⑵水底の喧騒
真の恐怖というものは、沈黙の中に芽吹く。
南国の陽光が街に降り注ぐ。だが、その輝きは妙に白々しく、肌に触れるより先に神経を逆撫でした。遠くに海が見える。紺碧に染まる波打ち際はあまりに穏やかで、嵐が去った翌朝とは思えない。
街は静まり返っていた。外壁を美しく塗り直した家々。まるで、ドールハウスのように整然と並ぶ街並みだ。石畳に泥は残っておらず、ドローン掃除機が完璧に処理したのだろう。余りに整いすぎていて、むしろ不気味だった。
人々はそれぞれの行き先へと歩いていたが、目線は皆、下を向いている。手元のデバイスを見ながら歩く様は、全員が同じ重力に引かれているかのようだ。音もなく、呼吸すら揃っているようで、まるで意志を持たない群れだった。
その中で、プロジェクション広告だけが喧しく鼓動していた。
ビルの壁面に投影された演説映像。歪んだ金属のような声が、無機質な建物の表面を這いながら再生されている。
『君たちは既に選んだはずだ』
『沈黙は服従だ』
『正義とは、誰の言葉か?』
戦争代理人。——名も顔も分からない、だが、今やエナスタ共和国で最も影響力を持つ存在。その映像の男が誰か、侑には分からなかった。しかし、その声とタイミング、言葉の選び方には、明らかな訓練が感じられた。
誰かを煽るための技術。それは、拳銃よりも殺傷力を持つ。
「なんだよ、これ……」
隣で呟いたのはルイだった。
榛色の瞳が揺れていた。いつもの毒舌も皮肉も消えて、ただ茫然と画面を見上げていた。その目が向けられる先には、自分のアカウント名が表示されている。
@louis_the_maverick
まるで本人が言っているかのように、演説は自信たっぷりに展開されていく。
「……あいつ、俺のアカウントを使ってる」
ルイが愕然と呟く。ぶら下がった両腕は、手枷でも嵌められているかのように重そうに見えた。
侑は腕を組み、プロジェクション広告を見上げる。壁面いっぱいに映し出された男の顔が、何処か作り物めいて無機質だった。言葉の節々に熱が込められているようでいて、その熱源が見当たらない。
感情のようなものを、感情のない者が模倣しているような印象だ。
「……ああまで饒舌だと、逆に信じたくなる気が失せるな」
侑は独り言のように漏らした。
ルイが隣で僅かに笑った。けれど、その笑みは乾いていた。
「人気ストリーマーかよ。再生数稼ぎの口上付きでな」
「投げ銭代わりに、社会の怒りを焚き付けるとは……時代も進化したもんだな」
静けさの中に、ふと笑いが滲む。だが、それも一瞬で消える。街はなおも沈黙を保ったまま、ただ演説だけが響いていた。
ふと、隣でルイの呼吸が浅くなっているのに気付く。姿勢は変わらない。だが、その沈黙には、何かを噛み殺すような圧があった。手元で握られた拳が、僅かに震えている。
映像は語り続けていたが、誰も反応を示さない。ただ、意味の分からない音声を浴びせられているだけみたいだ。
「ひでぇな……」
侑がそう呟くと、ルイは口角を引きつらせた。笑ったのか、それとも苦しさを誤魔化したのか、侑には分からなかった。
「SNSってさ。俺、そこが唯一の戦場だったんだ。正義も、信念も、あそこに置いてきたのにさ……」
ルイの声には怒りもあったが、それ以上に悔しさが滲んでいた。命を張って築いた場所が、他人に奪われ、悪意の道具として使われる。それがどれだけ屈辱的なことか。侑は知っていた。いや、知っているフリはできた。
「デモは起きてない」
侑は、ふと呟いた。周囲を見渡す。子供を連れた母親が、路肩の花壇を眺めている。制服姿の配達員が、誰かと軽口を叩きながらホログラムの荷物を抱えていた。
だが、その誰もが、何処か上の空だった。
誰もがポケットにあるデバイスを気にしている。プロジェクション広告から流れる演説を聞き流しているようで、耳には入っている。そして、SNSには『暴動が起きた』『政府庁舎が炎に包まれた』という偽映像が洪水のように流れ続けている。
「この街だけが静かなんだよ。……変だよな」
ルイが小さく言った。
それは不安というより、焦りに近かった。自分が信じてきた正義が現実に作用していないことへの、裏切られたような気持ち。
侑は思った。ルイのような男は、戦場で育ってきた。現実に傷を負い、憎しみと信念をSNSという牙に変えた。
けれど、それが成りすまされ、悪用され、誰かの計画に組み込まれている——その事実が、彼を喰らい始めている。
「……誰かが仕掛けた、完璧な舞台ってわけだ」
侑はそう言いながら、プロジェクション広告を見上げた。
壁一面に広がる男の顔。その瞳はまるで、見ている気配を纏っていた。
ルイは顔を上げたまま、瞬きすらしていなかった。まるで、舞台の上に引っ張り出された自分自身を直視しているようだった。
その眼差しには、悔しさも怒りもなかった。ただ、酷く静かだった。
誰も叫ばない。だが、言葉が毒のように体内に蓄積されている。誰も暴れない。だが、心の奥底には確かに火種が撒かれている。
そして、それは確実に芽吹いていた。
2.我が上の星は見えぬ
⑵水底の喧騒
かつて、アメリカの作家がこんなことを言った。
真実がまだブーツを履こうとしている間に、嘘は地球の裏側まで行ってしまった。
SNSは、その嘘にジェット機の翼を与えた。
今の時代、真実は追い付くだけで息が上がる。
市場通りには、雨上がりの陽光が差し込んでいた。
天幕に溜まった水が雫を落とし、石畳に小さな輪を描いている。屋台が並び、果物、スパイス、民族衣装、雑貨——どれも鮮やかで、煌びやかだった。けれど、何処か夢の中にいるような違和感があった。
「ここって、観光客向けって感じだな」
ルイが鼻を鳴らす。日焼けした肌に南国の汗が滲んでいた。ジャンクな木彫りの置物を手に取り「これ、買う奴いるのか?」と呆れたように笑う。
「まあ、土産話ってヤツには丁度良い」
侑は答えながら、露店の軒先に並ぶ柑橘を一つ手に取った。爪を立てると、弾けるように香気が広がる。だが、店主の表情は読めない。いや、表情が無いと言った方が正確だ。仮面のように張り付いた微笑は、まるで、笑顔の指令でも受けているようだった。
「なあ、あの店の女……瞬きしたか?」
ルイがぼそりと呟く。視線の先では、別の屋台の女性が、じっと一点を見詰めて立っていた。動かない。まるでプロジェクション広告の背景に使われるNPCのように、完璧に作られ過ぎている。
「……気のせいだろ」
侑はそう言ってみせたが、内心では同じ違和感を覚えていた。この街の日常は、型に嵌められた演劇のように滑らか過ぎる。
侑は果物を二つ手に取り、店主に声を掛けた。ナッツとドライフルーツを幾つか購入し、紙袋で受け取る。支払いを済ませると、ルイが訝しげに覗き込んで来た。
「そんなに食うのか?」
「俺の珍獣がな。燃費が悪くてよ、そろそろ餌やらないと」
「は?」
ルイがぽかんとするのを見て、侑は竦めた。
「見た目は天使、中身は宇宙人。だから、間を取って、珍獣」
「ああ、湊のことか。……お前も大変だな」
「いいや、楽しいよ」
侑はさらりと答えて、ルイの反応を無視するように歩き出した。
その時、広場に面した建物の壁に、再び映像が浮かび上がった。男の低い声が街角を撫でる。
『この国は君たちのものであるはずだ。——ならば、何故、君たちは声を上げない?』
また戦争代理人だ。まるで何度も編集された、プロパガンダ映像のループ。だが、視線を上げる者は少ない。誰もが慣れ過ぎていた。或いは、慣らされていた。
「声を上げろ、ねぇ……」
ルイが皮肉っぽく笑う。だが、その笑みの奥には、怒りにも似た悔しさがあった。
「俺が一晩かけて考えた言葉を、あいつはワンクリックで模倣して、バズらせる。クソみたいなもんだよな」
自分のアカウントが奪われた。それだけではない。
自分の思想そのものが、操り人形の手に渡り、別の目的で再生されている。
「……俺だって正義を信じたかったけど、配給されなかったんだ。だから、奪ったんだよ」
その言葉には、開き直りにも似た響きがあった。だが侑には、それが虚勢に聞こえた。自分の正しさを信じたい男が、誰にも信じてもらえない現実に、ただ必死にしがみついているような——そんな声だった。
「せめて、俺がやったって思われるなら、まだマシだよ」
ルイは、ぽつりと零した。
丸くなった背中には、痛みと悲しみが、そのまま乗っているように見えた。
侑は果物の代金を電子タグで払うと、さりげなくその背中を目で追った。怒っているようには見えない。だが、何処か、捨てられた犬のような目をしていた。
「……ああ。マシだったかもな」
侑は静かに相槌を打った。
視線を上げると、街路樹の影が石畳に揺れている。葉の先から零れる光が、小さな波紋を描いていた。美しい。だが、その完璧さが返って、この朝の異様さを浮き彫りにしていた。
まるで、AIが『理想的な街の朝』として設計した光景のようだった。
「この国、おかしいよな」
不意にルイが口にした。投げやりにも、祈るようにも聞こえたその言葉に、侑は答えを返さなかった。代わりに、ほんの僅かだけ頷いた。
街路の先に、喧騒が微かに立ち上った。遠くで何か揉めているらしい。若者数人が何かを叫んでいる。その中心で、一人が地面に座り込んでいた。だが、周囲の大人たちは誰も目を向けない。店主たちは商品を並べ続け、観光客はカメラを構え、制服を着たAI搭載の警備ドローンが空を横切っただけだった。
「喧嘩か?」
ルイが眉を顰めた。
「いや……あれ、演出かもな」
侑は静かに言った。演説の映像と連動する、仕込み。火種を撒きたい誰かが、あえて不安を可視化しているのかもしれない。小さな衝突は、SNS上では暴動として拡張され、真実を上書きする。
——誰かが、未来をデザインしている。
そう感じさせるには、十分な演出だった。
「なあ、侑。もし、あれが全部、仕組まれた現実だったとしたら、俺たちはどうすればいい?」
ルイが問うた。
彼の声は静かだった。けれど、その奥には、燃え残った情熱が確かに潜んでいた。失ったものの大きさと、まだ信じたいという気持ちが拮抗しているようだった。
侑は答えなかった。
代わりに、風の音を聞いていた。
湿った空気が、潮の香りを運んでくる。けれど、その風はどこか重たく、遠雷のような予感を孕んでいた。
それは、嵐の前の気配だった。
「真実ってのは、いつも後から来るんだ」
漸く、侑が口を開いた。
「先に信じる奴がいて、後から都合のいい物語がやってくる。だから……焦るなよ、ルイ」
ルイは黙っていた。だが、その肩が、ほんの僅かだけ緩んだように見えた。
ルイの掌には、古びたデバイスが握られていた。
まるで、戦場を離れたはずの兵士が、まだ銃を降ろせずにいるようだった。
——ああ、こいつはまだ、戦場にいる。
正義のために声を上げて、名前を奪われ、死を演出されてもなお。
それでも手を離さない。執念か、誇りか。或いは、ただの意地か。
皮肉な話だ。
武器の扱い方なら、俺も知ってる。捨てたつもりでも、引き金の重さだけは忘れない。
遠くで、プロジェクション広告が切り替わった。
今こそ、立ち上がれ。——誰の声でもない熱が、街の壁を撫でていく。
南国の空は、青すぎるほどに晴れていた。
だが、その色の何処かに、確かに陰が差していた。
侑は黙って歩き出した。ルイも続く。
言葉は交わさない。けれど、沈黙は、まだ信じられるもののように思えた。