⑷地獄は日常に沈む
@middle_zone_diary
パン屋の少年、名前も年齢も分からない。朝四時、薄明かりの中でパン生地を叩いていた。両手の指先は潰れ、爪は一枚も残っていなかった。機械に巻き込まれたのか、躾の代償なのか。誰も問わない。焼き立ての匂いに誘われて、列は今日も伸びていく。
#エナスタ共和国 #労働監視 #無名の朝
@ghosts_of_ennasta
水場に並ぶ女の腕に、焦げ跡のような数字が見えた。焼け落ちた工場の名残。逃げた者には、番号が与えられるらしい。商品と間違えないように。
#エナスタ共和国 #記号としての女
@urban_noise_report
背の高い少年が片足を引き摺ってた。義足の蝶番が軋むたび、犬が低く唸った。彼の部屋にはまだ母親の靴が残ってるらしい。正規雇用枠と引き換えに差し出された『同意書』は、サインが滲んでいたって。
#エナスタ共和国 #労働契約 #誰かの履歴書
@whispers_behind_doors
教会の扉は開かない。白い壁に張られた十字架は監視カメラの死角。夜になると中から怒鳴り声。子どもの泣き声。皆が鎧戸を閉めるのは、それを聞かなかったことにするため。
#エナスタ共和国 #祈りは届かない #救いの不在
@minority_pulse
今日もプロジェクション広告が叫んでる。自由を手にしろ、声を上げろって。でも、それって俺たちが思う自由じゃない。何を言ってもいい、ただし何も届かないなら、それは自由か?
#エナスタ共和国 #戦争代理人 #選ばれない者たちへ
@backward_steps
知ってるか?暴力に慣れるには、たった三日でいい。二日目で夢を見なくなり、三日目で笑わなくなる。あとは流れ作業だ。希望が配給される日を、ただ待つだけ。
#エナスタ共和国 #希望中毒 #絶望と折り合う
@night_class_unit
識字プログラムの子供たちが、夜にだけ動いてる。昼間は資源回収の手伝い。通学証はあるけど、発行元が違うから公式記録に残らない。全員、ロウエリア出身。俺の弟も、たぶんそこにいる。
#エナスタ共和国 #透明な教育 #夜だけの教室
@archive_orphan
古いターミナルで再生された記録。映像は壊れていたが、音声だけが生きていた。子供の名を呼ぶ声が繰り返され、背中でスキャナが鳴る音が続く。アーカイブ孤児——存在の証明を国家に塗り潰された子供たち。
#エナスタ共和国 #記録外 #子供という資源
@biofeedback_scar
感情制御失調。それが診断名。背中の神経パッチが過敏に反応して、笑った瞬間に痙攣する子がいた。再調整には費用がかかる。だから、修理は後回し。今は『笑わないことを覚える訓練中』らしい。
#エナスタ共和国 #神経接続障害 #笑いの代償
@clocktower_confession
正午の鐘が鳴る頃、誰かが毎日屋上から飛び降りるって噂がある。信じてなかった。でも、鐘の数だけ花が手向けられてる。誰が置くのかもわからないまま。
#エナスタ共和国 #無言の抗議
@metro_shadowlife
地下鉄E線の構内で寝てる男がいる。義体の充電ができず動けないらしい。市民ランクが低いとコンセントも使えない。次の波が来たら彼は轢かれる。誰も止めない。
#エナスタ共和国 #等級差別
@bluecollar_dust
配達員の手袋の下にタトゥーがあった。焼却処分済の区域出身者だけが持つ識別コード。あれ、隠さないと雇われないのに。どこかでもう壊れたんだろうな、心も。
#エナスタ共和国 #透明な履歴
@observer_of_night
夜、ドームの天井に何か映る。街の光に紛れて、泣いてる顔が。たぶん、プロジェクションの不具合。けど、気付いたら誰にも言わないでおこうと思った。
#エナスタ共和国 #都市の幽霊
@skyview_diary
午前七時。ドローンが窓をノックして朝食を届けてくれる。自動調整された気圧と湿度、完璧な一日の始まり。誰も不自然に思わない。困っていないフリが、日常なんだ。
#エナスタ共和国 #選ばれし日常
@taste_of_privilege
子どもが学校で「ロウエリアの歴史は必要か」と発言して、AI教師に褒められてた。知識はあっても共感はいらない。それがこの国のエリート教育。
#エナスタ共和国 #知識は武器 #共感は不要
@neon_above_clouds
空中庭園でランチ。今日のテーマは「環境に優しい戦争の在り方」。スムージーを啜りながら、誰かが言った。「ロウの連中って、なぜあんなに怒ってるの?」
#エナスタ共和国 #雲の上の倫理
@morning_light_zone
昨日、ミドルエリアで小規模な暴動があったらしい。ドアが閉まっていれば、ここは平和だ。ニュースは音を立てない。映像はどこまでも綺麗に編集されていた。
#エナスタ共和国 #世界は静かに燃えている
2.我が上の星は見えぬ
⑷地獄は日常に沈む
#エナスタ共和国——。
それはルイが生きるために、怒りと正義を刻んで打ち込んだハッシュタグ。透明市民たちの声なき声を束ねる旗印。今、ミドルエリアの日常の地獄が、そのタグの下で拡散されている。
文字の断片は、誰かの本音で、誰かの記録で、誰かの絶望の証明だ。演説でも声明でもない。名前も知らない誰かの小さな叫び。けれど、それが社会を揺らしていく。
侑は、ディスプレイの海に沈むように視線を落とした。
文字列の奔流。誰が書いたのかも、いつのことなのかも分からない。だが、其処には確かに『声』があった。
パン屋の少年。水を汲む女。義足の青年。誰かの弟、誰かの母、誰かの墓。笑いを失い、祈りを諦め、光すら見上げない人々。
読むたびに、胸のどこかが軋む。それでも止められない。
知ってしまったら、もう知らなかった顔はできない。平穏の下で、発展の影で、音もなく歪んだ社会。
悲鳴を上げることも、助けを求めることもできなかった人々の声なき声。
「これも、誰かの正義なのか」
自分に向けた言葉だったのか、それとも画面の向こうにいる誰かへ向けたのか、侑にも分からなかった。
ルイの作り出したエナスタ共和国の陰謀論。初めはインプレッション稼ぎだっただろう。だが、今では救われなかった人々の地獄が整然と並んでいる。
ルイは静かに目を伏せて、文字列を目で追っていた。榛色の瞳にブルーライトが反射し、彼の顔に刻まれた火傷の痕が浮かび上がる。
ルイは顔を上げた。そして、彼は口の端に笑みを浮かべた。困ったみたいに眉を下げて、淡々と言った。
「ただの日常だよ?」
ルイは無機質な瞳で微笑んだ。
その声音には、怒りも、皮肉すらもなかった。ただ、ごく当然のことを答えたような静けさだけが残った。
火傷の痕に映るブルーライトが揺れ、彼の笑みは、まるで凍った湖面のように無音だった。
そんなことよりさ、とルイが矛先を変える。
自分のデバイスを操作し、慣れた調子でSNSを開く。そして、彼は口の端に笑みを浮かべた。
「侑のアカウント、炎上中だぜ?」
無邪気とも、投げやりともつかない口調だった。
侑は、その時になって初めて湊の投稿を思い出した。凄まじい通知が来ていて、とても全てに目を通すことは出来ない。その殆どは悪意、批判、批評。社会への恨み、憎しみ。人格攻撃とも取れる過激な言葉で溢れている。
つまり、炎上している。凄まじい勢いだった。
かつて侑が投稿したハイエリアの写真から、彼が海外の富裕層だという憶測が広まり、敵だと断じる声が飛び交う。獣じみた加虐衝動が、噛み付く先を探して彷徨っているかのようだった。
この世の悪意と憎悪が、死体に群がる蠅のように群がっている。それ以上に、耐え難く、無粋だった。
「俺もアカウントが生きてたら、今頃はバズってたのにな」
ルイはそう言って、空を見上げた。
笑った口元には、何処か苦い味が残っていた。
まるで、自分の死をネタに仕立てた舞台を、客席から眺めているようだった。