⑴神なき神殿
SNS——ソーシャル・ネットワーキング・サービス。
それは、誰もが声を上げられる場所とされている。
教科書には、情報を共有・交流する場とあるが、今やそれは正確な表現ではないだろう。
スクロール一つで世界中の情報に触れ、誰もが意見を発信できる。その手軽さは、時にジャーナリズムすら凌駕する。
それはまさに、民衆の神殿である。
誰もが祈りを捧げ、声を上げる。それを自由と錯覚するのは、実のところ門番の姿が見えないからだろう。
嘘と真実を分かつ秤など、最初から用意されていない。
裏付けの取れた事実の隣に、粗雑な陰謀論が堂々と並ぶ。情報の無法地帯では、虚偽のストーリーは事実の六倍の速さで拡がった。どうやら、本物は重くて高価過ぎるらしい。だから、軽くて手頃な嘘が選ばれる。
似た声で囲まれれば、耳は異論を雑音として処理する。あとは簡単だ。確信が事実になる。
SNSは、もはや通信手段ではない。
思想を選別し、分断を演出し、痛みや怒りを祈りの形に整えて陳列する。それが本物かどうかなんて、最初から問題じゃない。祭壇に捧げられるのは、真実よりも映える物語だ。
それは——武器であり、麻薬であり、幻想という名の劇場装置である。
2.我が上の星は見えぬ
⑴神なき神殿
朝日が海面に降り注ぎ、波間は銀の鱗のように揺れていた。抜けるような空には、千切れた雲が音もなく漂う。
天神侑は携帯電話を掲げ、空を仰いだ。
フレームに収めた風景は、AIの手で補正されていく。陽光は少しだけ強調され、空は現実より青く、雲は完璧な配置に整っていた。
まるで、誰かが好みに合わせて設計したような空だった。出来すぎた理想の絵葉書は、何処か嘘臭くて、侑には落ち着かなかった。
指を止めたまま、侑は短く息を吐いた。
「……こういうのが、一番拡がるんだよな」
加工された青空。強調された輝度。
実際より美しく整えられた映像は、希望や癒しといった言葉と結び付けられて消費されていく。中身は問われない。見栄えさえ良ければ、それでいい。
雪崩のように流れていく投稿を見ていると、言葉にならない虚無感が胸の奥に沈殿していく。祈りも怒りも、正義も等しく、情報として扱われ、消費されていく。
結局は投稿を控え、携帯電話を静かにポケットへ押し込んだ。頭の奥が痺れるように痛む。
「おい、こっちだ」
声に反応して、侑は後ろを振り返った。
浜辺の終わりには鬱蒼とした森が広がっていた。南国特有の広葉樹が密集し、陽光を遮って内部を暗くしている。昼間なのに、まるで時間が巻き戻ったような薄暗さだった。
「此処が近道だよ」
右半面に火傷の痕を残したルイが、振り返りながら先導する。古着と呼べば聞こえはいいものの、どれだけ着古したか分からないボロ切れ同然の服を纏っている。
森の縁でルイが声を上げた。既に靴を泥に沈めながら、一本の白い踏み分け道の入り口に立っていた。
「本当に入るのか……」
侑は呟いたが、返事はなかった。
湿気を孕んだ森の空気が、肌を撫でていく。背後の海風とは明らかに違う、重く、なめついた気配だった。
一歩、森の中へと足を踏み入れる。
森に入った瞬間、空気の質が変わった。湿度が肌に纏わり付き、肺の奥まで湿り気が流れ込む。思わず足が止まる。
足元の枯葉が微かに鳴った。途端、海の音が遠去かる。さっきまで耳の奥に残っていた波音が、まるで誰かに音量を絞られたように消えた。代わりに、虫の羽音や鳥の声、枝を擦り抜ける風の唸りが迫ってくる。
世界が、変わった。
そう感じさせる境界線だった。
「ちゃんとついて来いよ」
ルイは侑に一瞥もくれず、白く乾いた踏み分け道を躊躇なく進み始めた。鬱蒼とした樹々の間を、無駄のない足取りで抜けていく。背筋はぶれず、肩の揺れもない。身体の芯で歩いているのが分かる。
歩き方で、分かる。こいつは、軍人だ。
しかも、訓練されたエリートではない。命令も理論も通じぬ最前線、泥と硝煙と飢えの中を、ただ生存本能だけで走り抜けて来ただろう下層の兵隊。
垂れ下がる椰子の葉を払いのける動作も、余計な力みがない。だがその一瞬、枝葉の陰から南国の鳥が鋭く喚いて飛び立ち、森の騒めきが耳の奥で波紋のように広がった。
風は止んでいるのに、葉のざわめきがやけに人の声に似ている。囁きのように、誰かがすぐ傍で息を潜めている気配。
空気の密度が変わった。
ここでは、音すら慎重に息を殺している。
ベトナムの熱帯雨林でアメリカ兵が正気を失ったのも、無理はない。敵より厄介なのは地形と湿度、そして、孤立した時間そのものだ。この環境で理性を保てるなら、そいつは兵士じゃなくて哲学者だろう。
思考が発条のように跳ね回る。
シャツは汗を吸い、皮膚に貼り付き始めていた。
湿った空気が蛇のように首筋を這い、息苦しさだけが残る。
呼気と一緒に不快を吐き出しながら顔を上げると、ルイはすでに遠くにいた。この泥と熱の悪路に、まるで馴染んでいるかのように。
誘導されているのか——そう考えるのは、癖だ。
信用していない訳じゃない。ただ、誰が敵で、何処に罠があるか。それを常に想定していないと、生き延びられなかった。侑はその感覚を、未だ手放せずにいる。
ルイは幹に寄り掛かり、腕を組んで待っていた。
出口からの逆光に顔を半分沈めながら、肩で静かに溜息を吐く。どこか芝居がかった立ち姿だった。
「歩くの、遅くね?」
「……革靴でジャングル歩いてるヤツに、言う台詞かそれ」
侑は片足を上げて見せた。
泥に染まったストレートチップ。この靴の手入れに使ったワックスの値段で、お前の靴は三足買えるぞ、と言いかけてやめる。
足を踏み外さなかったのは、運でも訓練でもない。
そうなる前に死んだ連中の姿を、何度も見て来ただけだ。
「まったく、不親切な案内人だぜ」
侑が嘲るように吐き捨てると、ルイは無邪気に笑った。
子供の真似をした大人か、或いは感情を思い出せなくなった人間の顔だった。
風が一度止まり、森が呼吸を忘れる。
その刹那、音もなく世界が遠ざかるような静寂が訪れる。鳥の鳴き声が遅れて戻り、梢が微かに震えた。
ルイがぽつりと呟いた。
「……なあ、侑って、何者なんだ?」
その問いは、熱を欠いていた。
榛色の瞳が乾き、わずかに彩度を失っていく。
大人の反応を試す子供のようでありながら、その視線には計算と飢えがあった。
侑の頭の中に幾つか返答の候補が上がったが、その全てを喉の奥に押し込んだ。
AIの管理するエナスタ共和国で、何処で何が聞き耳を立て、誰が目を光らせているか分からない。そんな場所で自分の情報を開示できる程、侑は安楽に生きては来なかった。
だから、このような場面で答えは決まっている。
侑はボスの言葉を引用し、口角を上げた。
「お前が決めろ」
侑がわざとらしく気障に言うと、ルイは皮肉っぽく鼻を鳴らした。
会話していると、普通の青年に見える。侑が追い付くと、ルイが手を差し伸べた。肉刺と胼胝だらけの煤けた手の平だった。
俺に手を貸すなんざ、百年早ぇ。
侑はその手を取らずに横を擦り抜けた。途端、乾いた風が真正面から吹き付け、湿度による不快感を払っていった。
其処は、街を見下ろす小高い丘の上にあった。
ミドルエリア南端に位置する街は、まるで定規で測ったかのように整然と並んでいる。
中世から近世のヨーロッパを模した街には、多様な人種や年齢の人々が行き交い、一見すると人種の坩堝のようだった。だが、その多様性すら計算されたようで、不気味な均質さを漂わせていた。
整いすぎた景観は、ジオラマを覗き込んでいるような感覚を呼び起こした。人々の動きすら、プログラムされたように均一だ。
この街は、静かだった。余りにも整然として、余りにも作り込まれている。視界の隅々まで管理された静寂は、むしろ叫びよりも恐ろしい。
多様であることすら、ここでは演出された形式に過ぎないのかもしれない。そんな考えが、侑の胸を掠めた。
侑が街を見下ろしていると、ルイが隣に立った。
手の平で庇を作りながら、まるで野鳥でも観測するみたいに街を眺めていた。
「デモが起きてるんだよな?」
ルイは不思議そうに、確かめるように訊いた。
侑は曖昧に頷いた。ポケットに押し込んだ携帯電話を取り出して、そっと確認する。SNSでは、誰かが政府庁舎の壁に火炎瓶を叩き付ける映像が、無数のアカウントから拡散され、リツイート数は十万を超えていた。
だが、現実はどうだ?
人々は何事もなかったかのように管理された平穏と、支配される安寧を享受している。ディスプレイの中では世界が燃えていたのに、この街は冷蔵庫の中みたいに静かだった。
安堵とも諦念とも付かない疲れが体を重くする。
倦怠感に巻かれながら、侑は肩を落とした。だが、同時に湊の言葉が脳裏を掠めた。
——むしろ、これから真実が作られていくんだと思う。
嫌な予感がする。まるで、南の空に発達する積乱雲を見ているような、火の点いた導火線を眺めているような、足元を炙るような焦燥感だった。
本当に、起きていないのか?
それとも、ここが異常なのか?
もしこの映像が現実なら、何故この街は沈黙している?
隣でルイが、気の抜けた声で言った。
「じゃあ、俺のデマなんて誰も信じていなかったってこと?」
ルイはいつものように軽く笑っていたが、その声音には落胆が滲んでいた。そして、僅かに揺れた目元は、何処か傷付いたように見えた。
答えは喉まで出掛かった。
だが、言葉にしてはいけない気がした。
それを言葉にした瞬間、彼の笑顔が完全に崩れてしまいそうで。
「さあな」
侑はそう吐き捨てて、背中を向けた。
晴れ渡った青空に、無数の監視ドローンが冷たく旋回している。その無機質な羽音が、街の静けさを切り裂くように響いた。彼等の視線は、逃れようのない獲物をじっと見据えているようだった。