世の中そんなに甘くない
「聖庭に御座す我らが神、ユーフィリエよ 我らの祈りをお許し下さい 主より賜りし水と空気の恩恵をお返し致します そして願わくば、主の恩情を賜らんことを 奇跡の一端を、ここに」
詠唱と共に桶の中の水が渦を巻き始める。
数秒の後に、竜巻状に立ち登る様を見てパンッと手を叩く。
「はい、いいわよ。発動時間が遅いけど」
「くそっ……」
桶の中に、パシャンと音を立て水が戻るところを、ヴァイスは恨めしげに見ていた。
「略式は圧倒的に早いのにねぇ。何でちゃんと詠唱すると、途端に普通の祈士より遅くなるのかしら」
「だぁーっ! くそっ! もう一回だ!」
頭を掻き回しながらそう叫んだヴァイスは、もう一度胸の前で手を組んで、詠唱を始める。
ここ暫く、ヴァイスの祈術の練習に付き合うようになってわかったことだけど、ヴァイスって卑屈な割には、結構負けず嫌いなとこあるんだよね。
というか、何だかんだともう暫くって言えるくらい経ってるんだ。
少し離れた所で、ヴァイスの作り出した、小さな水の竜巻を眺めながらぼんやりとそんなことを思う。
──野心の強い質屋店主のウィンドールとユーリアの実のお陰で、私たちの『仕事』は順調だった。
冥窟付近を探索し、ゲーリの実を少量だけ採取しつつ、生息地域をマッピング。私とヴァイスでユーリアの実に仕立て、質屋へ卸している。
現時点でもゲーリの実は思っていた以上に生息していそうだが、全て天然もの量産出来る手立てもない。大量に卸すと、希少性まで失ってしまうし。そのため、ユーリアの実は二週間に一度程度の間隔で、籠いっぱいの量を卸していた。
少ないようにも思えるが、一回の取引でもリーガ大貨三百枚以上が手元に入る。参考までに、城勤めの兵士の初任給は大体リーガ大貨十七枚くらい。
お金は幾らあってもいいけれど、急いではいない。これはあくまで最初の軍資金集め。ユーリアの実一本で稼ぐわけではなく、ゆくゆくは他の商売にも手を出したいと思っている。じっくり時間をかけて稼ぐつもりだ。
何せ最終目標は、あのエルヴィス。私に知恵と知識を授けた男は、信じられないくらいに頭が回るのだ。準備は入念にし過ぎるくらいしても足りない。今は焦らず、商売をしながら中央の情勢を探る程度に留めている。
「あー、そういや」
やはり発動までに数秒かかるヴァイスが、一旦休憩とばかりにその場に座り込み、ふと何かを思い出したかのか顔を上げる。
「昨日エイガのとこに顔出した時、アンタと話がしたいから時間がある時に顔出せって」
「情報?」
「あぁ、それ程大したことじゃないらしいから気が向いた時で良いって」
「わかったわ」
頷いて、あまり気は乗らないが、明日辺りにでも顔を出そうと決める。
こんな冥窟近くで商売しているにも関わらず、何故か中央の情勢の機微に詳しい、あの胡散臭い商人の顔を思い出して、こっそり溜め息をつく。
癖は強いし、油断していると何気ない会話から無償で情報を抜きかねないので、話していて疲れるのだ。まぁ、腕利きなのは確かなのだけれど……。
これは情報も売っているというエイガから真っ先に得た情報だが、幸いにも、神子(私)が返戻の旅を終えてからそれ程時間が経っているわけではないらしい。一度死んで元の姿で生き返った(?)身なので、実は何十年も時間が過ぎててエルヴィスもとっくに死んでました。とかいうオチだったらどうしよう、と考えたこともあったので本当に良かった。相手がいなければ私の目的は果たせない。
そして案の定だが、やはり神子は異界に帰ったことになっているらしい。『金髪金目の、女神を彷彿とさせる大変麗しい神子様でしたので、同行した皇子様辺りと結婚して、ずっとこの国に居て下されば良かったのに。皇族のゴシップはよく売れるんですよぉ』などと嘯くエイガに、曖昧に笑うことしか出来なかったのをよく覚えている。
今は返戻の旅により大きな淀みは浄化され、大きな事件も災害もなく、国全体で平和な時間が続いているのだそうだ。色々と思うことがないわけでもないが、ひとまず飲み下している。
ともあれ、神子でなくなった今、考えるべきは自身の目的のみで良いのだ。ユーリアの実の生成、販売に腰を据えていることもあり、金を貯めながらも、懐も心も余裕のある生活を送ることが出来ていた。
「よしっ、続きだ」
「粘るわねぇ。因みにさっきから段々発動遅くなってるわよ」
「げっ、マジかよ」
「はい、集中集中」
少し休憩して、再び練習を再開するヴァイスに声をかけつつ、ゆっくりと雲が流れていく青空を見上げた。
こんなにのんびりと日々を過ごせるのは、この世界に来て以来初めてと言って良い。
神子として駆け抜けた三年は、その殆どが勉強と旅に費やされ、城に暫く滞在する時期は社交の嵐。実に慌ただしかったように思う。
三兄弟の方も暖かい食事に清潔な服、ぐっすり眠れる寝床を確保出来ているので、みるみる健康そうな見目に変化している。ラオに関しては毎夜の大量の飲酒で健康を通り越して腹も出てきたような気がするので、そろそろ注意せねばならないが。
出会いこそ散々だったものの、毎日新しいことをしたり、見聞きする三兄弟は楽しいそうだった。厳つい顔に似合わない輝く瞳であちこち見ては、賑やかに笑う彼らの姿を見るのは、存外悪くない。
ヴァイスも、ユーリアの実を生成したり、祈術を教えたり、共に過ごす時間が多いからか、あれだけ強かった警戒心も最近は薄れてきているらしく、私への態度も軟化しつつあった
穏やかな日々だった。
エルヴィスへの言いようのない感情と薄暗い炎は、胸の内で燃え続けている。
けれど、順風満帆といっても良い滑り出しに満足し、油断していた……そう言われても、仕方ない程度には、気が緩んでいたのかもしれない。
何度でも繰り返そう。世の中そんなに甘くない。うまい話には裏がある。
大きなことを成し遂げた時こそ油断してはならない。
それは、嫌というほど骨身に沁みていたはずなのに──愚かにも、私はまた、その過ちを犯してしまったのである。
***
「うーん……やっぱり駄目だ」
小綺麗な宿の裏手。昨日ヴァイスと祈術の練習をしていた場所よりも、少し奥。人気のない森の中で、私は首を傾げていた。
元の姿に戻ると同時に何故か冥徒になってしまった私は、その力について知っておこうと思い立ち、こうして時間のある時に、人気のない場所で冥術の練習をしているのだが……結果は芳しくない。
冥徒は神に返戻をせず、恩恵をそのまま消費しきって術を行使する、卑しき者。
しかし、言ってしまえば、祈術との差は、返戻をするかしないかくらいで、力の源は変わらない。
祈術の感覚を覚えているので、なんとかなるのではと、思っていたが、どうやらその考えは甘かったらしい。ヴァイスに祈術の基礎を教えていた際に、恩恵の感知すら出来なくなっていた時点で気付くべきだった。
「恩恵が感じられないから、冥術もくそもない……!」
そう嘆きながら拳を強く握り、目を瞑るが、やはり恩恵の色が見えることはなく。匂いでも、肌でも、音でも、あらゆる感覚を研ぎ澄ませても、これっぽっちもそれらしいものは感じられない。完全にお手上げだった。
……ザガンたちに襲われそうになったあの時、床を腐らせ彼らの体調に異変を来したあの炎は、一体何だったんだろう。
ゲーリの実に触れることで、冥力を吸い出すことは簡単に出来るのに。いや、どちらも無意識に行っているという点では、同じかもしれない。
けれど、あの力を恐れたからこそ、あの三兄弟は素性の知れない怪しい小娘である私に、大人しく従っている状態なのだ。もし、私が冥術を意識的に使うことが出来ないと知られたら、どうなるかわからない。
特にヴァイスは、守るべきもののためならば、何だって出来るタイプの人間だろう。ヴァイスが私の元を離れれば、他の二人も罪悪感に駆られつつも、きっと最終的にはヴァイスに着いていくだろう。三兄弟のことは抜きにしても、いざという時に冥術が使えなければ、非力な私に為す術はない。
困った。友好的な人間の冥徒とか、この辺に住んでたりしないかな。金は出すので、それで冥術を教えてくれないかな。まぁ無理だろうなぁ……。
神話での言い伝えもあり、祈士が国の中枢に数多く存在するこの国で、その対極の存在である冥徒は、忌み嫌われている存在だ。祈士は祈りを必要とするためか、ごく一部を除き人間しか存在しないが、冥徒はその限りではない。冥術を行使する生物の中には、獰猛な獣や危険な植物も存在する。非常に残念なことだが、人間の冥徒はそれらと同じ害獣同然の扱いされている。
その人がどういう人となりであるかは関係ない。ただ、冥徒として力を持って生まれた。たっただけで、一生人間として扱われることがない。
それ故、人間の冥徒は、殆んどが人里離れた場所でひっそりと隠れるように暮らしているらしい。教えを乞うのは絶望的だろう。
……そして、そのような存在に私もなってしまった。脅すような形になったとは言え、冥徒と知っていながら、私を普通の人間として扱う三兄弟の方が変わり者なのだ。冥術さえ使わなければ(というか意識的に使えないのだが)、冥徒とバレることがないのが唯一の救いである。
ここで恩恵を知覚しようと念じていても、特に収穫を得られないだろう。そう判断して踵を返そうとした時だった。
「おぉ、こちらに居られましたか」
聞き覚えのある猫なで声に、そちらを見やれば、茶髪の中年男性とその護衛らしき大柄な男が歩いてきていた。
「あら、ウィンドール様ではありませんか。ごきげんよう」
またか。げんなりと歪みそうな表情筋を抑え、気合いで令嬢スマイルを張り付ける。
そう、ユーリアの実の売人である、質屋の店主ウィンドールだ。
数ヵ月前までは小綺麗な身なりではあるものの、あくまで町民、少し羽振りの良い店の主といった見た目だったのに、なんということでしょう。派手派手しい服に指にはゴツい宝石の輝く指輪、そして数ヵ月前よりふくよかな腹。ザ・成金といった風貌に大変身だ。どうしてこうなった。
「探しましたよ。お嬢様はこうしてお目にかかるのが中々どうして難しい。ああ、いえいえ、非難しているわけではありませんよ。まさか、ははは。高貴な方でありながら、自ら動くことを厭わないその勤勉な精神は、一体どちらで培われたものかと深く感銘を受けておりまして。これほど聡明な才女は帝国中探しても居りますまい。私にも同じ年頃の娘が居りますが、お嬢様とは比べるべくもなく……。どのような教育を受ければこれ程の逸材となるのか、是非お嬢様のご両親に……」
「ウィンドール様、その辺りはユーフィリエの袖の下である、と申し上げたかと思いますが」
「ああ、申し訳ありません。つい」
笑顔で牽制すればあっさり引き下がるが、その目は油断なく私を観察している。一瞬でもボロを見せた瞬間に食らいついてきそうな、嫌な目だ。
どうかわすべきか頭を回転させ始めたところで、背後から草を踏む音がした。
「お……嬢様、準備が整いました。おや、ウィンドール様、ご機嫌如何ですか」
「……ええ、お陰様で」
買い物から帰ってきたヴァイスが、機転を利かせてくれたらしい。まだ若干のぎこちなさもありつつ、私の教えた通りの丁寧な物言いで、ウィンドールへ声をかければ、部が悪いと感じたのか静かになる。
「申し訳ありません、ウィンドール様。お嬢様はこれから用事がありまして。お急ぎの用件でなければ、また次の機会でもよろしいでしょうか?」
「ええ、たまたまお嬢様をお見かけしたので、つい声かけてしまっただけなのです。お気になさらず。……ところでご用事とは商談ですかな?」
「あらあら、うふふ。いけませんわ、ウィンドール様。これ以上はご勘弁なさって」
「ははは、申し訳ない。お嬢様は素晴らしい商才をお持ちですので、お嬢様の目に叶ったものは一体何であるのかと、つい興味が先行してしまい。これ以上引き留めても申し訳ない。それでは本日はこの辺りで。また次の機会を楽しみにしております」
「ええ、ご機嫌よう」
のしのしと大股で踵を返すウィンドールに続き、終始無言の護衛の男が、ちらりとこちらを一瞥してから去っていく。
……なーにがたまたま見かけたから声をかけた、だ。さっき「こちらに居られましたか」って言ってたくせに。
「……はぁ、ありがとうヴァイス。追加報酬はあとでね」
「毎度。しかしあいつ最近本当に露骨だな。大丈夫なのかあれ?」
「大丈夫か大丈夫じゃないかで言えば、全然大丈夫じゃない。あの人の野心の強さにつけこんだのはこっちだけど……強すぎるのも考えものね」
ため息をつきながら思い出すのは、ここ最近のウィンドールの言動だ。
最初こそ交渉成立しながらも、私の一見さんお断りシステムには半信半疑でいた彼は、そのシステムでの商談が上手くいったことに大喜びし、私にへこへこ頭を下げてご機嫌を伺ってきていたのだ。
が、彼の強い野心は、その感動や感謝を容易く凌駕してきたらしい。私たちを介さずにユーリアを手に入れられれば、更なる利益を得られると考えたのだろう。貴族の形をしながら、治安の良くないこの辺りで活動する私の素性や、ユーリアの生息地を特定しようと、かなり大胆に踏み込んで来るようになったのだ。
現状も相当な利益があるからか、牽制すればあっさり引き下がり、焦る様子がないのが余計に質が悪い。
「どうするんだ? 今のところ地の利で撒けてはいるが、ゲーリの実を採りに森に入るラオとザガンも尾行され始めてるぜ」
「……潮時かな。贅沢しなければお金は心配ないだろうし、次の取り引きが終わったら、離れた街に行って暫く雲隠れするわよ」
「了解、二人にも荷物纏めるよう言っておく」
安定した仕事と収入での、ゆったりした暮らしは気に入っていたのだけれど、背に腹はかえられないだろう。ほとぼりが冷めた頃に、また別の街で商売を始めれば良い。
何故なら、ラオとザガンがゲーリの実を収穫し、私とヴァイスが生成すれば、希少なユーリアの実は何処でだって売れるから。何度だってチャンスは有るのだと。
そう信じてやまなかった。
……無論、前述の通りこれはフラグというやつである。