表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僕等の代理戦争  作者: 宝積 佐知
2.我が上の星は見えぬ
11/15

⑴神なき神殿

 SNS——ソーシャル・ネットワーキング・サービス。

 それは、誰もが声を上げられる場所とされている。

 教科書には、情報を共有・交流する場とあるが、今やそれは正確な表現ではないだろう。


 スクロール一つで世界中の情報に触れ、誰もが意見を発信できる。その手軽さは、時にジャーナリズムすら凌駕する。


 それはまさに、民衆の神殿である。

 誰もが祈りを捧げ、声を上げる。それを自由と錯覚するのは、実のところ門番(ゲートキーパー)の姿が見えないからだろう。


 嘘と真実を分かつ秤など、最初から用意されていない。

 裏付けの取れた事実の隣に、粗雑な陰謀論が堂々と並ぶ。情報の無法地帯では、虚偽のストーリーは事実の六倍の速さで拡がった。どうやら、本物は重くて高価過ぎるらしい。だから、軽くて手頃な嘘が選ばれる。


 似た声で囲まれれば、耳は異論を雑音として処理する。あとは簡単だ。確信が事実になる。


 SNSは、もはや通信手段ではない。

 思想を選別し、分断を演出し、痛みや怒りを祈りの形に整えて陳列する。それが本物かどうかなんて、最初から問題じゃない。祭壇に捧げられるのは、真実よりも映える物語だ。


 それは——武器であり、麻薬であり、幻想という名の劇場装置である。







 2.我が上の星は見えぬ

 ⑴神なき神殿






 朝日が海面に降り注ぎ、波間は銀の鱗のように揺れていた。抜けるような空には、千切れた雲が音もなく漂う。


 天神侑は携帯電話を掲げ、空を仰いだ。

 フレームに収めた風景は、AIの手で補正されていく。陽光は少しだけ強調され、空は現実より青く、雲は完璧な配置に整っていた。


 まるで、誰かが好みに合わせて設計したような空だった。出来すぎた理想の絵葉書は、何処か嘘臭くて、侑には落ち着かなかった。


 指を止めたまま、侑は短く息を吐いた。




「……こういうのが、一番拡がるんだよな」




 加工された青空。強調された輝度。

 実際より美しく整えられた映像は、希望や癒しといった言葉と結び付けられて消費されていく。中身は問われない。見栄えさえ良ければ、それでいい。


 雪崩のように流れていく投稿を見ていると、言葉にならない虚無感が胸の奥に沈殿していく。祈りも怒りも、正義も等しく、情報として扱われ、消費されていく。


 結局は投稿を控え、携帯電話を静かにポケットへ押し込んだ。頭の奥が痺れるように痛む。




「おい、こっちだ」




 声に反応して、侑は後ろを振り返った。

 浜辺の終わりには鬱蒼とした森が広がっていた。南国特有の広葉樹が密集し、陽光を遮って内部を暗くしている。昼間なのに、まるで時間が巻き戻ったような薄暗さだった。




「此処が近道だよ」




 右半面に火傷の痕を残したルイが、振り返りながら先導する。古着と呼べば聞こえはいいものの、どれだけ着古したか分からないボロ切れ同然の服を纏っている。


 森の縁でルイが声を上げた。既に靴を泥に沈めながら、一本の白い踏み分け道の入り口に立っていた。




「本当に入るのか……」




 侑は呟いたが、返事はなかった。

 湿気を孕んだ森の空気が、肌を撫でていく。背後の海風とは明らかに違う、重く、なめついた気配だった。


 一歩、森の中へと足を踏み入れる。

 森に入った瞬間、空気の質が変わった。湿度が肌に纏わり付き、肺の奥まで湿り気が流れ込む。思わず足が止まる。


 足元の枯葉が微かに鳴った。途端、海の音が遠去かる。さっきまで耳の奥に残っていた波音が、まるで誰かに音量を絞られたように消えた。代わりに、虫の羽音や鳥の声、枝を擦り抜ける風の唸りが迫ってくる。


 世界が、変わった。

 そう感じさせる境界線だった。




「ちゃんとついて来いよ」




 ルイは侑に一瞥もくれず、白く乾いた踏み分け道を躊躇なく進み始めた。鬱蒼とした樹々の間を、無駄のない足取りで抜けていく。背筋はぶれず、肩の揺れもない。身体の芯で歩いているのが分かる。


 歩き方で、分かる。こいつは、軍人だ。

 しかも、訓練されたエリートではない。命令も理論も通じぬ最前線、泥と硝煙と飢えの中を、ただ生存本能だけで走り抜けて来ただろう下層の兵隊。


 垂れ下がる椰子の葉を払いのける動作も、余計な力みがない。だがその一瞬、枝葉の陰から南国の鳥が鋭く喚いて飛び立ち、森の騒めきが耳の奥で波紋のように広がった。


 風は止んでいるのに、葉のざわめきがやけに人の声に似ている。囁きのように、誰かがすぐ傍で息を潜めている気配。


 空気の密度が変わった。

 ここでは、音すら慎重に息を殺している。


 ベトナムの熱帯雨林でアメリカ兵が正気を失ったのも、無理はない。敵より厄介なのは地形と湿度、そして、孤立した時間そのものだ。この環境で理性を保てるなら、そいつは兵士じゃなくて哲学者だろう。


 思考が発条のように跳ね回る。

 シャツは汗を吸い、皮膚に貼り付き始めていた。

 湿った空気が蛇のように首筋を這い、息苦しさだけが残る。


 呼気と一緒に不快を吐き出しながら顔を上げると、ルイはすでに遠くにいた。この泥と熱の悪路に、まるで馴染んでいるかのように。


 誘導されているのか——そう考えるのは、癖だ。

 信用していない訳じゃない。ただ、誰が敵で、何処に罠があるか。それを常に想定していないと、生き延びられなかった。侑はその感覚を、未だ手放せずにいる。


 ルイは幹に寄り掛かり、腕を組んで待っていた。

 出口からの逆光に顔を半分沈めながら、肩で静かに溜息を吐く。どこか芝居がかった立ち姿だった。




「歩くの、遅くね?」

「……革靴でジャングル歩いてるヤツに、言う台詞かそれ」




 侑は片足を上げて見せた。

 泥に染まったストレートチップ。この靴の手入れに使ったワックスの値段で、お前の靴は三足買えるぞ、と言いかけてやめる。


 足を踏み外さなかったのは、運でも訓練でもない。

 そうなる前に死んだ連中の姿を、何度も見て来ただけだ。




「まったく、不親切な案内人だぜ」




 侑が嘲るように吐き捨てると、ルイは無邪気に笑った。

 子供の真似をした大人か、或いは感情を思い出せなくなった人間の顔だった。


 風が一度止まり、森が呼吸を忘れる。

 その刹那、音もなく世界が遠ざかるような静寂が訪れる。鳥の鳴き声が遅れて戻り、梢が微かに震えた。


 ルイがぽつりと呟いた。




「……なあ、侑って、何者なんだ?」




 その問いは、熱を欠いていた。

 榛色の瞳が乾き、わずかに彩度を失っていく。

 大人の反応を試す子供のようでありながら、その視線には計算と飢えがあった。


 侑の頭の中に幾つか返答の候補が上がったが、その全てを喉の奥に押し込んだ。


 AIの管理するエナスタ共和国で、何処で何が聞き耳を立て、誰が目を光らせているか分からない。そんな場所で自分の情報を開示できる程、侑は安楽に生きては来なかった。


 だから、このような場面で答えは決まっている。

 侑はボスの言葉を引用し、口角を上げた。




「お前が決めろ」




 侑がわざとらしく気障に言うと、ルイは皮肉っぽく鼻を鳴らした。

 会話していると、普通の青年に見える。侑が追い付くと、ルイが手を差し伸べた。肉刺と胼胝だらけの煤けた手の平だった。


 俺に手を貸すなんざ、百年早ぇ。

 侑はその手を取らずに横を擦り抜けた。途端、乾いた風が真正面から吹き付け、湿度による不快感を払っていった。


 其処は、街を見下ろす小高い丘の上にあった。

 ミドルエリア南端に位置する街は、まるで定規で測ったかのように整然と並んでいる。


 中世から近世のヨーロッパを模した街には、多様な人種や年齢の人々が行き交い、一見すると人種の坩堝のようだった。だが、その多様性すら計算されたようで、不気味な均質さを漂わせていた。


 整いすぎた景観は、ジオラマを覗き込んでいるような感覚を呼び起こした。人々の動きすら、プログラムされたように均一だ。


 この街は、静かだった。余りにも整然として、余りにも作り込まれている。視界の隅々まで管理された静寂は、むしろ叫びよりも恐ろしい。


 多様であることすら、ここでは演出された形式に過ぎないのかもしれない。そんな考えが、侑の胸を掠めた。


 侑が街を見下ろしていると、ルイが隣に立った。

 手の平で庇を作りながら、まるで野鳥でも観測するみたいに街を眺めていた。




「デモが起きてるんだよな?」




 ルイは不思議そうに、確かめるように訊いた。

 侑は曖昧に頷いた。ポケットに押し込んだ携帯電話を取り出して、そっと確認する。SNSでは、誰かが政府庁舎の壁に火炎瓶を叩き付ける映像が、無数のアカウントから拡散され、リツイート数は十万を超えていた。


 だが、現実はどうだ?

 人々は何事もなかったかのように管理された平穏と、支配される安寧を享受している。ディスプレイの中では世界が燃えていたのに、この街は冷蔵庫の中みたいに静かだった。


 安堵とも諦念とも付かない疲れが体を重くする。

 倦怠感に巻かれながら、侑は肩を落とした。だが、同時に湊の言葉が脳裏を掠めた。




 ——むしろ、これから真実が作られていくんだと思う。




 嫌な予感がする。まるで、南の空に発達する積乱雲を見ているような、火の点いた導火線を眺めているような、足元を炙るような焦燥感だった。


 本当に、起きていないのか?

 それとも、ここが異常なのか?

 もしこの映像が現実なら、何故この街は沈黙している?


 隣でルイが、気の抜けた声で言った。




「じゃあ、俺のデマなんて誰も信じていなかったってこと?」




 ルイはいつものように軽く笑っていたが、その声音には落胆が滲んでいた。そして、僅かに揺れた目元は、何処か傷付いたように見えた。


 答えは喉まで出掛かった。

 だが、言葉にしてはいけない気がした。

 それを言葉にした瞬間、彼の笑顔が完全に崩れてしまいそうで。




「さあな」




 侑はそう吐き捨てて、背中を向けた。

 晴れ渡った青空に、無数の監視ドローンが冷たく旋回している。その無機質な羽音が、街の静けさを切り裂くように響いた。彼等の視線は、逃れようのない獲物をじっと見据えているようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ