靴磨きから始まる下剋上
当たり前のことながら使用人を雇っている貴族などは、普段着にはシワ一つなく、靴にも汚れ一つ見当たらない。
エレノワールはまず、よく訪れる店で、軽い話題として噂を流す事にした。
意外にもエレノワールは、街ではそこそこ可愛がられている。
それは彼女が愛らしい姿であるというのももちろんあるが、何より常に清潔な状態を保っているため、孤児であると誰にも思われていない事。
そして何より彼女は人の好意を上手くつかむための術を、あの女の経験から熟知しており、それに合わせてこの世界特有の元高位貴族としての知識も利用することで、そこらの王族が用いる帝王学を鼻で笑うかのような結果を叩き出せていた。
噂といっても、その内容は変哲のないもの。
『貴族のステータスとは懐中時計に次いで、ピカピカに磨かれた革靴らしい』と。
実際、貴族の靴は使用人が丁寧に磨いているもの。
しかしそれをステータスだと思う貴族はおらず、むしろ〝当たり前〟の事である。
けれど貴族街に赴く事のない平民にとって、それが事実であるかどうかなどは分からない。
平民にとって、靴というものは簡単に汚れるモノである。
そこに気を使う事が『上流階級のお洒落である』といわれれば、たしかに納得してしまう説得力はあった。
◆◇◆◇
噂を流す以前から、エレノワール達は二つの植物を集めていた。
リーダーという立場を得た事で、いくら迂遠に見える命令であろうとも、のちに結果を出す、と宣言してみせれば、それにどんな意味があるのか分からなくとも、皆が信じて動いてくれるようになった事は、エレノワールにしてみれば大きな変化であった。
エレノワールからしてみればリーダーの立場がそうさせるものだと考えているが、実のところそれは彼女への信頼感からくる行動。
人一倍他者の感情に敏感なエレノワールであっても、自身に向けられるその親愛の感情を彼女は未だ理解出来ていなかった。
集める植物の二つのうち一つ。
アバタノキの種子から採取される油分は靴の汚れを落とす。
もう一つ、ロウヤシの葉を切り取り十日ほど天日干しした後、葉の表面からワックスを採取すれば、靴に光沢を与える事が出来る。
その二つの植物を使って、エレノワールは平民向けの靴磨きサービスを始めた。
孤児が表の世界でまっとうに仕事を始めようとしても、まず孤児であるという時点で見向きもされない。
大多数の人間が、〝孤児と対等な取り引き〟をするという事に忌避感を覚えるためだ。
しかし靴磨きは孤児が頭を下げて自分の靴を磨くため、孤児相手の商売だろうとそこに恥は生まれず、むしろ支配欲に似た高揚感さえ客に与える事ができる。
値段もあまり負担にならない中銅貨三枚程度から始める。
黒パンを二つか三つ買えるくらいだ。
エレノワール自身、靴磨きの仕事が仕事となるかは半ば賭けであり、実際に利益らしい利益が出るのもずっと後の事だと思っていた。
けれど、思いのほかエレノワールが撒いた影響力は大きかった。
噂の拡散力は高く、すぐに街中に伝播していき初動から繁盛することとなった。
それに便乗する形で、他の孤児や貧民層の住人達も真似ようとしていたが、二つの植物を使った道具を知らない結果、簡単な汚れを落とす事はできても、しっかり汚れを落として、靴に光沢を与える事は出来ないでいた。
そのため、靴磨きには当たり外れがあると平民達の間で話題になる。
どんな話であろうと話題になれば良いもので、更に靴磨きという新しい職業が広く周知されていく。
新たに現れた、貧民層の仕事である靴磨き。
その中でもエレノワールのグループの全員は靴をピカピカにすると話題で、皆が定期的な顧客を得る事が出来るようになった。
なによりエレノワールの魔法によってみなスラム在住とは思えない綺麗な格好であるのも良かった。
これによって全員が定期的な現金収入を得る事ができるようになったわけだ。
他にも副次的な効果として、靴磨きとはそれなりに時間が掛かり、磨かれている間、客は暇を持て余すもの。
そのため顧客とかわされる何気ない雑談は少しずつ増えていき、エレノワールのグループが常に晒されていた、街中での孤児へ向けられていた訝しげな視線は徐々に減りつつあった。
その雑談内容に関してもエレノワールの教育の元行われている。
そうして過ごしているとやはり、他のグループからは妬まれる。
なにせ彼らは靴磨きに便乗したのはいいものの、客達からは常にエレノワールグループと比べられるのだ。
順調に金を稼いでいる彼らに対する嫉妬は、子供ながらに単純な怒りへと発散されることとなる。
しかしそれに先んじる形で、物乞いで生活しているグループの代表であるミミという、ベンと同じ歳の十二歳の女の子に、エレノワールは既に接触していた。
周辺のグループに属さない孤児などの情報を上手く集めてもらったり、簡単な指示をこなしてもらって、その対価として小銅貨を与える。
彼女らとの接触回数が増えるほど、エレノワールはその行動を観察できる。
そうしてエレノワールの人心掌握術で少しずつ心を開かせたのち、依存させる。
最後には自身の傘下に入れば靴磨きのノウハウを提供する、と提案したことで無事に一つのグループを吸収することになった。
八人の男女のグループで、元々エレノワールを抜かした七人の窃盗グループと合わせて十五人。
ここいらではそこそこの大所帯のグループとなり、群れとはそれだけで他者からの攻撃を抑止できる。
靴磨き商売が早々に軌道に乗ったおかげで、既に全員分の食い扶持は充分確保出来るほどになっていた。
それでも現状は小銭稼ぎであるため、何かの歯車が狂えばすぐにこの安定はひっくり返る。
エレノワールとしてはどうにかして、はやく大きな商売に繋げ、所々腐り落ちている橋のようなギリギリの安定から、立派な石橋のような安定を得たいところであったが、そのための資金の確保の目処はつかないままで焦燥感だけが募っていく。
「なにかいい方法はないでしょうか……」
ダニロを中心としたグループが自衛の訓練をしている様を、エレノワールはぼーっと眺めながら考えていた。
ちなみに訓練の内容はエレノワールが直々に指導することもあるが、反復練習などの際はダニロが中心となって教えている形だ。
そんな日々を過ごしていると、ついにしびれを切らしたのか〝力で自身より弱いものから食料を奪うグループ〟である、そこのリーダーのダルクがグループ全員を連れて、エレノワール達のアジトに向かってきているとの情報が入った。
ニーナが靴磨きの帰り道に見かけたとの事。
鉢合わせにならないよう迂回して帰ってきたニーナの帰宅がグループでは最後で、ちょうど全員が揃う時間帯であった事が幸いであった。
新たに吸収したばかりの八人はみな青ざめた表情である。
それもそうだ。
彼女たちは犯罪をすることなく、なんとか街の住民の慈悲や残飯漁りなどで今まで生きてきたのだ。
しかし窃盗グループは捕まれば死という状況を何度も経験し生き抜いてきたため、当然肝は据わっている。
「みんな武器を」
エレノワールの言葉に男達全員が武器を手に取る。
敵はダルクだけがナイフを持っており、他の六名はスラム出身にしては体格のいい男達だが木の棒を持った程度。
それならば、ダルクさえ注意しておけば問題はない。
喧嘩慣れした彼らを味方に引き入れる意義はあるが、そのためにはリーダーであるダルクだけを殺して、他の六人を恐怖で屈服させた方がスムーズであるとエレノワールは考える。
まだエーレとノワールであった頃、一方的に見かけた事が数度あったが、彼らの間にあるのは絆ではなく、ダルクという一人の圧倒的な暴力装置に付き従う六人といった様子であった。
そこら辺の機微は、もちろんエレノワールとなってから気づいた事ではあるが。
「基本的に私かダニロ、それかベンが相手をする事になるでしょう。他の皆は、威嚇効果としてのみ機能していれば問題ありません。相手の注意力をそらすためにも男衆はまず横に広がって、そののち相手を囲むように緩やかに展開してください。その際武器はなるべく隠すような形で。包囲が完了したら武器を見せつけて屈服させます」
エレノワールが小屋の中でみなに作戦を伝えている間に「おら! 出てきやがれ!」と威勢の良い怒声が聞こえてきた。
何人かはその声にビクリと怯えた様子を見せていた。
「……エレノワール、あいつらをどうするんだ?」
そんな中でベンが慎重な面持ちで告げる。
「私の下につくなら別ですが、奪われるくらいならば、当然殺します」
エレノワールはそれに即答した。
新たに吸収した八人組の中で男は四人。
それを聞いて、彼らの青い顔がさらに白くなる。
しかしベンとダニロとギド、そしてエレノワールを除き唯一女で短剣を携えるニーナはその言葉に静かに頷き、分かったと気合を入れた返事をする。
その差異はエレノワールと出会ってから過ごした時間の信頼と実績、それに加えて洗脳という形が如実に現れていた結果であった。
勢いよく扉を開けエレノワール、ダニロ、ベン、ギド、ニーナ、そして顔面蒼白の四人が順番に小屋から出ていく。
ダルクを筆頭に一塊になっている相手とは対象的に、こちらはエレノワールの指示通り横に広がるように全員が展開する。
ダルクはたしかにここらでは、体格もよく喧嘩に慣れており、暴力に躊躇がない分、強い部類なのだろう。
しかし、あらゆる道場を渡り歩いた記憶と、高名な剣士に師事したこともあるエレノワールとの比較相手としては、その戦力差は大人と赤子のようなもの。
けれどエレノワールは個人ではなく群としての経験を、自身のグループにここで得させたいと考えていた。
そのため全員で全力をもってしてあたる。
素人の喧嘩集団相手に、陣形を使った戦術をぶつけるのだ。
「っ……!」
「なにか御用でしょうか?」
一番に小屋から現れたエレノワールの容姿に目を奪われ、一瞬だけ狼狽するダルクに対し、エレノワールは自然体そのもの。
「おい、てめえら最近随分と金を稼いでいるみたいだな……」
しかしすぐに威圧的な態度に戻って、不敵な笑みを浮かべて言葉を放つ。
ダルクは一般的な孤児だ。戦場も知らなければ当然陣形など知るはずもない。
ダルク達の視線は、ここらでは中々お目にかかれない小剣を携えており、そのうえ容姿の良い一際目立ったエレノワールに釘付けで、こちら側が全員武器を持っている事にはまだ気づいていない様子。
そして徐々に広がるように、ゆっくりと、だが確実に包囲されていく。
彼らはまだ自身達の不利を悟る事もない。
「私の下に付けば命は取りません。そうでないのならばここで死になさい」
「ああ!? 痛い目みたくなきゃ有り金全部俺等に寄越しやが――」
ナイフをちらつかせたダルクが堂々と恫喝するその意識の隙を見て、魔法で身体強化したエレノワールは瞬時に自身の剣の間合いギリギリまで踏み込み、ダルクの喉を切っ先で一閃。
剣をなるべく消耗させないための使い方である。
「あ゛がっ……」
吹き出す血を抑えるように、喉に手を当て蹲ろうとするダルクの顎を更に蹴り上げ、仰向けに転倒させる。
そしてとどめにブーツでダルクの首を思い切り踏み込み、首の骨を折る。
メギョっという聞き慣れない音と、殆ど会話を交わすこともなく淡々と、そして鮮やかに殺人を犯したエレノワールに、敵どころか味方でさえ恐怖した。
元々スラムで過ごしている少年少女達は常に死が身近であり、彼らは幾度となく路傍に朽ち果てている死体を見て生きてきた。
その中にはもちろん友と呼べるものが加わる事も一度や二度の経験ではない。
今更生きるために必要な殺しに忌避感などないのだ。
そう思って覚悟を決めて外に出たはずのダニロ、ベン、ギド、ニーナもエレノワールの鮮やかな殺人術に畏怖して動けないでいた。
「もう一度言います。死にたくないのならば私の下に付きなさい。逃げ場はもうありませんよ」
その言葉にダニロ達もハッとして、今まで隠すようにしていた武器を見せつける。
優位に立っていたと思っていたダルクのグループは、よく見ると相手の全員が武器を持っており、しかも逃げ場を囲うように包囲されている事にようやく気づく。
しかもその中の一人に至っては逃しはしないとばかりに、狙いを定めて矢を番えている。
そして脳裏に浮かぶのは、先程の鮮やかな殺人術。
「か、かんべんしてくれ…………」
六人の男たちは恐怖から膝をつき、両手を上げた。
◇◆◇◆
この事件により、スラムの子供の大きな派閥はほとんどエレノワールの傘下となり、残った大きなグループは年上の強者に媚びを売って雑用をこなしているグループだけで、あとの他は少数でつるんでいる者達のみとなった。
残された最後の大きなグループのリーダーはペテロという男だが、所謂使いっぱしりの捨て駒で、縦の繋がりがあるという点では厄介であり、この周辺の青年組をまとめているトーマスという男の傘下である。
とにもかくにもエレノワールはこの周辺のスラム一帯を掌握して、組織化を推し進めたかった。
しかし組織の枠組みを作ったとしても、人を動かすのにはやはり資金が必要となる。
金があれば、誰かに命令するだけで結果が出てくる。
しかし、現状の靴磨きでは日々の糧を得る程度にしか稼ぐことができない。
最も効率の良い商売は何かとエレノワールが考えた結果、それは命に関する事であった。
それは治療でもそうだし、逆に殺人でも同じだ。
人が持つ最も価値あるものは生である。
それを商売にすれば必然的に大金が手に入る。
ならば躊躇することなく、最善で最短の道を歩くのがエレノワール。
彼女の中に倫理感などという言葉は、とうに無くなっていた。
エレノワールはいずれは、この街のスラムの全てを手に入れるつもりで動こうとしている。
そうすれば自身の生を脅かす者は限られる。
単純な論理であった。
エレノワールはまだ知らぬ事であったが、この街は旧王都街であり、三つの城壁の一番内側は王都と殆ど変わらぬ綺麗に整理された道があり、エレノワール達の知るような複雑な路地などは存在しない。
そこにはあらゆる大貴族の屋敷もあり、この国では遷都された王都の次に発展している街でもあった。
城壁が三つあるのも積み上げた歴史と、街の発展の速度に追いつかなかったのが理由である。
二つ目の壁の内側は主に平民が住んでいる。
そして彼女達のいる場所は、三つある外壁の三つ目の壁の内側。主に貧民達が住まう場所である。
靴磨きのため、二つ目の外壁の内側までは入った事はあるが、流石に中央にまでは行ったことはない。
知らないのも無理はないことだった。
そして三番目の壁の貧民街。
ここのスラムは国内最悪の悪街と呼ばれ、この街のスラムを全て手に入れる事は裏社会の暗黒街のトップに立つ事と同義である。
そんな事はつゆ知らず活動しているエレノワールに、一つの転機が訪れる事となる。
それはエレノワールが溜まっていた盗品を売った際に交流を持つことになった、ペッソという名の商人との雑談からであった。
「あれ? ペッソさんではないですか? どうかされましたか? なんだか顔色が悪いようですが……」
「……あ、ああ。エレノワールちゃんか…………」
商人は雑多ではあるものの、あらゆる情報を持っている存在でもあるため、色々と役立つ情報はないかと探りを入れつつ普段から好意的に接している。
そんなペッソに今日声をかけたのは、普段柔和な笑みを浮かべている彼らしからぬ、険しい表情から、何かあったのか聞き出すためだった。
彼女の人心掌握術は、鋭い観察力から相手を見極めた後、口調や声色、言葉選びから細やかな所作や表情まで全身を満遍なく動かし、相手の状況によって手を変え品を変えて、人の心を容易に掴みとる。
そうした結果、ペッソは彼女に心を開き、まるで長年の友人のような思いさえ抱くようになっていた。
「実は商売でいろいろとあってね……」
元々言うつもりはなかったのだろう。
他愛のない雑談から入ったが、エレノワールがその表情をする原因となった話題を聞き出すべく誘導した結果、ペッソが打ち明けたのはライバルである悪徳商人への恨みだった。
元は行商人であった彼は商才があった。
そうして行商で上手く成功した彼は、念願の店持ち商人になった。
それからは順風満帆の日々であった。
嫁を取り、娘を得て。
ペッソはエレノワールから見ても優秀な商人であり、商人としての才能はかなりのものだと思っている。
しかし、競合相手の大商人にあくどい手口の商売でハメられる。
ほとんど恭順のような契約を要求してきたが、それでも持ち前の商売人としての才覚で、なおも折れずにペッソは抵抗し続けていた。
それが仇となったのだろう。
下手に才能があったが故に、大商人が相手でもどうにか出来ていたのが災いした。
大商人は商売での駆け引きは辞め、とばかりにペッソの心を恐怖で縛りつけるべく、彼の妻と娘を殺させた。
命が惜しければ、以後の人生はその大商人の飼い殺しに合う、との事だった。
今は全てに絶望し、死出の旅路のため最後にかつて使っていた行商人時代のルートを通っていくのだと言う。
「ははっ……。良く考えてみればエレノワールちゃんに話す内容じゃあなかったね……君も気をつけるんだよ。悪い人間はどこにでもいるから、さ」
自嘲気味に力なく笑うペッソ。
それを聞いたエレノワールは、ちょっとこっちに来てくださいと、人気のない路地へとペッソの手を引く。
どうしたのかと、何も疑わずに手の引かれるまま、エレノワールについていくペッソ。
人気がないことを確認したエレノワールは、とても愛らしい笑顔をペッソの顔に近づける。
そしてまるで世間話でもするかのような気安さでさらりと告げる。
「その男、よろしければ私が殺してさしあげましょうか? こう見えても私、凄腕の殺し屋なんですよ?」
近づけた顔を離すと、ペッソはこの子は何を言っているんだ、といったような困惑した表情で目を見開いていた。
エレノワールは彼の精神状態を正しく理解していた。
だからこそこの商売は上手くいくという確信があった。
愛らしい少女から発せられた噛み合わないセリフに、言葉も出ない様子のペッソにエレノワールは人指ゆびを振るい、挨拶代わりに清浄の魔法を使ってみせる。
「ッ……!?」
魔法陣が浮かびあがり、一瞬で身綺麗になった自身の姿にペッソは言葉も出ずに立ちすくむ。
魔法は稀に平民でも使えるものはいるが、ほとんど貴族にしか使えない技術であり、そして圧倒的な暴力だ。
職業柄多くの貴族の魔法を見てきたが、それとくらべても目の前の少女の魔法構築はあまりに早く、ただの清浄とは思えないほど複雑であり、完成度が高かった。
今まで接してきたエレノワールの愛らしい姿とは別人のようであった。
同じ少女とは思えない不思議なカリスマ性を目の当たりにしたペッソは、ゆっくりとエレノワールの言葉を咀嚼したのか、哀願の表情で静かに涙を流す。
「どうか……どうかあいつを殺させてくれ……俺のこの手で…………」
「ええ。そのご依頼承りました、ペッソさん」
綺麗なカーテシーで伏せたエレノワールの顔は、とても良い笑顔をしていた。
元々エレノワールはいずれ人を殺す事で金貨を得る事を想像しており、その際必要になるであろう独自の魔法をいくつも生み出していた。
貴族が学ぶ魔法の利用法は大抵が護身用か、戦争用か、派手で見栄えの良い魔法。
しかし彼女は逆を行く。
最小限の魔力で、効率良く人を殺傷出来る暗殺向きの魔法。
威力はいらない。
人を殺せれば充分な必要最低限の殺人魔法。
ただでさえ莫大な魔力と鋭い観察力、そして天性の知恵を持つエレノワールだったが、異界の知識がそれを更に凶悪にさせた。
◇◇◇
その日の夜のうちに、エレノワールは悪徳商人の屋敷に忍び込む。
彼女は元々はただの貴族の令嬢であり、生粋の暗殺者の術などは当然知らない。
本来暗殺者の術は、その一族や組織のような人間しか知らない。
長年の歴史が積み重なって出来た凶悪な暗殺魔法を扱えるよう、生まれた頃より訓練する日々が日常だったはずで、そんな者に勝てるとまでは自身の規格外さを知らぬエレノワールは当然思っていなかった。
だからこそ貴族階級の伏魔殿のような対立組織がいない『平民向けの殺し屋』が最も多く稼ぎ、最もギリギリ命を繋げられるかどうかの日々を送れるはず、という考え。
自身の命をチップにした場合、多く稼げる仕事が平民向けの殺し屋稼業だった。
しかしたとえ平民相手でも、その対象によっては冒険者や、傭兵などの護衛を雇うような富裕層も多いはずで、『魔法を使えぬ平民』とバカにするでもなく、エレノワールは最大限に警戒していた。
彼女の慎重さは、臆病であったエーレのもの。
だからこそあらゆる事態を想定する。
そもそも平民は魔法をまともに扱えないとされているが、それは知識がないだけで魔力自体を持つ平民はそれなりにいる。
ただその扱い方を知らないだけなのだ。
しかし中には独学で魔法を習得する者も多くいるし、無意識のうちに身体強化の魔法を使っているものも少なくない数いる。
だからこそ確実を取るのなら、魔法耐性を貫ける程度には魔法の威力も必須である。
しかし結果は拍子抜けといったところ。
闇夜に同調する魔法と、気配を殺す魔法。
指先から圧縮した魔力の塊を打ち出す魔法。
奥の手など見せる間もなく、たった三つの魔法で護衛の十八名をあっさり殺せてしまった。
「ペッソさん曰く大きな商会だとのことですが、護衛の質にお金はかけなかったのでしょうか?」
臆病で慎重なエレノワールは本職の暗殺者には敵わないと考えているが、もし一流の暗殺者が彼女の暗殺術を見ていれば、一体誰がこの怪物を殺す事が出来るのだろうか、と恐怖を覚えたことだろう。
それほどまでに彼女の技術と魔法は極まっていた。
その中でも特に異端なのは〝身体強化〟の魔法である。
貴族ならば誰でも上手く扱えるように、最も訓練する魔法のうちの一つ。
身体強化には二つの段階がある。
それは万遍なく体全身に魔力を通わせる身体強化と、一箇所に魔力を集中して行う身体強化。
前者は魔力が全身に通っているので、魔力総量が平均的になり爆発的な身体向上は得られないが、魔力をまとわぬ状態の普段とは違って、圧倒的な動きはできる。
そして後者の場合は、普段は魔力を全身に纏わせておきながら、踏み込みのさいには足腰に魔力を纏い、剣を振るう際は腕や腰に魔力を集中して纏うことによって、大きな身体向上ができる。
この二つを併用して、全身の魔力の移動をスムーズに行う事が、一般的な貴族が使う〝身体強化魔法〟となる。
エレノワールはこの身体強化を、持ち前の大量の魔力を使って、最も重要視した箇所は身体ではなく脳を強化する事にしていた。
体はすべて脳からの信号で動いている事を知っていたからだ。
脳はブラックボックスであるが、脳のどの部位を集中的に強化すれば、どこが強化されるのかなどを普段からこっそりと練習していた。
そのため月のない夜でも、真昼のように見渡せる目を持ちながら、身体全身も万遍なく魔力を纏っているのにも関わらず、まるで一点集中したかのような大きな力で強化されている。
「まあ、仕事が楽なのは良いことですね」
「お、お前、な、なにが目的だ?」
血みどろの部屋にあって返り血ひとつ浴びていないエレノワールの近くには、今回のターゲットがいた。
「あなたを、とある人のところまで連れて行く事です」
「な、なんだ!? どういうことなんだ!!」
「……少しうるさいですね」
眉を潜めたエレノワールは片手を突き出し、魔法を瞬時に展開する。
宙には平面の魔法陣が現れ、一瞬光るとすぐに魔法陣は消えた。
エレノワールが使った魔法は精神魔法の応用であり、殺傷能力はなく気絶させただけである。
その後、布で作った猿ぐつわを噛ませ、麻袋に無理やり詰め込む。
精神に干渉する魔法は非常に高度で危険なものであるが、平民は魔法に対する耐性が殆どないうえに、ただ気絶させるだけなら(エレノワール基準でだが)大した魔法でもない。
身体強化した身体でそれを持ち上げ、依頼人であるペッソの元へと、人目につかないよう慎重に届ける。
ちなみに襲撃の際、商人の隠し金庫を見つけて、思わぬ臨時収入とばかりに当然金銭を持ち出している。
自身と少しズレた位相に亜空間を作り出す魔法で、その中にしまえば盗まれる心配もなく、いつでも取り出し可能という素敵な魔法で、金銭の類は全てそこに放り込んだ。
以前興味本位で、スラムのならず者をこの魔法の中に入れて取り出してみたら、顔から手が生えていたり、背中から足が生えたりと異形の姿になって出てきたことがあった。
しかもそれは、そんな姿になっていてもまだ生きていたのだからエレノワールにとっても驚きであった。
しかし非生物に限っては変化はないようで、その点は何度も実験して証明したので安心だ。
その経験から悪徳商人だけは抱えて運ぶしかなかった。
◇ ◇ ◇
「はははっ!! お前のせいで!! お前のせいだ!!」
「た、助けてくだざい、か、金ならいぐらでも、払いまず、払いまずぅ……」
ペッソのもとに悪徳商人を届けると、普段の柔和な笑みを浮かべる彼からは想像もできない愉悦と憤怒が混ざった狂気の表情で、悪徳商人の肢体を手から足へと順番に切り落としていた。
エレノワールもアジトにあった錆びたノコギリを取り出し、これの方がいいですよ、とペッソに進める。
そんな無慈悲な提案は、ただ仕事を完璧にこなすという、生真面目な理由だけである。
泣いて何度も謝罪するだるま姿の悪徳商人を見やりペッソは狂気的に笑いながら、最後に彼の首を錆びたノコギリで雑に落とした。
その際、血がエレノワールの方に飛び散ってきて、綺麗好きのエレノワールは思わず不快げに眉を潜める。
元貴族令嬢であり、最後はスラムでボロボロになって死んだ経験から、彼女は潔癖とも呼べるほどの綺麗好きになっていた。
しかしそんなエレノワールの表情にも気づかず、正反対の愉悦の表情を浮かべるペッソ。
「ハハハハッ! ざまぁみやがれ!」
そこには返り血に染まり狂気的に笑う男がいるだけで、かつて常に柔和な笑みを浮かべ、エレノワールにいつも優しかったペッソの面影はまるでなかった。
「ご満足頂けましたでしょうか?」
ようやくターゲットも無事に死んだ事を確認したので、今まで倉庫の隅で無言で見守っていたエレノワールが声をかける。
その声でハッとしたように、先程とは一転して穏やかな笑みを浮かべてペッソは振り返る。
「あ、ああ……ああ。ありがとう……エレノワールちゃん」
「それじゃあ、早速お代を頂きたいのですが」
「…………その前にもう一つ、きみに依頼をお願いしたい」
本当に代金を払ってくれるならばやぶさかではないが、正直後出しの依頼は面倒だし、本当に支払いをしてくれるのか訝しんだエレノワールは眉を潜める。
それに気づいたペッソは自嘲気味にフっと笑った。
「いやなに簡単なことさ。どうか僕を楽に殺してくれないだろうか? 君ならきっと痛みもなく魔法で殺してくれるだろう? 残った私の全財産は全てここにある」
ペッソが指差す方に視線を向けると木箱の上には、大量の金貨入った袋がいくつか積み上げられていた。
元々そのつもりだったのだろう。
用意の良いことだと、それを聞いたエレノワールは喜色満面の笑みで答えた。
「はい。それではそのご依頼承りました。さようなら、ペッソさん」
「ああ。さようなら、エレノワールちゃん」
エレノワールは人差し指を向けて高圧縮した魔力の塊を、ペッソの眉間に打ち込んだ。