エレノワール
ノワールとエーレはいわゆる神童と呼ばれていた。
エーレは一度見たもの、聞いたものは、絶対に忘れる事はなかった。
姉であるノワールも歳に似合わぬ言葉遣いに、何処で得たのか知らぬ高度な知識。
生後すぐに言葉を覚え、屋敷中の本を読み漁るような子供であった。
妹のエーレは完全無欠の天才であると、ノワールは思っていた。
当のノワールもエーレと同じく神童として同じように持て囃されていたが、その評価を甘んじて受ける事はなかった。
ノワールにはいつからか前世と思わしき異界の他者の記憶があったからだ。
前世であるのかもと考えられたのは、その女の記憶の中の知識と現状を鑑みた結果で、実際にそれが前世なのかどうかは分からない。
その女は両親が開祖の、カルト教の巫女のような存在として祀り上げられていた哀れな女だった。
親に唯々諾々と従い、自身の存在意義は信じてもいない神のためだけにあった。
空虚でからっぽの人生経験。
人格形成に多大な影響があるであろう幼い少女に、そんな女の二十年分の記憶がいつからか徐々に頭の中に入り混んできたのだ。
初めは夢でその女の人生を追体験していた。
夢は荒唐無稽なものと決まっているが、それを夢だと断言するのには、あまりにもその記憶の世界は完成していた。
それは次第に起きている間にも。
ふとした拍子に頭痛と共に女の記憶が、知識が、感情が、流れ混んでくるようになっていた。
知識の中に存在した輪廻という概念から転生したのかとも考えるが、しかしどうも女の事はやはり他人事のように感じる。
二十年分の哀れな女の知識を入れられ、意思がぐちゃぐちゃに混ざりあうような感覚があるも、やはりどこか感覚的な事だが、これは記憶ではなく知識の流入であるとノワールは判断した。
幼い頃にそのような経験を得てしまったため、ノワールは自我が曖昧であり、どこか人間性が欠けたような少女に育ってしまった。
ノワールは知識をつけるたび、自身が塗り替えられるような嫌悪感を覚え、いつ頃からかその女の事を心底嫌いになっていった。
だからこそ前世という概念に抵抗感があった。
ノワールの優れた洞察力はあの女と似ている。
というよりはきっと知識を持ってして、自然と身につけたのだろう。
そして少女はそれを紐づける優れた瞬発的な思考力を有しており、知識の中の彼女より遥かに思考の巡りは良く。
だからこそ同一人物かと問われればそうではないと答えるだろう。
微細な癖なども違えば、あらゆる問答に対する答えも違っていた。
しかしやはり、異界の先進国で暮らした二十年分の人生観は、ただの少女であった以前の自分とはかなり様変わりしてしまっているように思えた。
不思議な事が起きたものだと思った。
だが、ただそれだけ。
ノワールは自身の精神年齢など年相応の身体になれば、なんのアドバンテージもなくなるのだろう、と完全に割り切っていた。
今まで信じていた貴族の絶対的な価値観が、ただの知識に置き換わったり、徐々に侵食してくる記憶は女とノワールの自我の狭間でせめぎ合い、ノワール本来の人間性というものを静かに歪めていた。
◇ ◇ ◇
目が覚めると気分は爽快だった。
それこそ伯爵邸で過ごしていた頃のような。
身体のどこも痛くもないし、熱ももう下がりきっている。
しかし、少女は今の現状を素直に受け入れられない。
そもそもこの世界には魔法が存在し、それを行使することも可能だが、正しく魔法的現象を理解出来ているものは誰一人として存在せず、知り合いの知り合いが『魔法によるなにか不思議な現象が起こったらしい』という噂が稀に聞こえてくる程度には、魔法というモノの深淵には際限がない。
知識の中にある科学というものもだいぶ解明は進んでいるが、それでもなお誰も完全な理解などしていなかったのだから、それと似たようなもの。
――少女にとって今現在一番不可解なのは、自身がノワールでもエーレでもなく、同時にノワールでありエーレであるという点であった。
◇◇◇
少女には知る由もない事ではあるが、彼女たちの魔力量は〝英雄の病〟を発症するほど多く、少女らの住むボロ屋の床には、高い魔力量を持つ者の髪という、古から魔法に用いられていた触媒が散らばっていた。
そして、その色も問題であった。
白と黒というのは相反する存在の象徴である。
それなのにも関わらず、魂という深い部分で繋がる双子という存在。
双子の大きな魔力が暴走し、結果膨れ上がった状態で何日も紡いだおまじないの言葉。
偶然にも『二人で一人』という絶望の縁での真摯な想いが、既に禁術としてとうの昔に廃れた高度な儀式魔法として再現されてしまった。
それは本来ならば成功率の低い儀式魔法であったが、双子故に高い適合率を誇る。
そしてあの女という別人格の記憶を持っていたノワールにとっては、二人の人格というのは慣れたものであり、その器があった。
そういった幾重もの奇跡が重なり、彼女は文字通り二人で一人の人間という奇異な存在になっていた。
そのうえやっかいな事に〝あの女〟の知識も含めるのならば、彼女は三人の知識や経験が蓄積された一人の存在という事になるのだ。
とはいえ、少女はわりと落ち着いていた。
本来であればパニックになり、下手をすれば廃人になるはずのそれも、偶然か運命か、達観していた女の知識がエーレの凄まじい記憶力で定着し、変に入り混じってしまった事で、自身を俯瞰し平静を保つことができたのである。
やはりそれは、奇跡を幾度となく繰り返した結果であった。
初めに自分は今何者なのか。そんな事を考えた。
だからこそ自身を明確にするため、新たな名前を付けることにした。
今の自分はノワールでもエーレでもない、生まれ変わった存在なのだ。
「ノワールとエーレ……エレノワール。……うん、しっくりくる」
その後、自身の両手をぐっぱーと開いて閉じては、身体の調子を確認する。
何も問題はないように思えた。
色々と変わってしまったが、死神の鎌からは既に逃げおおせた。
死ぬよりはマシだ。
しかし、一つだけ後悔があった。
「……まさか英雄の病だったなんて……失敗したなあ…………」
今でこそノワールが幼少期、屋敷の本を漁るようにして読んでいた中に、〝英雄の病〟の記述があった事を思い出した。
それをノワールが思い出せていたら、お互いがお互いの魔力を流し込み安定させる事ができたのである。
しかしそれはエレノワールとして、エーレの驚異的なまでの記憶力をもって呼び起こされたものであり、ただのノワールであったころでは思い出せないものであった。
「仕方がない……か。私が今そう思えるなら、あの頃のエーレもきっとそう言ってくれているって事だよね。それも私なんだし」
一度気持ちを落ち着け、辺りを見渡すと以前と変わらぬボロ屋に散乱した白と黒の髪。
そして二つ分の衣服があるだけ。
既に切ったはずの頭髪は以前と同じく腰の長さにまでに戻っており、髪は白く、しかし毛先にかけてまばらに黒く染まっている。
瞳の色は確認できないが、エーレもノワールも藍色の瞳だった事を思えば、きっと同じ色のままだろう。
劣悪な環境で過ごしていたのにもかかわらず、肌艶や髪質は屋敷に住んでいた頃より、断然輝いていた。
いくつも負っていた小さな傷跡がきれいサッパリ消えているのを、エレノワールは生まれたばかりの姿であるため、すぐに気づいた。
そしてどこから湧いてくるのか溢れ出る全能感。
今ならば何も怖くない。
むしろどこか感情が欠落している気もする。
「これは、あの女のせいかもね」
あれだけ悲嘆していたのにも拘わらず、今は生きる活力が湧いてくる。
女の目標である意味ある生を送りたいという強い願いが、そしてエーレだけでも生きてほしい、ノワールだけでも生きてほしいという願い。
それがエレノワールになったことで、二人分の諦観を払拭していた。
床に投げ捨てられたような二つの衣服のうちの一つを手にとり、着替える。
それがエーレの着ていたものなのか、ノワールが着ていたものなのか、そんなことはもうどうでも良かった。
今はエレノワールとして二人で一人という存在なので、そこに執着することはない。
とにかく、この貧民街で生き抜く力を蓄えようとエレノワールは考える。
妹のエーレはとても記憶力に優れた少女。
とはいえ引っ込み思案な性格をしていたため、その異常な記憶力を表に出すような事は姉であるノワールや家族の前だけであった。
姉のノワールはそんなエーレをひっぱる存在であり、非常に思考力が優れ、頭の回転が早い少女。
そして二十年分の先進国で生きた知識も持つエレノワールは、とにかくその知識を有効活用して現状の環境を少しずつでも改善しようと思考する。
ともあれこの劣悪な環境で生き抜くためには、エレノワール一人の力では限界があった。
しかしエーレの記憶力と、ノワールの思考力、そして女の驚異的なまでの観察力が合わさった結果、貧民街に住まう少年少女達の性格から微細な癖までを思い出し、それを精査する事によって、そんな少年少女達の考えうる行動パターンを熟知する事が今のエレノワールには可能となっていた。
――ここで生きる。そのためにまずは彼ら彼女らを束ねる。
◇◇◇
貧民街に住まう孤児達はある程度の人数で結束して行動しており、貧民街には大きくわけて四つのグループと縄張りが存在していた。
自身より上の年齢のものに媚びを売り生き延びるグループ。
スリや窃盗などで飢えを凌ぐグループ。
力で自身より弱いものから食料を奪うグループ。
物乞いや残飯漁りでなんとか食いつなぐグループ。
もちろん以前のエーレとノワールのようにどこのグループにも所属していないものもいる。
しかし数と結束は、孤児達にとっては身を守る力である。
少なくともこの裏路地育ちにも搾取は存在し、そういった行為を行う輩は当然いて。
例外なくそういった者達は数の多い者より、数のすくない者を狙うものだ。
エレノワールはまず手始めに窃盗グループへの接触を図る事に決めた。
男三人に、女四人のグループ。
みな年の頃はエレノワールとさして変わらないが、リーダー各の男はベンと言う名で、他のメンバーより少しばかり歳上である。
とはいってもエレノワールより、おそらく三つほど上の十ニ歳程度。
ろくなものを食べていないせいで、成長が遅いのか今の九歳であるエレノワールと見た目はさして変わらない。
窃盗グループのベンと接触するにあたって、まず口調をどうするべきかエレノワールは考える。
威圧的な言葉は、エレノワールが使ってもあまりにも迫力がないだろう。
かといって彼らと同じく下町言葉で粗暴な口調にすれば、仲間意識が強まるかもしれないが、エレノワールは将来的には彼らを自分の駒にする予定で、敬語を使えるように躾けるつもりでもあった。
――やはり貴族言葉が一番良いかしら。
彼らの恐怖の対象は、自身より歳上で体格差のある貧民街の青年組や、大人達。
そしてその大人達が恐怖するのは、なにより礼儀正しい男達である。
それが貴族なのか悪徳商人なのか、裏社会の人間なのかは知らないが。
そして何より丁寧語を使える人物というのは、知恵が回る者だという名刺のような役割を果たしてくれることだろう。
◇◇◇
貧民街――というよりそれを含めた都市は全体的に汚い。
もちろん貧民街は汚く、都市の中央は清潔であるのは確かなのだが、汚いのは汚物や悪臭などといったものではなく、乱雑な建物だ。
規格化されていないのか、あまりにも無計画な都市設計である。
エレノワールの記憶にある王都はキチンとしていたはずだが、この都市はまるで迷路のようだった。
恐らく何らかの原因で急激に人が増えたのか、城壁が三つも存在する。
そのため彼ら窃盗グループは、追ってから逃れるためにあらゆるルートを知り尽くしている。
そしてエレノワールも、もちろん窃盗グループのたまり場は知っている。
それは迷路のようなあらゆる路地で、窃盗グループのメンバーと幾度となくすれ違った経験があるからだ。
そのメンバーの向かう先は、一つの地点に集約される。
これはエーレの驚異的な記憶力と、ノワールの知恵と女の観察力が合わさって確信にいたったものだ。
エレノワールは迷路のような路地を迷いなく進む。
そうして着いた場所は、エレノワールが仮宿としていたボロ屋よりは幾分広いが、それでも木造のボロ屋に変わりはない。
しかし、隙間風等が入らないように、ところどころ修復した箇所が見える。
現在は兵士が巡回している時間帯なので、メンバーは全員揃っており、怪しげなローブで全身を纏ったエレノワールの突然の登場に、リーダーでまとめ役であるベンがいち早く木の棒を持ち、皆を庇うように一歩前に出る。
「誰だ、お前! ここは俺らの縄張りだぞ!」
閉まりきらない脇に、棒を持つ手は右手が上。
つまり右利きである。
けれどその足元を注視すると、右足は半歩引いている。
エレノワール以外の人間がいるかもしれないという警戒からか視線は泳ぐが、眉間には軽いシワ。
そしてそんな警戒心よりも、エレノワールがローブで顔を隠していることで、未知の恐怖心が勝っている。
他の子もベンに呼応して木の棒を持って対峙する。
エレノワールは瞬時にその観察力でベンの心境と、ベンの周囲にいる子らが自分たちのリーダーに向ける視線や微細な動きから、少年少女達の大体の性格を把握する。
その驚異的な観察力と思考能力はノワール(とあの女の)生来のものであるが、多数を相手にしても問題なく情報を処理できるのは、高度な記憶力に付随した演算処理を行えるエーレのもの。
そしてなにより他者の心理を読み解く力は、カルト教の巫女として得た経験と言う名の知識。
それら三つが全て上手く噛み合わさり、高度な次元で他者を見る事を可能としていた。
――概ね予想通りの反応ね。
ならばと、相手の警戒心と恐怖心のバランスが拮抗しているうちにエレノワールは次の行動に移る。
エレノワールはローブのフードをそっと外し、にこやかに笑みを浮かべる。
それは異性同性問わず見惚れる微笑みであった。
しかし笑顔とは本来動物の威嚇でもある。
ベンは自身でも気づかぬコンマ秒程度の恐怖心を覚えつつも、そのフードの下のエレノワールの容姿に呆けた表情を見せ、一瞬警戒心を解く。
そしてすぐに警戒心を建て直される前に、エレノワールは相手の意識の隙間を縫うように、先んじて声を出す。
「こちらをまとめているベンさんですね。わたくしはエレノワールと申します。今日はベンさんにご相談があって参りましたの」
「えっ!? あ、あぁ!? 相談?」
「ええ、というよりも取引でしょうか? ベンさん方と私で手を組んで小金稼ぎをいたしましょう」
呆気に取られる周囲をよそに、エレノワールは両手を合わせてニコリと微笑む。