。
パソコンを開いたまま、湊がとことこと歩み寄る。
足元を見ずに歩くので、桟橋から落ちてしまいそうだった。潮風に晒された木造の桟橋は、古びた板が軋み、踏み締める度に微かに揺れた。
煙草の煙を慣れたように受けながら、湊がパソコンを提示する。そんな高価なものを容易く見せて歩ける不用心さが、ルイの緊張や警戒を虚しくさせた。
いつもなら一瞬で去っていくはずの熱狂と忘却が、煙のように留まっている。
1.悪党ほどよく喋る
⑺亡霊の存在証明
鼻の頭に水滴が落ちて、音もなく弾けた。
雨の銀糸が夜の海面に突き刺さり、ルイは湊と並んで走り出した。ヴィラの小さな屋根の下に滑り込んだ時には、大粒の雨が乾いた空気を潤すように降り注いでいた。
エナスタ共和国は赤道に近く、年間を通して雨の少ない地域である。だが、ここ最近、雨が多く降るのは深刻な環境汚染の影響なのかもしれない。
ガラガラと音がして振り向くと、侑が雨戸を開けたところだった。オレンジ色の室内灯を背中に受けながら、窓から身を乗り出した侑がタオルを放り投げる。ルイはそれを空中で受け止めた。
「困ったことになったよ」
栗色の髪に水滴を張り付けながら、湊が言った。
誰に話しかけているのか分からなかった。
侑が興味無さそうに「へぇ」と相槌を打ったので、ルイは自分が無関係だと思った。けれど、湊が此方を見て「ねぇ、聞いているの?」と言ったので、ルイは素知らぬふりをして頷いた。
「俺のアカウント、バグったかも」
湊はそう言って、濡れた手の甲でノートパソコンの画面を拭った。ディスプレイに映るのは、無機質なエラーメッセージの羅列。情報量の多さに脳が一瞬でパンクしそうになるが、侑がすぐに「これなに?」と尋ねた。
湊は侑を見遣り、丁寧に説明した。
エナスタ共和国のAIシステムには、元々強力なフィルタリング機能が備わっていた。外部からの情報操作や、内部の言論統制のために使われる機構で、特定の単語や個人情報をブロックしたり、システムが不都合と判断した情報を改変もしくは、削除したりする働きがあるらしい。
ルイは適当に聞き流していたが、侑が嫌そうに顔を歪めた。
「それって、公権力の暴走じゃないの?」
侑が指摘したので、ルイは、はっとした。そして、その意見に同意して頷いた。湊はパソコンを見下ろして、抑揚のない声で肯定する。
「そうかもね。よくあることさ」
何か恐ろしいことを聞いている気がしたけれど、湊はもう次の話を始めていた。あんまり追及しても話が進まないと思ったので、ルイも受け流した。
「ちょっと遊んでたら、面倒なことになっちゃった」
湊は悪戯っぽく笑った。
「エナスタ共和国のAIシステムに仕掛けたフィルタリング操作が、想定外の動きをしたみたい」
「どういうことだ?」
「うん、つまりね。俺の存在に関する情報をAIが弾くようにしたんだよ。仕方ないよね、自衛のためだもの」
その言い草に、侑が呆れたように笑った。
要するに、湊はエナスタ共和国のAIシステムから自身の情報を消すことに成功したらしい。彼のデータは干渉しようとした瞬間に書き換えられたり、削除される。その制御が崩れ、AIシステムの中で彼の存在自体が無かったことになった。
それって、過剰防衛だったんじゃない?
ルイは指摘しようと思ったけれど、湊は反省の色が微塵も見られないし、侑は「ふーん」みたいな顔で流している。
雨音が頻りに強くなり、ヴィラの屋根に打ちつける音が室内に響く。
「俺がBANされたのって、お前が弄ったせいじゃないの?」
軽口のつもりで言ったつもりが、湊はちょっとだけ言葉に詰まる。その一瞬の沈黙に、ルイは確信した。
「……おい、マジかよ」
「いや、直接の原因は君のデマ投稿でしょ? 俺はちょっとフィルタリングを弄っただけ」
「ちょっとで済むかよ!」
ルイは額に手を当て、深い溜息を吐く。
支配者は気紛れに歴史を書き換える。今の湊はまさにそうなんじゃないか。そして、支配者は気紛れで、残酷で、退屈している。
「お前が悪いんじゃん!」
「そもそも、君が勝手に俺へ干渉するのが悪いだろ」
ルイの叫びに、湊が平然と言い返す。
「フィルタリングに穴が空いていたとしても、君がデマを拡散させまくらなきゃ、国内はこんなことになってないんだよ」
反省の色は全くない。ここまで開き直れるのは、或る種の才能だと思う。ルイと湊が睨み合っていると、侑がわざとらしく咳払いをした。
「それで、面倒なことって何なの?」
侑が呑気に言った。彼にとっては何も起きていないに等しいのかもしれない。余りの温度差に頭を抱えそうになるが、湊は優しく答えた。
「名前も顔もデータベースから消えてる。カメラも識別しないし、行政記録も空白のまま。透明人間だよ」
「透明市民みたいだな」
ルイが言うと、湊が「君とお揃いだね」と返した。
嫌なお揃いだ。嫌味なのか冗談なのか分からない。
「透明になると不便だよね。移動できないし、不審行為と看做されたら、キュレーターに射殺されちゃうかも」
「自業自得だろ」
「俺が逮捕されたり、射殺されたりして困るのはルイだろ。アカウント取り戻せないぞ」
そうだった。なんだか頭がこんがらがってきた。
彼の言葉を聞いていると、自分が悪かったような気がしてくる。でも、裁かれるとしたら彼の方が重罪だろう。
ルイが抗議しようとした時、湊のデバイスから軽い電子音がした。透明市民である彼は、つまり言論を奪われた状態にある。情報発信はできないが、獲得はできるというゲストのような特殊な立ち位置らしかった。
湊がデバイスを見ながら、僅かに目を細めた。その眼差しに反応した侑が、湊の肩越しに覗き込む。数秒の沈黙のあと、湊が冷めた口調で溢した。
「新しいトレンドが生まれたみたいだよ」
湊はディスプレイを向けた。
ルイは久しぶりにブルーライトを感じながら、懐かしいSNSのタイムラインを見た。
@louis_the_maverick
AIの支配から、人々を解き放とう!
真実から目を背けるな!
#エナスタ共和国 #自由を求めて #偽りの楽園
まるで、亡霊を見ているみたいだった。
凍結しているはずのルイのアカウントが、何者かの手によって蘇生させられ、魂もなく彷徨い歩いていた。——自由と正義を謳いながら。