⑶或る英雄の死
朝焼けが街を静かに包み込む。尖塔の影が石畳に落ち、濡れた舗道には虹色の輪が浮かんでいた。
それは油膜のようでもあり、けれど、汚れと呼ぶにはあまりに静謐で、美しかった。
神の姿は何処にも見えなかった。少なくとも、侑の知る世界には存在しない。しかし、この都市は神の不在すら、ひとつの様式として成立させていた。信仰と皮肉、希望と諦念とが、精緻な建築と共に沈殿し、文化の表層に定着しているように感じられた。
その仮構の世界において、一人の英雄が死んだ。まるで完璧に整えられた台本に従って演じられた、幕引きのような終焉である。
午前七時三十二分、最初の投稿が現れた。拡散されたのは、粗い画質の動画だった。雑踏の中で叫ぶ若者の姿。顔は潰れて判別がつかず、背後から鳴り響く乾いた銃声とともに、彼の身体は糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
画面の片隅には、@louis_the_maverickという名が表示されていた。
その名前こそが、火口に投じられた導火線であった。疑念の発生よりも先に、感情の熱が走り抜けた。人々はそれを真実と認識する前に、信じるという行為に没入していた。まるで信仰が既に書き込まれた初期設定であるかのように。
街頭のホログラムが、喪章のように揺れていた。
『民意の代弁者、ルイ。暗殺される』
『国家権力による抹殺か』
『真実を語った若者の最期』
そうした見出しが、哀悼の装いをまとって溢れていく。
映像に映っていた人物は、ルイではなかった。しかし、それはもはや問題ではなかった。人々にとって重要だったのは、怒りの対象と、その象徴の確立である。真偽は本質ではなかった。
隣で、ルイが掠れた声を洩らした。
「……嘘、だろ?」
自らの死が、他人の台本によって演出された。それは、存在の輪郭ごと奪われる感覚に等しかった。失われたのは命ではなく、記憶と実感とを結びつけるための接点だった。
誰かが、火を点けやがった。
侑は唇の片端を引き下げながら、胸の内に吐き捨てた。
それは偶然ではなかった。怒りによって大衆を動かす手法は、歴史の中で繰り返されてきた。サラエボ、バスティーユ、そしてアラブの春。いずれも、名もなき死によって始まりを告げた。そこに必要だったのは、怒りと象徴、そして一つの火種に過ぎなかった。
その時、SNSは火がついたように騒然となった。匿名の言葉は怒声となり、電脳の河は奔流と化した。現実よりも先に、情動が動き始めたのである。
SNS上の投稿は、次第に物語を形成していく。
@skeptical_observer
フェイクニュースじゃないのか? でも、もし本当だったら……?
@eye_of_AI
彼は殺された。次に燃えるのは政府だ。
@no_voice_left
俺たちは黙っていた。だから殺された。
#ルイは俺たちだ
@counter_truth
冷静になれ。証拠はどこにもない。
SNSが炎上すると、現実の街は静けさを深める。まるで、光と影が背を向け合うように。
人々は逃げることも、立ち止まることもせず、都市のノイズの中に紛れ込みながら姿を消していった。それは退避ではなく、沈黙という名の待機だった。
ルイは言葉少なに、侑へ問い掛けた。
「……俺、死んだのか?」
侑は答えなかった。或いは、答える資格がなかったのかもしれない。
遠くの空で、雲がゆっくりと滲み始めていた。まるで、予兆を孕んだ静けさの中に、一滴の不純物が溶け込むように。
2.我が上の星は見えぬ
⑶或る英雄の死
喫煙所は街路樹の根元に静かに設けられていた。
癒やしのブースと銘打たれたその硝子張りの小空間は、精密な空調と無音の循環式フィルターが備わり、空気は常にアロマと脱臭剤によって調律されていた。外界に与える影響は皆無であるが、その清潔さが返って感情すら希釈されるような空虚さを醸し出していた。
ルイは黙って火を点けた。煙を吸い込み、静かに吐き出す。
その煙は濁っていた。紙と乾いた葉が焼ける鈍い匂いが、侑の鼻腔を掠める。安物の煙草だった。性質の悪い眠りのように、疲労を麻痺させ、現実の輪郭をわずかに曇らせるだけの代物。
だが、ルイはその一服を、まるで何かの儀式のように静かに味わっていた。
「煙草は偉大だよ。毒の癖に、裏切らない」
煙と共に、ルイが淡々と皮肉を吐き出す。
侑は鼻先で笑った。
「中毒者ってのは、そう言うもんだ。毒にだけ、忠誠を誓う」
ニコチンが血流に乗り、微かな倦怠が神経を鈍く撫でていく。ルイは喉の奥で笑いかけ、それを煙に変えて吐き出した。
外の世界は静まり返っていた。幾何学的に整えられた街並みにあって、煙だけが唯一の異物として揺れていた。しかし、それも程なくしてフィルターに吸い込まれ、痕跡は空気と共にかき消された。
軽口の余韻が残る中、侑は携帯端末を取り出した。通話履歴から一つの番号を選び、画面を軽く叩く。応答までの数秒後、明る過ぎる少年の声が耳を貫いた。
『Hey hey! Took you long enough!』
侑は反射的に携帯を耳から離した。
耳の奥で高音が炸裂し、脳まで震える気がした。隣のルイすら肩を跳ねさせ、何事かと目を細める。
耳の奥で鳴った高音に、視界が少し傾ぐような気がした。侑は軽く目を細めながら、苦言を呈す。
「声量、間違ってるぞ。鼓膜が破れるかと思った」
『そう? 侑の鼓膜は特別製だから大丈夫でしょ』
湊の声は、悪戯に満足した子供のような響きを持っていた。呆れながらも、侑の口元から緩やかに力が抜けた。何処にいようと、彼は風のように自由である。
侑は短く息を吐き、もう一度携帯を耳に当てた。
通話の向こうで、僅かな衣擦れの音がした。湊が何処かを歩いている。何かを蹴ったような金属音が遠くで響いた。その直後、湊が感心したみたいに言った。
『状況、全部見た。ルイのアカウント、動画、SNSの波。早かったね、拡がるの』
「お前は寝てると思ったよ」
侑が軽く皮肉を混ぜて言うと、湊は笑った。
『寝てたけど、通知がドラムロール並みに鳴っててさ。あれはもう起きるしかないよね』
スピーカー越しに軽快な足音が響いた。硬い床を蹴るスニーカーの音が、静かな空気の中に木霊している。地下だ。あのヴィラじゃない。こいつ、何処にいるんだ?
何故か、足音が少しだけ楽しそうだった。
聞きたいことは山程あるが、今は後回しにする。
侑は眉根を寄せ、声を潜めた。
「……あの暗殺映像」
『フェイクだよ。八割は生成、残りは過去の素材を切り貼りしたもの。粗はあるけど、タイミングは完璧だった。共感を誘爆させるには、あれで十分』
湊の声が変わった。ふざけるでもなく、冷笑でもなく、ただ事実だけを伝える科学者のように。
『人間は、信じたいという願望に従って事実を創る。ルイはその願望にちょうどいい形だった。だから、死んだことにされた。それだけ』
そして、彼はこう付け加えた。
『死んだ英雄は便利だよ。文句言わない、謝らない、好きに語れる。物語の中じゃ、最強のキャラさ』
湊が短く笑った。あまりにもあっけらかんとしていて、侑は一瞬、返す言葉を忘れた。虚構と現実、ゲームとリアル。彼はまるで、その境界線の上で踊っているかのようだった。
ブースの外、風が街路樹を揺らす。雲が流れ、太陽を覆い始めていた。
『今回の映像は、戦争代理人の手口だよ。物語で現実を動かす、いつものやり方』
「最初から、誰かを怒らせる為に用意された?」
『そう。そして、感情が動けば、あとは現実が追いついて来る』
沈黙が落ちる。理解してしまうこと自体が、最も恐ろしい。侑は、通話の続きへ耳を傾けた。
湊は僅かに沈黙を挟み、明るい声で尋ねた。
『で、ルイは?』
「動揺してる。自分の死を見せられて、まだ混乱の渦中だ。自分の居場所すら、他人に書き換えられてる感覚だろう」
『まあ、そうだよねぇ』
湊はそう言って、軽く笑った。
そして、湊は一段声を低くして、問い掛けた。
『ねえ、侑。君は、この国が本当にまだ冷静だと思う?』
どういう意味だ。
侑は口を閉ざしたまま、言葉の先を待った。
ビルの隙間を抜ける風が、ガラス張りのブースの外で低く唸る。街路樹の葉が微かに揺れ、曇り始めた空に、小さなひびのような影を落としていた。
『俺には、もう現実の感覚が崩れているように思えるよ。SNSの映像の方が、現実よりも本物みたいに見える。だから次は、現実が虚構に追い付くんだ』
湊の声が、すっと下がった。
『暴動が起きるよ、近いうちに』
それは警告ではなく、予告。
何か確信を持った物言いだった。
侑は、もう一度だけ深く息を吐き出した。
「それを止める手は、あるのか?」
『あるとすれば、一つだけ。嘘の物語に、もっと強い真実の物語をぶつけること』
「それが……、お前の探検か?」
『答えるのは簡単だけど、それじゃ面白くないでしょ。真実は、伏せ札の方がよく燃えるんだ』
湊は茶化すように言った。通話の奥から、一瞬だけ高い金属音が響く。それは、地下へと続く階段を降りる足音のようでもあった。
湊は軽やかに笑い、通話の向こうで声を弾ませた。
『じゃあ、俺、探検の続きをしなくちゃ。いい物語には、狂った奴が必要だろ?』
「おい、湊!」
『Later, real world! Don’t miss me too much!』
——じゃあね、現実。あんまり恋しがるなよ?
通話は、パツンと軽い音を残して切れた。
ルイが憐れむような眼差しを向けて来る。侑は目を逸らしながら、煙草を灰皿に押し付けた。火の消える音が、虚しく響いた。
携帯をポケットへ仕舞う寸前、ふと、侑は指を止めた。SNSを開く。惰性と呼ぶには、明確過ぎる使命感。責任と名付けるには、何処までも他人事。そんな燻るような感覚が胸にあった。
画面には、見慣れたタグが浮かんでいた。
#エナスタ共和国
そのハッシュタグは、伝染病のように広がり、タイムラインを覆い尽くしていた。今や、それは誰の国でもなく、誰の憤りでもなかった。
それでも、誰かの怒りが、誰かの祈りが、その名を借りて叫ばれていた。