そうして神子は死んだ③
「な、なぁ、そろそろいいかなぁ?」
「ば、バカ野郎寝てるんだぞ!? そんな真似出来るか! こういうのは起きるのを待ってだなぁ!」「落ちてた女を拾ってきてどうこうしようとしてる時点で非道だし、その調子じゃ起きたあともどうせ何も出来ないだろ」
「そ、そんなことないし! 出来るし!」
「見てろよ、ヴァイス。今服を……服……、……これ、どうなってんだ?」
「……はぁああ……知るか……」
……何だろう、凄まじく喧しい。
やいのやいのと騒ぐ声から少しでも距離を取ろうと、寝返りを打つ。
「う、動いた! ラオ兄ぃ!」
「お、おおお落ち着けザガン! 大丈夫だ、最初が肝心だぞ。こう、舐められないようにだな。強そうな顔をして……」
「いや、寝返り打っただけだろ」
本当に喧しい。大体誰なんだ。私の知り合いに、淑女の前でこんなに品のない喋り方をする男なんていな……い……。
「──生きてるぅ!?」
「どぅわっ!?」
「ひょあっ!?」
驚愕のままに、目をカッと見開いて飛び起きれば、傍で珍妙な悲鳴が上がった。気になりはしたけど、正直それどころじゃなかった。
ザっと周囲を確認する。見たこともない、どう控えめに表現しても随分年季の入った部屋……というか小屋? 所々外からの光が差し込んでいる木の壁は、雨風が凌げるかさえちょっと微妙だ。家具らしい家具はなく、木箱や籠が積み上がり、傍らには食べ物の残骸らしきなにかが転がっている。寝かされていた寝具も柔らかさなんて欠片もない、質の悪い茣蓙みたいなもので、素足に飛び出た繊維がチクチク刺さる。良い意味でも悪い意味でも、天国や地獄とはかけ離れていた。
え? 本当に生きてる? なんで? 聖庭の泉の中で溺れて、死んだはず。
信じられない気持ちで自分の身体をまさぐって、あれっと思った。何だか、感触が違う。ユーフィリエの写し身である私の身体は、顔だけじゃなく、細部に渡るまで女神の奇跡を受けた完璧な肢体だったのだ。幾ら食べても贅肉知らずのスレンダーなラインは消え失せ、なんかこう……ちょっと摘まめた。
でも、全く心当たりがないわけじゃない。極めつけには、服だ。何で気付かなかったんだろう。胸にある赤いスカーフと、黒のセーラー。懐かしい──元の世界で毎日身に着けていた、制服。
殆ど確信を持って、部屋の隅に鎮座している取っ手が欠けた水瓶に、猛然と駆け寄った。勢いに気圧されて、誰かが飛びのいたのを視界の端に捉えたが、構わず水瓶を覗き込む。
思ったよりずっと透き通った水面に映る、黒髪と茶色の目。険しい表情で低い鼻を興奮でひくつかせる、乙女としては色々アウトなその顔は──懐かしい、元の世界に居た頃の私。 志摩燈華が、両親から授かったままの姿だった。
「嘘……生きてる! 本当に生きてる!! てか戻ってる!!」
やったー!! 何でか知らないけど、とにかくお帰り! 懐かしの私の身体! 実家のような安心感! あの女神フォルム、確かに最高に綺麗だったけど、中身が自分だからなんだか居た堪れなくてしっくり来なかったんだよね。
誰もが振り返る麗しの乙女になってみて、漸く気付いた! 十八年以上付き合って来た自分の身体、最高!! もう「朝起きたら女優の顔になってないかな」なんて思わない!
「あー、ゴッホン!!」
自分で自分の身体を抱きしめ、飛び上がって喜んでいると、実にわざとらしい咳払いが聞こえた。
そういえば、誰か居た気がする。
「何でか喜んでるとこ悪いが、そろそろこっちを気にしてくれてもいいんじゃねぇか?」
「そうだそうだ! こう見えてラオ兄は繊細なんだぞ! 出鼻を挫かれた挙句視界にも入ってなくてちょっと泣きそうなんだ!」
「やめてやれザガン。お前の言葉のがよっぽどラオの涙腺に効いてる」
騒がしい声に導かれてそちらを見れば、薄汚れ草臥れた服を纏う、人相の悪い男が三人。さっき夢現に聞いてた喧しい声の主は、この人たちだったらしい。
まずい、いくら奇跡の生還&元の身体との感動の再会だったからって流石に色々と良くない。
「ご、ごめんなさい……、目を覚ましたばかりで気が動転していて。私を助けて下さった方々……? えーと、ありがとうございます」
「まさか冥窟近くに誰かが倒れてるとは思わなくて、流石に肝が冷えたぜ。見た感じ怪我はなさそうだったが、体調は……じゃねぇっ!!」
え、冥窟? 冥窟に私居たの? と聞き返そうとした時、何故か自分でノリツッコミをかました大柄でかなり屈強な男。びっくりした顔で見ていれば、後ろから、痩せた小柄な男……というか少年が、妙に芝居がかった仕草でしゃしゃり出てくる。
「やいやい、お前状況がわかってないみたいだな! 別におれたちはお前を助けてねぇ! 冥窟に捨てられてたから拾ったんだ! 拾ったから、おれたちのモンなんだ!」
「ん、んんん?」
何だか、雲行きが怪しい。もしかして……、と笑顔を渋いものを変えれば、中肉中背の男が呆れたようにため息をつく。
「あのなぁ、見ればわかるだろ。俺たちはろくな生活もできてない。冥窟近くに倒れてる見ず知らずの妙な女を、ただの善意で危険を冒してまで助けると思うか?」
「……思わない、わね……」
冥窟とは、冥の君が閉じ込められてる冥界に続くとされてる激ヤバスポットだ。その付近は冥の君の力に溢れ、自生してる植物も動物も凶悪なものばかり。一般人が近付くことはまずなく、皇帝の許可の下、実力ある祈士たちが稀に討伐に訪れるくらいだと言う。
ちなみに私が返戻の旅の最後に訪れ、そこを根城にしてた邪悪な竜を倒した場所でもある。 何だってそんな場所に、と思ったけれど、危険な場所には得てして、良からぬことを企む輩が潜りこむものである。つまり、そういうことだろう。
「売られるんですか、私」
「まぁ、そこの二人の気が済んだらそうな……」
「う、売るぅ!? ヴァイス、馬鹿言うんじゃねぇ! そんなユーフィリエ様に顔向け出来ねぇようなことするわけねぇだろ!」
「ヴァイ兄のひとでなし! ジオッガ! むっつり!」「最後はマジで関係ないだろ! お前らなぁ……!」
決して善人というわけじゃなさそうだけど、なんというか、気の抜ける三人組だった。
話を聞いてる限り、慰み者にされた挙句に売られるという、最悪のコンボ決められそうなのに、いまいち身の危険を感じない。強硬手段を取られるならこっちも手を出せるのに、どう行動するべきなのか決めかねて、考え込んでしまったのが良くなかった。
「あーもう面倒臭ぇ! ──返戻!」
祝詞だ、と認識する前に身体の力が抜ける。問答無用でその場に崩れ落ち、薄汚れた床に全身を強かに打った。痛みに蹲ろうとしても、身体に力が入らない。
これ、祈術だ。でも何で? 今、一節目しか唱えていないのに、どうして。
「俺は放っておけって言ったのに、お前らが拾うって言って聞かないから連れてきたんだ! やるならとっとと済ませ! 俺はこいつを売るのにエイガのとこで話をつけてくる。妙な慈悲はかけるんじゃねぇ。こいつを連れてきたせいで、ゲーリの実がまとも拾えなかったんだ。売らなきゃ飢え死ぬのは俺らだぞ。戻って来たら、終わってようがなかろうが売りに行くからな!」
「わ、わかったよ。悪かったって……」
大柄な男を怒鳴りつけて黙らせると、祈術で私の身の自由を奪った中肉中背の男が、倒れ伏す私の傍にしゃがみ込んだ。
「って、ことだ。悪いな。俺らみたいのには娯楽がないんだ。少しそいつらの相手してくれ。ろくに経験もないから、大人しくしてればそう酷いことはされねぇよ」
「ご、うい、なしに無体を働くこと自体、ひど、いんだけど」
「それはご尤も。運がなかったな」
「……あぁ、そう。──返戻」
多分、この男の祈術は大したことない。一節のみで祈術を繰り出したのは驚いたけど、早い分、脆い。現に私の身体は既に自由を取り戻し始めていた。
上手く回らない舌を必死で動かし、祝詞を紡げば、中肉中背の男はぎょっとして飛びのいた。
「なっ……祈士!?」
「あわわわわ! ラオ兄!!」
「ふ、伏せろ!」
「──聖庭に御座す我らが神、ユーフィリエよ 我らの祈りをお許し下さい 主より賜りし水と空気の恩恵をお返し致します そして願わくば、主の恩情を賜らんことを 奇跡の一端を、ここに」
水瓶の中身を細かい氷の刃のようにして彼らに飛ばし、牽制する。
そのはずだった。が。
あれ……?
シンと静まり返る小屋の中。祈術から身を守ろうと各々防御のポーズを取っていた三人も、不思議そうに顔を上げた。
……何も、起こらない。一拍置いて、頭の中も顔色も真っ白になった。
も、もしかして、私、祈術使えなくなってる──!?
よく考えてみれば、十分有り得ることだった。だって今の私はただの平凡な元の女子高生の姿。あの類稀な祈術の行使が可能だった、女神の写し身じゃない。祈術はこの世界に召喚された時に私自身が賜ったじゃなく、あの女神の写し身に付属していただけらしい。
つまり、平凡な女子高生の私に、今この状況を打開する策は何もない。
これ、詰んだ。
「な、なんだ? 何も起こらないじゃねぇか」
「ただのハッタリか……? まぁ、いい。ザガン」
「へ、へへ……驚かせやがって」
「やっ……めて! 来ないで!」
プリーツから伸びた足を舐めるような視線で辿られ、吐き気がした。にやついてるのに妙にギラギラした目に、本能的な嫌悪感が這い上がる。
ずりずりと後ろに後退りする度に、距離を詰められる。けれどそれは長続きすることはなく、背中が小屋の壁にぶつかって、ついに逃げ場を失った。
どうして、こんな目に。
生贄となり、溺れ死んだはずだった。実は生きていて、元の姿に戻っていたことを喜んだのも束の間、ならず者に無体を働かれた上で売られるなんて、こんな仕打ち、ある?
ねぇ、神様。ユーフィリエよ。元の世界と姿を奪われ、見知らぬ世界を救えと旅に出される理不尽にもめげず、貴女に尽くした私に、これ以上何を強いるの?
こんな事になるなら、生きていたことをぬか喜びしたくなかった。元の姿に戻りたくなかった。いっそ、希望など持たせず、あのまま仄暗く果てのない水の中で……。
伸ばされる薄汚れた手に、心が恐怖に支配されかけた、その時。
──怒れ、憎め。
──私を、呪え。
──お前に降りかかるあらゆる不幸の根源は、私にある。
頭の中で、声が響く。男の声だ。低く掠れた、嫌味なほど艶のある声。愛する人との幸せな未来を夢見てしまった私の心を、完膚なきまでに叩き壊した、あの時の声。
その屈辱を思い出して、唇を血の味と共に嚙み締めた。
……ああ、そうだ。そうだとも。怒っている。憎んでいる。元を正せば、全部、全部、私を裏切ったアンタのせいだ。
どういう因果か生きていて、でも、元の世界にも帰れていない。唯一戻る方法を知っていそうな相手から、贄として捧げられ捨てられた故に、その道すらも閉ざされた。頼れる相手も、居場所も、何もかもを、失った。
なら──私は、これからの人生、全てをかけて、エルヴィスに復讐してやる。
私を裏切って、心を踏みにじって、あの仄暗い水底へ突き落としたみたいに。どんな手を使ってでも、もう一度エルヴィスに辿り着いて、そこから蹴落とす。
お前が私のあらゆる不幸の根源だって言うなら、私もお前にとってのそれになってやる。私の足元でみっともなく膝をついて、許しを乞う様を、この目で見るまで。
──だから、こんなところで、こんなことで絶望なんか、してやらない。
怒りが燃える。ごうごうと、燃え盛る。胸の中で激しさを増したそれは全身に回り……ついには外へ溢れ出した。
「は……?」
「な、なんだこれ!?」
身体に炎が纏わり付く。私の感情を反映したような、黒に近い濁りきった禍々しい憎悪の色。
呆気に取られた男たちの前で、私の身体に触れる床が、みるみるうちに崩れて行く。腐り落ち、私の形にぽっかり穴を開けた床の下。ボロボロと風化していく小屋の土台らしき石の上で、ゆっくりと立ち上がる。
先ほどまで好色な目つきで私に迫っていた小柄な男が一度大きく痙攣し、ぐりんと白目を剥いて崩れ落ちた。大柄な男が殆ど悲鳴のように叫び、小柄な男に駆け寄る。
「ザガン!! おいザガン!! しっかりしろ!!」
「嘘だろ……! お前、冥徒か!!」
中肉中背の男が悍ましいものを見るような目つきでこちらを睨んだ。
冥徒? 冥徒って……私が?
身体を覆う、ドブの様な色をした炎を見詰めた。
──冥徒。冥の君の甘言に惑わされ、体内にその力を宿した、悪しき心の持ち主。
力を返戻することもなく、私欲のために消費しきる、卑しき化け物。祈士と対極を為す天敵。
どうして祈士の頂点たる存在である神子だった私に、そんな力が? 理由は皆目検討もつかないけれど、祈術が使えなくなった今……これは好都合だ。
沸点を優に越え、一周回って冷静さが戻ってくる。
男たちに目を向ければ、大柄な男が冗談みたいにびっしょりと全身を脂汗をしたたらせ、身体を激しく震わせながら立っていた。意識を失う寸前のようで、頭が振り子のように揺れ、焦点が合っていない。それでも既に倒れた小柄な男を庇うみたいに、腕を広げていた。
この人、今にも倒れそうなのに。私が恐ろしくて堪らないだろうに。それでも、絶対に引かないんだ。
……炎が、大きく揺らぐ。
「あ、ぐっ……、なぁ、きい、てくれ」
いつの間にか中肉中背の男が、足元で膝まづいていた。今にも吐きそうな真っ白な顔でえずきながら、それでも私に言う。
「……す、まない、本当に、悪かった。心から、謝罪する。金は、僅かだし、やれ、るものは、少ない。でも……俺に、出来、ることなら、なん、だってする。奴隷に、してもいいし、ころし、てもいい。だから、頼む。ふたりは、ころさ、ないでくれ。たの……む。家族、なんだ」
なんとか言い終えると、それが限界だったのか俯いて吐瀉し始める。
どうしてだろう。こんな風に、誰かに何かを真剣に懇願されたような気がする。胸を打つような悲壮さで、「どうか、頼む」と。
ぶるぶる痙攣する背中を見下ろしていると、身体の力を抜けた。同時に、濁った炎が幻のように掻き消える。
中肉中背の男が横に転がって、ヒューヒュー音を立てながら、喘ぐように懸命に呼吸していた。
徐に、ぐるりと辺りを見渡す。死屍累々の男たち。床に空いた腐った穴、男たちが垂れ流した諸々の饐えた匂い。……大惨事だった。
……待って。これ、本当に私がやったの?
心が漸く追い付いてきたのか、じわじわと自分のしでかした所業に戦慄した。
えっ、こ、こわっ!? 確かにめちゃくちゃ怖かったしこの人たちは許さないけど、なんか、怒り支配され過ぎでは? 今の私、絶対におかしかった。落ち着こう。とにかく、落ち着こう。
大きく深呼吸を繰り返し、動揺を静めたところでまず考えたのは『これからどうしよう』だった。
このまま出て行き、とりあえず治安の良さそうな町にでも行こうかと考えたけれど、先ほどここは冥窟の近くだと教えられた。外にはこの男たちと似たような、いや、比べ物にならないような犯罪者が山と存在する場所を、宛もなく彷徨くのはリスクが高過ぎる。
とりあえず、この人たちから情報を引き出そう。
意識どころか魂ごと手放してそうな男たちの方へ振り向けば、足元の中肉中背の男がびくりと大きく震えた。跳ねた背中に木箱がぶつかり、その上に雑に詰まれていた布袋から、拳ほどの大きさの楕円形の赤い実がころりと転がって来た。
何だか、見覚えがある実だった。少し記憶を探り、確信する。 うん、間違いない。
これは──使える。
「ねぇ」
「なっ、んだ」
声を掛ければ、中肉中背の男が上擦った声でぎこちなく返事をした。
「貴方祈士よね?」
「……祈術は多少使えるけど、祈士と言えるほどの力はない」
「でも使えるんだよね?」
「まぁ……」
「ろくな生活も出来てないんだっけ? そこの二人に、ご飯お腹一杯食べさせてやりたくない? 温かい寝床で寝たくない? ……さっきなんでもするって言ったわよね?」
「……アンタ、俺に何をさせる気だ」
自分で奴隷にでもなんでもなるって言ったのに、思いっきり不気味そうな顔で引かれた。
世界を救う神子として、ずっと好意的な反応ばかりされて来たので、こうしたネガティブな目で見られるのは初めてで、少し新鮮だった。
でも、私はもう神子じゃない。
特別な返戻の力はなければ、祈術は使えないし、美しい容姿もなく、頼れる仲間もいない。ただの志摩燈華で、お金もなければ居場所もない、ひとりぼっちの、世間から忌み嫌われる卑しき冥徒。 だからこそ、自由で。
だからこそ──何だって出来る。
私は出来るだけお淑やかに笑って、元の世界でのOKサインのように親指と人差し指で丸を作り……それを逆さまにひっくり返す。
「お金、欲しくない?」
なんにせよ、先立つものは金である。