⑸ライトな世界の終わり
「デバイスを置いて、手を上げろ。そのまま膝を突け」
低く、淀みない声だった。銃口を後頭部に押し付けられたまま、ルイは喉が詰まるのを感じた。警官か?
いや、違う。声の調子が落ち着き過ぎている。迷いも怒りもない。躊躇いなく撃てる人間の声色だ。
ルイは、彼がエナスタ共和国の体制側の人間かもしれないという可能性に思い至った。旅人らしく写真を撮る姿を見掛けたことがあったから、誰かの後頭部に銃口を押し付けるだなんて想像もしていなかった。
ルイがデバイスを置くと、彼は「いい子だ」と笑った。侮られているのなら好都合だった。このまま従順な振りをして立ち去れば、命までは奪われないだろう。そんな打算を、彼は一刀両断にする。
「俺は信心深いから、ちゃんと土には還してやるよ」
やけに軽い口調だった。まるで、落とした小銭を拾うみたいに。
ルイは両手を上げたまま、振り向いた。男が引き金に掛けた指を引く前に、黙って膝を突く。以前、街で林檎を追い掛けていた金髪碧眼の優男だった。あの時は気の良い兄ちゃんに見えたのに、銃を構える姿は裏社会の住人そのものだった。とても、体制側の人間には見えない。
彼は演技かかった動作で肩を竦めると、鼻で笑った。
「お前がルイだろ? 湊から聞いてるぜ」
「……湊?」
そうだ。俺のアカウント。はっとしてデバイスを見る。画面は真っ白だ。エラーメッセージが出ている訳でもない。ただ、沈黙している。それが何より不吉だった。ルイが手を伸ばしそうになると、男の低い声がそれを遮った。
今すぐに復旧作業をしなければならない。インターネットから離れている時間が長いほど視聴者は減っていき、自分の影響力は下がる。アカウントは社会に通じる唯一の窓口であり、抗うための武器であり、資産だった。凍結された理由も調べなければならない。
臍を噛む思いでデバイスを睨んでいると、男が言った。
「馬鹿なお前のために、俺のボスが状況を説明してくれるぜ。耳を澄ましてよく聞きな」
言葉を投げ捨てるようにして、男が言った。
その時、玄関扉が軋みながら開いた。
西日が傾き、シルエットが浮かび上がる。銃を持つテナーの声の男が無言で場所を譲り、ルイは固唾を飲んだ。これが、ボス――。
途端、場違いなターコイズブルーのアロハシャツが目に飛び込んで来た。
「やあ、もう会いたくなかったよ」
満面の笑みで、湊がそんなことを言った。
ルイは彼の服をまじまじと見ていた。金色の光の中、ターコイズブルーのアロハシャツがやたらと主張している。リゾート地の観光客みたいだ。どう見ても着こなせていない。
こいつ、ファッションセンスが終わってる。
「正気とは思えないファッションセンスだな」
「喧嘩売ってる?」
ルイの言葉に、湊が間髪入れずに言い返す。ミステリアスな雰囲気は崩れ去り、気苦労の堪えない管理職みたいな印象だった。
張り詰めていた緊張が抜けて、ルイは肩を落とした。
湊が口をへの字に曲げて腕を組む。金髪の男がボスと呼ぶからには余程の大物がやって来ると思っていたのに、安心と落胆で反応に困る。
湊は深く溜息を吐くと、ベッドに座った。体重が軽すぎるのか、古いベッドのスプリングに負けて跳ね返される。本当に格好付かない男だ。先日とは別人なのではないかとルイは勘繰った。湊はベッドにゆっくりと座り直し、覗き込むような目付きでルイを指差した。
「君、エナスタ共和国のデマを拡散したでしょ」
「何のことだ?」
「無駄な問答はやめようぜ」
ルイの惚けた返答を、金髪の男が叩き返す。玄関の横に背中を預ける彼は、その手に銀色の銃を持っていた。その姿は映画俳優のようなのに、醸し出す空気が堅気の人間ではない。犯罪組織の幹部と言われても納得できそうな貫禄があった。だが、ここで肯定する訳にはいかない。ルイが沈黙すると、湊が見たことのないデバイスを翳した。
「それなに?」
「最新機種」
湊が何の衒いもなく言い放ったので、ルイは驚いた。機能の管理されているデルタ・デバイスとは異なるワールドワイドの最新機種。喉から手が出るほど欲しかったが、壁に凭れ掛かっている男の視線が痛い。湊が片手ですいすいと操作し、見慣れたSNSのトップページが現れる。
@truthseeker_13:
エナスタ共和国のAI、狂ってる?システムが真実を歪めてるって本当か?どこまで広がってるの?
#AI暴走
@user94:
なんでこんなことになったんだろう……。あの話、また広がってるのか。社会全体が影響を受けてるのか?
#デマが止まらない
@realnews_jpn:
速報:エナスタ共和国のAIシステムが誤ったデータを最適化、社会全体に影響が広がっている模様。詳細は後ほど。
#エナスタ共和国
「君の超くだらないデマのせいで、この国は大混乱だよ。分かってる?」
「どういうことだ?」
「君が垂れ流した嘘の情報が、世界の認識を歪めているんだよ。エナスタ共和国のAIの学習システムが、嘘を真実と最適化してしまっているんだ」
湊は分かり易く説明しているつもりらしかったが、ルイにはちっとも理解できなかった。ルイが黙り込むと、静寂に堪え兼ねた湊が面倒臭そうに説明した。
「データのフィードバックループが、もうカオスに飲み込まれてる。AIが正しい未来を探してるのに、前提の現実がどんどん書き換わるんだから、そりゃバグるよね」
「あー……、はい。なるほど?」
「どうせ、最終的には全てが無限のメタデータに吸収されて、自己矛盾を抱えたパラドクスが生まれるんだろうけど」
「つまり?」
「そのうちAIが、わたしは嘘吐きです、とか言い出すってこと。自己矛盾ってそういうことだろ?」
「ああ、うん……確かに?」
自己矛盾って何だっけ?
いつかどこかの雑誌で読んだ嘘吐きのパラドクスが脳裏を掠めるが、悠長に思い出す暇はなかった。返答に自信がなくなり、声がどんどん小さくなるのが自分で分かる。湊が身を乗り出すと、その瞳に間抜けな顔をした自分が映っていた。
「予測アルゴリズムが崩れたら、何が現実なのか分からなくなるよね?」
「……あー、うん。そうだよな……?」
彼の言葉を聞いていると意識が朦朧とする。
ルイは頷きかけたが、慌てて身を起こした。
「いや待って、分かんねぇ!」
「だからさ、これじゃ、誰も何も決められなくなるんだよ。それが社会の進化の終わりってことなのかな。まあ、俺たちみたいな遊び人には面白いかもしれないけど?」
湊が皮肉そうに言ったが、少なくともこの場にいる人間は、誰も彼の言語を理解できていない。
ルイの脳内で、パズルのピースがバラバラと崩れた。いや、そもそも完成していたことなんてない。
分かったのは、一つだけ。
「俺の作った嘘が、世界の真実になってるってことか?」
何かの冗談だろ?
背筋の冷える感覚と、得も言われぬ高揚感が込み上げて来た。湊が嫌そうに眉を顰める。ルイは金髪の男へ視線を送った。彼は遠い目をして、意味深に微笑んだだけだった。
「お前が、始末しても良心の痛まないカスで助かるよ」
金髪の男は、愉快そうに言った。こいつが一番の悪人だと思う。始末って何だよ!
憤慨する湊には悪いが、これ以上のカオスがあるなら、ぜひ見せてほしいくらいだった。
1.悪党ほどよく喋る
⑸ライトな世界の終わり
「煙草、吸ってくる」
金髪の男がそう言った時、ルイは自分が完全に嘗められ、脅威と認識されていないことに驚いた。彼はそのままヴィラを出ていき、室内にはルイと湊だけが残された。
金色の西日が長い光線となって、斜めに降り注ぐ。湊は、にこやかに金髪の男を見送ってから居住まいを正した。余りにも分かりやすいので、どちらがボスだったか自分が聞き間違えたのかと思った。
湊は玄関先を見遣って、声を潜めた。
「あれは、侑。俺の相棒」
「は? あれが相棒? あのヤバそうな奴が?」
「そうだけど?」
湊は平然と言った。
付いていけないし、もはや理解するつもりもない。
「お前は何者なの」
「俺は投資家だよ」
「えっ?」
花屋とか魚屋と言われた方が納得できたと思う。
ルイが聞き返しても、湊は説明する気がないようだった。「君には何も教えない」なんて釣れない態度をとるので、ルイは仕方なく話題を変えた。
「俺のアカウントはどうなるの?」
「自分が何をしたか分かってる?」
「何がどうなったんだよ」
調べようにもデバイスがないと分からない。
ルイが言い募ると、湊が肩を落とした。
「君が流したデマのせいで、社会が混乱してる。エナスタ共和国の資本は幻覚剤とか、超越者がバーチャル空間で血の資本主義を形成してるとか、訳分かんないこと書いたでしょ」
「そうだったかな?」
正直、覚えていなかった。作り出した物語は一貫しているつもりだが、その時の気分とか臨場感で記事を投稿することも少なくなかった。世界中のユーザーがその投稿を解釈したり、曲解したりしながら拡散している。ルイには手に負えないところまで。
ルイは床に座り込んだ。ベッドに腰掛ける湊をちょうど見上げる形だ。どの角度から見ても美少年なのに、苦労感が滲んで台無しになっている。
湊は足を組み替えて「あんまり屁理屈を捏ねると、君のアカウント削除するよ」なんて脅して来た。くっきりとした二重瞼の奥に、温度のない光が見える。
「エナスタ共和国のAIはすでに機能不全だってデマも流しただろ」
「そうかも?」
「そのデマが世界中で拡散され続けているせいで、AIが嘘を真実として最適化してるんだよ。見てよ、これ」
@randomuser45
水道水やばいらしい! みんな川の水飲んでるって!
#エナスタ崩壊
@AI_hacker
特定ワードでAIが秘密モード突入!?
試したらバグったwww
#AI覚醒
@truth_seeker
公式発表よりも、こっちの情報のほうが信用できるわ……。
#ミドルエリアの現状
コメント欄は意味不明な単語の羅列で埋まり、AIの自動フィルターも追い付いていないようだった。表示されている情報が毎秒切り替わり、トレンドの更新が早過ぎて、一つ前の話題すら覚えていられない。
情報量の多さに頭がパンクしそうだ。
世界が書き換わる様を最前列で見ているみたいだった。
「どうするの、これ」
湊が口を尖らせる。ここまでカオスが極まると滑稽である。湊が冷たい眼差しを向ける。美形の白い目ってこんなに痛いんだな、と見当違いのことを考えながら、ルイは言い訳を考え始めた。