第2話
とあるマンションの一室。
古びた換気扇がぎこちなく回り、カタカタと音を立てている。見れば、インスタント食品や生活用品のゴミで足の踏み場はなく、辛うじてソファの上だけが片付いている――あるいは、いつのものか分からない洗濯物を敷物と見做しても良いならば、座ることができる――といった様相を呈していた。
「……、流石に片付けますか」
「ンだな」
「あなたもやるんですよ」
「ええーッ」
そこは、いわゆるアジトのひとつであった。
積み上げられた宅配ピザの箱を畳みながら、明は奇声を上げる氷雨を足蹴にした。ぎゃんと短く鳴き声を上げながら倒れた氷雨は、しばらくの間散らかった床に五体投地で転がっていたが、明が意にも介さないことを悟ると大人しく起き上がって片付けを開始した。
「さっきの話だけどさァ」
放置されたまま踏み潰され、ぐしゃりと潰れた空のティッシュ箱を畳み直しながら、氷雨は切り出した。
「マジで辞めるわけ? 殺し屋」
「冗談に聞こえていたなら謝りますが。私としては至って真剣なつもりですよ」
「飽きたつってたけど、飽きるも何もねーだろ? 人を殺すのにさァ」
「それはあなたの――氷雨さんの趣味だからでしょう。私は単に、割の良い仕事だからやっていただけですよ」
「ならなんでその割の良い仕事を辞めちまうのさ。普通に働いたんじゃこんなに稼げやしないだろ」
「それは、そうですけど。別に人を殺さなくたって、食うに困らない暮らしはできるでしょう」
「なんだよ、急に慈しみの心にでも目覚めちまったか? 人を殺してはいけませんー、つって。きひひ」
小馬鹿にするような氷雨の物言いに、明は短くため息を吐いて答えとした。
「……はァ。まあ、理由はこの際なんだっていーけど。足洗うとなったら大変だぜ? アンタもアタシも、表舞台に戻るにゃ色んなコトを知りすぎてる。同業者のことも、掃除屋のことも、それ以外の闇の世界の事情もな」
「分かってますよ」
「ホントかよ」
即答する明に対して、今度は氷雨が嘆息する。
「全員が消しに来る、ってことだぜ」
いつ空になったのか分からないペットボトルが潰される音がする。封じ込められていた古い匂いが噴き出して、明が咽せる。
「アタシらが消してきたのと同じように、だ」
殺し屋は依頼によって動く。当然、今の明と同じように表舞台へ戻ろうとする人間を消すこともあった。それだけ闇の世界の住人は、自分達の存在が陽の目を浴びることを恐れている。あるいは、自分達の存在が公になることで、その程度の情報統制しかできないと無能を晒すことになるのを憂いているのかもしれない。
いずれにせよ。明が殺し屋を辞めると知れれば、そういった圧力が掛かるのは避けられないはずだ。
「もしかして、心配してくれてるんですか?」
「ああ? おぁ……、ぅん、まあな」
氷雨は曖昧に返事をした。
明はそれを鼻で笑うと、柔らかい素材のペットボトルを捻り上げながら言った。
「それこそナントカの心に目覚めた、というお話ですか? ありがたくはありますが、引き留めないでくれる方がもっと嬉しいですね」
「チッ……、話の通じねえ女だなァ。アンタみたいな貧弱綾取り女なんざ、この世界じゃ一瞬で消されちまうっつってんだよ。そこまで考えナシなヤツと組んでたなんてアタシは――」
自分の語気が強くなっていることに気付いたのか、氷雨はそこで一旦言葉を切った。それから大きな溜息を吐いて大きく肩を落とすと、続けた。
「――もうイイや、一旦この話は置いとこうぜ。くだらねー話をしながらじゃ、綺麗なフローリングと再会する前に日が暮れちまう。余計なお喋りは止めにして、このゴミ連中を片付けちまおう」
「あなたが先に始めた話だったと思いますが、後半については同意します。氷雨さんが私の考えをよく思ってないことも……、一応、頭の隅には置いておきますよ。片付けが終わったら適当にご飯でも頼んで、それから話しましょう」
片付け自体はその後順調に進んだものの、結局その日、この話の続きが為されることはなかった。単純に忘れていたのか、互いに言及を避けていたのかは、誰にも分からない。
翌日、ふたりは揃ってある建物へと向かっていた。
一見すると普通の――それも空きフロアの多い寂れた雑居ビルだ。古臭くて狭いエレベータのボタンを押すと、それは本来止まらないはずの空きフロアで停止した。
がたんと無用に大きな音を立てながらドアが開くと、ふたりを出迎えるように声が響いた。
「やーあ、今日もお揃いで」
ぼろぼろでだだっ広いフロアのド真ん中に、フリーマーケットのように敷き布を引いた女がいた。じゃらじゃらと髪に括ったアクセサリーを鳴らしながら、フロアに足を踏み入れたふたりを歓迎する。
彼女は〝機関〟に認められた仕事の仲介人で、殺し屋や掃除屋に仕事の斡旋を行っている。
「悪ィかよいつもひっついてちゃ」
「なっはは、別にそうは言ってないさ。ほらほら、昨日の仕事についてだけどさ、先方から追加で報酬が出てるよ。いつもの口座に入れといたからね。勿論、ぼくの取り分はさっ引かせてもらってるけど!」
「……、ありがとうございます」
仲介人の言葉を無視して、明は短く礼を言った。仲介人の方もそんな態度は気にも留めず、てきぱきとファイルをめくり始めた。
「それで、次の仕事はどういうのがいいかな? 今回みたいなチンピラのいがみ合いに介入するのもまだまだあるし、要人の暗殺なんてのも舞い込んできてる。詳しくは契約してくれないと話せないけど、ここだけの話、かなーりの報酬が見込めるよお」
「次の仕事のお話は結構です。私、この仕事を最後に――」
「――最後に、ちょっと休暇に入るんだよな!?」
迂闊にも口を滑らせた明の言葉に割り込むようにして、氷雨が大声を上げた。仲介人は突然の声量に肩を跳ねさせたが、彼女は笑って流した。
「休暇かい? まあそれも良いかもねえ。実入りの多い商売だ、多少のバカンスくらいならいつでも取れるのが羨ましいよ」
「仲介人の姉さんの方はどうなのさ。さんざアタシらの取り分から持っていって、さぞ儲かってんだろ?」
「んはは、冗談キツいなあ。あんまり中抜きすると〝機関〟の先生方に怒られちゃうんだから。こうして細々と真面目に仕事をやるだけだよお」
「ホントかねェ」
へらへらと笑う仲介人を、氷雨は眉をひそめて一瞥した。
「ま、そーいうワケなんで、しばらくは他の連中に回してやってくれよ」
「委細承知。休暇を楽しんでおいでよ」
そう言うと仲介人はファイルを畳み、ゆらゆらと手を振ってふたりを見送った。
頼りないエレベータにふたりが乗り込むのを見届けると、緩んだ笑みは彼女の表情から消えた。
「んふ、休暇は良いねえ。しかしふたりきりってのも勿体ない――〝お友達〟にも連絡してあげようかな?」