そうして神子は死んだ②
こつりこつりと、一定のリズムと共に、体が揺れていた。
少し肌寒くて、近くにある熱にすり寄れば。ふっと呼気で笑った気配がした。何だろう、覚えがある。ずっと小さい頃、外遊びではしゃぎ倒し、疲れ果ててうつらうつらとしている私を、お父さんが抱きかかえて家に帰る。世界一安心出来る人の腕で、全身を預ける心地よさが大好きだった。眠くなくても眠いフリをして何度となく、お父さんに自分を抱えて帰るようにせがんだのだ。
「……父、か。お前はこのように無防備に父に甘えられるような環境で育ったのだな」
「……え」
お父さんとは似ても似つかない、けれど聞き覚えのある声に、はっきりと意識が覚醒する。ばちりと交差した視線。間近にある星色に、それまでの記憶が一気に蘇った。
「ちょっ、何して……!」
「放していいのなら放すが。幾つも痣を作る羽目になっても構わないか?」
直近に受けた暴挙を思い出し、腕から逃れようと藻掻いたところを、エルヴィスに抱き直される。周囲に目をやって、唖然とした。
祭壇じゃない。先程までの広い石造りの講堂とは打って変わって、然程広さのない階段だった。城の居住スペースの廊下よりも、よっぽど狭い。ルーカスがいれば、天井に頭がすれすれかもしれない。横幅だって大人が二人並んだら窮屈に思うだろう。
だが、やけに明るい。窓も蝋燭もないのに、不自然に明るい場所だった。空間全てが温かみのあるベージュ色で構成されていたが、一体どんな材質で出来ているのか、皆目見当も付かない。ここ、何処?
「祭壇の奥にある、聖庭へ通じる道だ」
「は? 聖庭?」
聖庭って、あの聖庭? 唯一神ユーフィリエが御座す、神の庭のこと言ってる?
知識として知ってはいるけど、あるのかどうかすら定かじゃないファンタジースポットの名前出されて、(そもそもこの世界自体ファンタジーなんだけど、それはそれとして)目を白黒させると、若干憐れみを乗せた視線を頂く。
「お前をユーフィリエの下へお返しすると言った。御前に赴くのは当然だろう」
そんな当然は知らない。というか、あるの? 実在の地として、聖庭が? 初耳だ。
ユーフィリエにお返しというのは比喩で、こう、あの祭壇の上で剣でバサーッとか、祈術で生命力を吸い取るとか、そういう感じだと思っていたのに。まさか本当に神の御前に連れていかれるとは。
「まだ寝ぼけているのか? あのまま暴れられても面倒ゆえ、意識を奪ったが、早計だったか。……ああ、口付けで意識を失ったのではない。祈術だ。だが、酸欠になりかけていたのは事実。口付けの際には鼻で息をするように」
「降ろせ変態」
胸を強くぶっ叩けば、恭しい仕草で降ろされる。今までこの男には、祈術を始めこの世界の常識やマナーやら色々教え込まれてきたけれど、これほど下世話で最悪なレクチャーはなかった。怒りのままに歩きにくいヒールを足から引き剝がし、裸足で階段を降り始めると、背中に視線を感じた。
「何。無作法だとでも?」
「今更だろう。聖域へ通ずるこの道へ足を踏み入れられるのは、今代では私と──あとは、贄となる神子の資格を持つ者のみだ。好きにすれば良い」
神子たち。私の前に人身御供となっていった彼女らは、一体何を思いながら、自分の死へ続くこの階段を下ったのだろうか。
口振りからして、その内何人かの神子を既に見送っているのだろう男は、それを何とも思っていなさそうな声で続ける。
「少々意外だった。あれほど壮絶に私を呪ったわりに、口調はともかくやけに従順だと。起きれば烈火の如く怒り、抵抗するものとばかり」
「勝算がない限りは、なるべく無駄な体力は使わず温存するように、と教えてくれた先生がいるもので」
「ふっ、それは素晴らしい。是非その師とやらの顔が見たいものだ」
私に手ずから、様々な知恵と知識を授けた張本人が、どの口で言ってるんだ。
これ見よがしに大きくため息をついてやるが、エルヴィスはどこ吹く風とばかりに涼しい顔だ。
ぺたぺたと素足で踏む階段は、ほんのり暖かくてざらざらした質感だった。何で出来てるんだろう。ヒールを脱いだお蔭で大分歩くのが楽にはなったけれど、この階段、それなりに傾斜があった。閉塞感が強くて、おまけにまるで終わりが見えない。暫くすれば、身体的にも、精神的にも段々と疲弊してきた。
一体いつまで、歩き続けるのか。
下れば下るほど、じりじりと膨らんで行く圧迫感と戦ってどれくらい経っただろうか。一向に先の見えない階段の途中、唐突にエルヴィスが言った。
「着いたぞ」
「え? 何言って……」
階段だと思って一歩踏み出したその先に、段差はなかった。
素足はいつの間にか、暖かく湿った草を踏んでいる。導かれるようにして、顔を上げた。
──楽園が、そこにあった。
夜明けのような、夕暮れのような、神秘的な空の下、そよそよと心地の良い風が吹き抜けるそこには、見渡す限りの草原が広がっていた。見たこともない色とりどりの草花は、その表面に光沢があった。周囲をふよふよ漂う蛍のような白い光を反射して宝石のように艶めく。表現しようのない気持ちが胸の奥から溢れる。自然と涙が零れてしまいそうな、途方もない美しさだった。こんなに美しい光景は初めて見たはずなのに、帰って来たと何故か思った。
「聖庭……」
ここが、神の御座す場所。
『──神子』
声ではなかった。鈴のような、水滴が水面を叩くような、心地よい高い音。それが鼓膜を震わせると、私の脳は誰かに話しかけられたのだと判断した。
「あ……」
何故だろう。懐かしくて、泣きたくなった。
『務めを果たしたのですね。良く励みました』
そっと頭を撫でられた気がして、ぽろりと涙を零しながら、ゆっくりと瞬く。いつの間にか、誰かが立っていた。
金の髪に金の瞳。白い布を体に纏う、今の私とよく似た容貌の、正しくこの世のものではない、絶世の美女。
ああ、知っている。よく知っているとも。だって、この方は──。
「ユーフィリエ……」
彼女は──唯一神ユーフィリエは、ゆったりとした仕草で頷いた。
『疲れたでしょう。そろそろ休みなさい』
両腕を広げられて、ふらふらと歩み寄る。
疲れた。うん、疲れたよ。だって、ずっと頑張ってた。
返戻の旅とそれに関わる仕事は、決して楽じゃなかった。知らない文化や馴染みのない知識を勉強し、社交の場で知らない人に愛想笑いして、知らない土地を巡り続ける。
試練は用意されていたかのように上手くいきすぎたし、身の危険もそう多くなかったけど、心は張り詰めてた。そのうちそんな生活に馴染んで、仲の良い人と笑い合えるくらいには余裕も出来たけど、その人たちに裏切られてしまったし。
孤独だった。元の世界とユーフィリエを求める寂しさは、いつだって消えなかった。
『おいで、神子。わたくしの可愛い子供。さぁ、母の下でお眠りなさい』
「はい……」
腕を伸ばす。あと一歩、ずっと求めてた安らかな休息がそこにある。
「──燈華」
唐突に、力強く腰を攫われた。どうして邪魔するんだ、こんなに疲れてるのに。
顔を顰めながら振り返り、男を見上げて、
「……え?」
待って、なに、今の。お母様って……なに?
どっと心臓が大きく脈打ち、一気に血が体内を巡りだす。膝が笑って、震えが止まらない。
違う、違う。私の故郷はこんな夢みたいな楽園じゃない。
私のお母さんは、このひとなんかじゃ、ない。
『エルヴィス、困った子。どうして神子に意地悪をするのです?』
頬に手を当てて、おっとりと首を傾げるユーフィリエに、エルヴィスは片膝をついた。右手を胸に当てるその仕草は、帝国の最敬礼だ。
「主よ、非礼を深くお詫び申し上げる。僭越ながら、此度の神子は真実を求める御方。例え主の恩情であったとしても、伏せたまま主に腕に抱かれることを、最も厭うかと」
『しかし、わたくしの下で眠ることは、人の心を持つ神子にとっては少なからず恐怖を伴うのでしょう? 恐怖や嫌悪は、交合を妨げます。最初から負の感情のみを取り除いてから召すのが理想ではありますが、少し難しいのです。人はとても脆いので』
争いを憂う清らかな乙女のような顔をして紡がれた、声なき言葉に、総毛立った。
ここの神様って、元の世界よりもよっぽど人間に優しくて、祈れば実際に恩恵を賜れる分、とても親切な存在だと思っていた。
けど、それは大きな誤りだ。人のような見た目であっても人ではない。親切とか、人間に優しいとか、そういうことじゃないのだ。考え方も何もかもが、根本から違う。強大な力を持ったナニカなんだ。
そんな存在を母と認識していた異様さに、改めて恐怖した。
動揺を誤魔化そうと、綺麗すぎる周囲を見回す。そこで、漸く気付いた。
いつの間にか、仄暗い泉の淵に立っている。草原の中に唐突にぽっかり空いた穴の中、並々と満たされた水は、限りなく澄んでいるのに全く底が見えない。
直感的に悟る。
……死だ。この泉は、死、そのもの。
神子たちは、ここで身を捧げてるんだ。エルヴィスに止められなければ、今頃ユーフィリエに抱かれ、あの泉に沈んでいったのだろう。
ああ、確かにユーフィリエの言う通り、エルヴィスは意地が悪い。あのままユーフィリエを母と認識し、ふわふわと曖昧な意識の中で泉に沈むことが出来たら、きっと最期まで幸せな気持ちのまま、苦しむことなく逝けたのだろう。
……でも、例え最期まで幸せだとしても、苦しまずに済んでも。本当の家族のことを忘れ、違うナニカを母と思い込んだまま死ぬ方が、ずっと嫌だ。
「怖いか、神子」
エルヴィスに、宥めるように背を撫でられた。
話がついたのか、ユーフィリエは嫋やかに微笑んだまま、黙ってこちらを見ている。
「怖いかって? 恐怖を感じないように心を弄る神の恩情を奪って、正気のまま自殺するようお膳立てしたアンタが、そういうこと言う?」
不自然に凪いだ水面を見詰めながら、平静を装って詰ったけど、駄目だ、膝が笑っている。
畜生、最悪だ。苦しんで死ぬことを理解した上で、自ら飛び込まないといけないなんて。あのまま沈むのは勿論御免だったけど、それはそれとしてだ! なんて酷い師だ。思考の停滞は罪だと常々言われていたけれど、まさか最期の最期まで、無慈悲な現実から目を逸らすことも許してくれないなんて。まさに残虐非道。人でなしの冷血皇子!
「安心しろ。お前に自死はさせぬ」
「え?」
どういう意味かと問う前に、背中に衝撃が走る。
あれ、なんでこんなに水面が近づいて──。
ダポンッと、重く湿った音がして、身体が冷たい何かに包まれた。
目が沁みる。何がなんだかよくわからない。え……、え?
多少ヒリヒリするけれど、少しして慣れてきた私の目に飛び込んできたのは、長い金髪が揺らめき、大小様々な気泡が上がって行く、ちょっと見蕩れちゃうような光景だった。その向こう側、水面に星がふたつ。いや、違う。あれはエルヴィスだ。感情が抜け落ちた恐ろしく冷たい美貌が、ゆっくりと遠ざかって行く。
待って。ちょっと待って欲しい。まさか、アイツ……私のこと泉に突き落としやがった!?
何が起きたのか理解すると同時に、状況にそぐわないような、火山の如き怒りが一気に吹き上がる。
ふっざけんな!! 噓でしょ!? こんなのって有り得ない! まだ心の準備さえ出来てなかったし、感傷にだって浸れてないのに! 仲が良かったかどうかは別として、この世界に来てから一番過ごした時間は長いし、先生だったし、恋愛らしい雰囲気になったりもした仲だし、さっきだって結婚式紛いのことをして初めてのキスまで奪われたし、色々気遣いらしきものまで見せてしてくれたし、何かしら思うところはあるのかなって若干期待なんかもしちゃったし、「実は贄にするには少し惜しいと思ってる」的な別れの言葉をしんみり交わしたりとかさぁ!? なんか、こう、あって然るべきでしょ!? 世界のために身を捧げる乙女を問答無用で突き落とすか普通!? 馬鹿なの!?
死の瀬戸際だというのに、しおらしく感傷に浸ることすら許されない程の、苛烈な怒りだった。今から泳いで上がり、一発ひっ叩いてやりたかったけれど、どうしてか重りがついてるみたいに身体がどんどん沈んで行く。手足が水を無意味に掻き、心まで侵されそうな冷たさの水が、口に侵入してくるだけだった。
唇からまろび出た気泡が上へ上へと登って行く。最早、水面すら見えなかった。底があるのかもわからない、暗い水の中、沈み続ける。
肺に空気の代わりに水が満たされる。苦しいなんてものじゃない。溺れるって、こんなにも辛いのか。
脳が空気を欲して、狂いそう。でも、私にはその地獄の苦しみ以上に煮えたぎる、激情があった。
許せない、許せない! 例え私が生まれ変わろうが、例えなんか悲しい背景が実はあったりしようが、例え世界が滅んだって、本当に、もう、何があっても──エルヴィスを、絶対に許さない!!
死の苦痛すら凌駕する激しい感情を胸に沈んで行く。意識は薄れていくのに、鮮烈な胸の中の炎は、ごうごうとより激しさを増しているような気さえした。
***
なんと、このようなことが二度も起こるとは。
神の恩恵より余程、奇跡と呼ぶにふさわしい。
おなごの情念の、なんと恐ろしいものよ。
嗚呼、すまない。其方は辛かろうに。知らぬまま必死に生を燃やす其方に、セルカの種を託してしまった。
全ては私に責がある。私は罪を犯した。償おうとしても償いきれぬ大罪だ。
言い訳はせぬ。その上で、見事セルカを花開かせた其方に、私の罪の始末を科す。
その脅威とも言えるほどの苛烈な意志と、執念ならば、或いは。
すまない。どのような糾弾も誹りも受け入れる。
だが、頼む。どうか。
祈り願われる立場にある我らに、救いの手が差し伸べられることなど、ありはしないのだ。
なればこそ、其方に願う。どうか、どうか、彼女を──。