⑶境界線に立つ少年
エナスタ共和国の物流システムは、AIと自動化技術の進化によって劇的に変わった。かつて数週間掛かっていた物資の運搬が、今では僻地のマグ・メル島にも届く。それがなければ、ルイはこの桟橋で、彼と出会うことはできなかっただろう。
雨風で色褪せたウッドデッキの上で、彼は両足を海に向かってぷらぷらと揺らしていた。微妙にダサくて大きい麦藁帽子を被り、遠い国の風を待つ風見鶏のように水平線を眺めていた。
ミドルエリアの南端には、ハイエリアの放棄したリゾート施設があった。桟橋の先には、バリ島にあるようなエキゾチックなヴィラが幾つか設置されていたが、今では利用する者はなく、外壁は色褪せ、雨風によって朽ちるのを待つばかりだった。
彼は、物悲しい風景に溶け込むようにして、枯れ枝みたいな釣竿を持っていた。物資運搬の仕事を果たすために、ルイが紙袋を届けると、彼はどこの国か分からない言葉で礼をした。
息を呑むほど、美しい子供だった。それは磨かれた水晶や静かな湖面に映る月のように澄んでいて、夜空に突如現れた彗星のように強烈な存在感を放っていた。
裕福な家の無垢な一人息子が庭先にいる。そんなゆったりとした服装。佇まいや立ち振る舞いは、まさしく少年だったけれど、顔立ちは殆ど少女だった。
南国の空の下にいるのに、肌は血管が透けて青白く見える。印象的な二重瞼は長い睫毛に彩られ、その下には濃褐色の瞳が行儀よく収まっていた。彼は釣竿を置いて紙袋をバリバリと破いた。中から出てきたのは、ゴミみたいな何かのケーブル。
「それなに?」
ルイが疑問の声を上げると、彼は楽しげにケーブルを高く掲げて見せた。
「新しいゲーム」
「へぇ。どうやって使うの?」
彼はニヤリと笑い、此方を振り向くことなく、足元を軽く蹴ってヴィラの中に走り出した。その背中が一瞬で消え、すぐに戻ってきた時には、ノートパソコンを両手で抱えている。
彼はサラサラとケーブルとパソコンを繋げた。次に小さな機器を取り出して、それもすぐに接続した。彼の動きはまるでショーを見せるかのように、無駄なく美しかった。
ルイが覗き込んだディスプレイには、さっきまで自分が歩いていたミドルエリアの関所が映し出されている。それは、監視カメラの映像だとすぐに気付いた。
「さて、どんなバグが出るかな?」
彼は軽くキーボードを叩きながら、指先で空中に向かってパチンと音を鳴らした。同時に、ディスプレイに映るキュレーターたちが意味もなく回り始めた。
「おっ、バグったバグった! レアモーション発生!」
彼は嬉しそうに、まるでゲームの裏技を見つけたかのように声を弾ませる。画面の中で、キュレーターたちは無理にリズムを取らされているかのように回転し、カチカチという音が響く。その様子はまるで一瞬の混乱が支配したかのようだった。
「なんだ、これ!」
ルイは驚き、思わず画面に身を乗り出す。彼はその様子を見て、ただ口元を釣り上げるだけだった。
「まぁ、要するに、カオス理論に基づいて、情報のランダムな変動を引き起こすためのコードを書いて、タイミングよくシステムに侵入するわけさ」
「……」
「セキュリティプロトコルを数秒間だけスキップさせると、あとはランダムに発生するエラーを利用して操作できるんだよ。お、バグが出た、やっぱりな」
ルイには、彼の言葉の半分も理解できなかった。ただ一つ分かるのは、彼の手によって、あの恐ろしいレールガンが沈黙し、冷静で秩序を保っていたキュレーターたちが、簡単に狂ってしまったことだった。
彼は冷ややかな笑みを浮かべた。
「現実を壊すなんて、簡単さ。バグを一つ仕込んで、全ての前提が崩れる」
彼は鼻を鳴らしながら、画面に目を戻した。その瞬間、画面の中にあったキュレーターたちが、次第に秩序立って動き始めた。AIが制御を取り戻そうとする動きだ。
「あー、修正されたか。AIは仕事が早いな」
彼は少し肩を竦め、余裕の表情でモニターを見つめ続けた。システムの強固なセキュリティは一度の干渉では崩れない。毎秒ごとにプログラムが更新され、新しいアルゴリズムが生成され、システムはリセットされる。その度に、僅かな優位もすぐに失われ、制御は元に戻る。
けれど、彼はまったく動じなかった。
彼はAIの支配を奪う気なんてない。ただ、世界のルールをちょっと揺らして、それがどう歪むのかを見て楽しんでいるだけだ。
「でも、次の仕込みはもう思い付いてるんだよね〜。さて、どこから崩していこうか?」
彼は涼しげに腕を組み、再び次の一手を考えているようだ。リセットされた後も、システムの隙間を見つけ出し、再び干渉する方法を知っている。
「向こうのバランス調整テストでもしてやるか」
彼は肩を回しながら、のんびりとした声で呟き、手元を再び動かし始めた。
ルイは呆気に取られて、大きく溜息を吐いた。彼の隣に座ると、桟橋がぎしぎしと軋んだ。其処で漸く彼がルイへ目を向けた。
並んで座ると、見下ろすほどの体格差が更に際立った。その純真な瞳を覗き込んで、ルイは差し出した手を少し迷ったあと、軽く伸ばした。
「俺、ルイ。ルイ・マヌエル・シルバ」
「長いな。ルイって呼ぶよ」
少年は肩を竦めて、手を取った。
薄くて小さな手の平だった。微かに滲んだ汗の湿気が、先程までの集中状態と興奮を物語っている。
「俺は、湊。ルイは、いくつ?」
「22歳。湊は?」
「19歳」
宜しく、と簡潔な公用語で告げる。互いに素性や国籍は尋ねなかった。ラベルを貼ることは、自分たちにとって必要なことではなかった。同世代の仲間が新しい遊びを見つけて、その楽しさを分けてくれる。善悪は、ともかく。
真っ青な空に白い雲が眩しい。カモメの間抜けな鳴き声が波濤に混ざる。
ステッカーだらけのノートパソコン、ダサい麦藁帽子、餌の付いてない釣竿、精密機器を潮風に晒してしまうような大胆で、悪戯好きな少年。彼を構成する要素というのは、それだけで充分だった。
1.悪党ほどよく喋る
⑶境界線に立つ少年
桟橋の板の隙間から、透き通った海が覗く。
鮮やかな珊瑚礁の上をフラミンゴ色の熱帯魚がひらりと横切る。その影が、海底にくっきりと浮かび上がった。
潮風が吹き付けると、麦藁帽子が浮き上がり、湊が慌てて片手で押さえた。ほっと息を吐きながら、彼は少し肩の力を抜いた。
湿気のせいか、顔の火傷がじくじくと染みた。本当はもう痛みなんてないはずなのに、傷が残っていることで幻想に囚われてしまう。
起きてしまった悲劇を嘆いていると、心までその場所に縛り付けられ、言い訳の余地を残してしまう。戦場で淘汰されたはずの弱さが、今もなお心に残っているのだ。
ルイは、蟻の景色を見た夜のことを思い出した。
足元の爆弾が一瞬で全てを奪い、ルイは押し出されるようにエナスタ共和国に辿り着いた。エルダ・デバイスで世界と繋がった時、初めて孤独であることに気付いた。
誰とでも繋がれるのに、誰とも繋がっていない。誰も自分に興味がなくて、俺も自分に興味がない。そんな仄かな希死念慮が滲む夜、あの写真たちはルイの心に寄り添ってくれた。
だけど、あの写真の撮影者はルイとは違う世界の住人で、自分は景色の目新しさに惹かれていただけなのかもしれない。
こんな風に感傷的になるのは、目の前の彼が余りにも無防備だったからだ。安全なエナスタ共和国の空気は、人の心を裸にする。楽園のような錯覚を与えて。
「パソコンが好きなの?」
「まあね、そこそこ」
ルイのぼんやりとした質問に、湊は適当に答えた。
そのまま聞き返されたので、ルイは少し迷ったが、自分の書いた記事の話をした。SNS上で表示回数は伸びたのに、世界には何の影響もなかった。
苦笑混じりに語ると、意外にも、湊はルイの記事を知っていた。
「あの暗い記事ね」
皮肉っぽく笑って、湊は肩を竦める。
「SNSの投稿なんかに、人生を変えるほどの感動体験は存在しないんじゃない?」
そう言う湊の顔から、さっきまでの楽しげな色は消えていた。
パソコンを触っていた時の目の輝きはどこへやら、まるで何もかも知り尽くしたような大人の表情だった。
確かに、湊の言葉は正しいのかもしれない。
でも、ルイは簡単に頷けなかった。
「でも、蟻の景色は違った」
思わず呟くと、湊が一瞬だけ目を丸めた。
そして、ふっと息を零すように笑った。
「あれ良いよね」
俺も好き。
湊は柔らかに微笑み、まるで秘密を分かち合うように呟いた。その微笑みを見た瞬間、ルイの胸が僅かに脈打つ。
「君は、世界を変えないの?」
問い掛ける湊の声は、不思議なほど静かで、穏やかだった。けれど、ルイは一瞬、息を詰める。
その言葉は、ただの問い掛け以上の重みを持っていた。此処ではぐらかしたら、もう二度とこの場所に戻って来られない気がした。
だが、ルイには、自分の意志を貫くだけの挑戦も、成功もなかった。
「俺だって変えたいけど……、変えられるわけがない」
「試したの?」
湊の声が、ルイの言葉に重なる。
それは問いというより、一応確認してあげるね、というような響きだった。
「何度でも? 何回でも?」
ルイは思わず口を閉ざす。
その一瞬の沈黙を、湊は見逃さなかったらしい。
湊は「そっか」と呟き、足をぶらぶらと揺らしながら、指で桟橋の板目をなぞった。
潮風が吹き抜ける。ふと感じた違和感に、ルイは気付く。湊の目はもう、ルイを映していない。
「変えられないって言う人は多いけどさ。そもそも試しもしないでエラー吐いてる人の方が、ずっと多いよね」
淡々と、湊は言った。その言葉は、目の前のルイではなく、無数の怠惰な人間たちに向けた独白のようだった。
「でも、変えたいとは言うんだ」
湊は薄く微笑んでいたが、その声には氷の刃のような冷たさが潜んでいた。彼の瞳は深い水底のようにどこまでも静かで、どこまでも冷たい。其処に映ったものは、決して浮かび上がることはない。
「まあ、いいんじゃない? そのバグも仕様ってことで」
ルイは無意識に息を詰めていた。何故だろう。湊の言葉が、何かを決定付けたみたいな気がした。
「選ばないのも、自由だよね」
柔らかな口調に反して、其処には明確な皮肉が滲んでいる。湊の目は、まるで全てを見透かしているようだったが、何にも興味を示さない。
立ち上がった時には、もうルイを見ていなかった。壊れた玩具にはもう触れない子供みたいに、ルイを置いて別の何かを探していた。立ち去ってしまいそうな湊に、ルイは咄嗟に問い掛けた。
「また、会えるか?」
湊がルイを見た。その視線は、まるで期待する価値があるのか測るような冷たさだった。
「俺とゲームがしたいなら、君のチップを賭けなよ。君はまだ席に着いてすらいない」
何のことか分からなかった。
だが、目の前の少年と自分の間には明確な境界線がある。
湊はやれやれとでも言いたげに肩を竦め、踵を返して歩いていく。迷いのない足取りで、袖を引く余地もない。
「またな!」
去っていく最中に向かって、ルイは叫んだ。けれど、彼は立ち止まることも振り返ることもない。踊り出しそうな足取りで、背中を向けたまま軽く手を上げただけだった。
小さな背中がヴィラの影に消えていく。
ポケットの中でエルダ・デバイスが震えた。次の仕事を告げるバイブレーションが、ルイの思考を現実へと引き戻す。
ふと気付くと、拳を握り締めていた。手の平に爪の跡が残っている。それは、故郷で粉々に砕け散ったはずのものを、未だに手放せずにいる証のようだった。