プロローグ
私は生きながら、死んでいる。
心を殺し、自由を奪われ、存在しない神に祈りを捧げる。
そしてたまに村人達に説法をする。
それは中身が薄いのか、はたまた大言壮語というべきか。
とにかく聴く価値がはたしてあるのかと、自分でも分からぬ説法を説く日々。
「巫女様のおかげで大分調子も良くなりました」
「それは良かったです」
そんな村人に私は笑顔で返事を返す。
稀に信者に呪言を唱え、祈祷を行う。
私が適当に考えた意味のない動きと、意味があるようで含蓄も何もない言葉の羅列を紡ぐところをみては、有難そうにしてさっていく老婆。
それから少しして老婆が死ぬと『巫女様はきちんと、祈祷してくださったのか!』と村の者は不満げ。
彼らは人は必ず死ぬという事を理解しているのだろうか?
理解はしているのだろう。
しかし、本質的に彼らは死を忌避し、あえて考えないようにしているのだろう。
今日明日にでも、死は訪れるかもしれないというのに。
私は、毎秒死にながら生きている。
私は常に隣に死が佇んでいる事を理解している。
そしてこの町の者達は皆、変化を嫌い、死を享受せずに生きている。
それは生きながらにして、死んでいるようなものだ。
安易に思考を放棄することなど、生きているとは到底言えない。
調子が良ければ私のおかげ、調子が悪ければわたしのせい。
死は皆が平等で、誰もが例外なく死に向かって歩いていくものだ。
抗うことなど出来はしないというのに。
私は神ではないし、何の力もない。
ただ少しだけ、自慢できることがあるとするのならば、他者の気持ちを上手に汲み取れることができる。
それだけの――ただの人間だ。
それでもこの町では、その能力だけが唯一無二の価値を持っていた。
言葉巧みに他者の心の隙間に入り込む術は熟知している。
稀代の詐欺師のようなもの。
もしこんな田舎町で生まれなければ、きっとこの口先一つの武器で大成していたとさえ思える。
そんな私はこの町で誰よりも、他人を信頼も信用もせず。
だからなのか暇な時間には、常に己と向き合い、自身が何者なのか、他愛の無い哲学的な事ばかりをつらつらと考えていた。
かつては祖母が私に沢山の事を教え、教育してくれた。
代々続く伝統ある道場で武道なども習っていたが、それも祖母が亡くなってからは金の亡者である親が売り払った。
以来私は、親の言いなりの人形のような人間。
とはいえ思考は自由だった。
おそらくこの小さな町で、死を恐怖する人間の話を最も多く聞いてきたのは私だと思う。
だからこそそんな私は、誰よりも死を身近に感じていたし、誰よりもそれに向き合うだけの時間があった。
そんな私の説法は、自身の鋭い観察眼と相まって、信者達を満足させる事が出来うる説法を行えてしまっていた。
今日も大勢の信者が変化や死を恐れて、私の元へと押し寄せる。
町医者はよそ者だから嫌だと、子供のような駄々を捏ねる大人たち。
町の者は私とその背後にいるとされる、人造の神に全てのアイデンティティを委ねるのだ。
そうすれば自身の存在意義を他人に預けられるのだから、これほど楽な生き方はないのだろう。
思考は停止したまま。
停滞を安寧と勘違いしている愚物。
しかしそれに一方で憧れる自分もいる。
そのように自分の価値を他者に委ねられるのならば、どれだけ楽であろうか。
父も母も私をカルト教の巫女として祀っており、そこに親子の情は存在しない。
両親にとって私は都合の良い道具であり、その信仰対象である人造の神もまた、私と同じだ。
祖母が死んだあの日から、きっと私はこの世界の誰からも愛されていないし、巫女という役割を捨てれば誰からも必要とされることはない。
それなのに何故、生きている? 私はどうしてまだ、呼吸を続けている?
私は――――ただ、生きたいだけなのだ。
何かを見つけたいのだ。
私の絶対と言える何かを。
町のみんなは私にその絶対を見出しているのだろう。
それが酷く妬ましく、羨ましい。
私を私と象る何かは、どこにあるのだろう。
――私にとっての絶対とはどこにあるのだろう。
◇ ◆ ◇ ◆
人族の国家であるグレンツェント王国。
近年、この王国では羊皮紙に代わって植物紙なるものが出回るようになり、農業に於いては連作障害なる知識や、効率的な農具の開発などにより国内での農業技術は飛躍的に進歩し、それら以外にも次々と出される画期的な技術。
それは農業技術だけに収まる事はなく。
その数々の発想はあまりにも時代を先取りしすぎていたが、急速に国内が富んだのは事実だった。
噂では、なんでもそれらの知識はローマイアー男爵家による一人の令嬢が全てをもたらしたとされており、彼女は今や齢八つで既に神童を越え、聖女などと呼ばれている。
それが事実なのかどうかはどうでもいい。
聖女が歩けば光が後追い、花々が咲き乱れるという。
しかしその光が強ければ強いほど、その影もより濃く、濃密な闇となって現れる。
グレンツェント王国。
その臣下であるヴァイカート伯爵家は現在窮地に立たされていた。
恨みはしない。
国が富むのは良い事だ。
しかしヴァイカート伯爵家が手掛けるいくつかの事業は急速な発展に遅れをとり、旧態化。
特に大打撃だったのは、ヴァイカート伯爵家が羊皮紙を主産業としていたことだった。
けれどそれだけならば、まだ取り返しもつくもの。
しかし貿易関係にも力を入れていたヴァイカート伯爵家が唯一他国からシルクを輸入していたのだが、そのシルクの生産技術をローマイアー男爵家が国内で成功させてしまった。
それにより以前から目の敵にされている政敵達に執拗な攻撃を受け、それを捌くのに必死で、現状を打破する一手を打てないまま、後手後手へとまわったのがいけなかったのだろう。
既に多くの貴族へと根回しを済ませた敵対派閥と、旧態依然としてるヴァイカート伯爵家に利を見いだせなかった者たちが敵に回り、借金は膨れ上がり、ついには爵位を返上する結果となる。
――つまり平民落ちである。
時代の大きな波に飲み込まれる形で、人の悪意によってヴァイカート伯爵家は全てを失ってしまった。
◇◇◇
あばら家に寝そべるのは齢九つという幼い双子。
長い黒髪はしばらくの間まともに手入れもされておらず、以前のような上位貴族としてのプライドはとうの昔に地に落ちていた。
かつては活発に輝いていた藍色の瞳も、今は色彩を失っており、無心でカビたパンをかじる。
それでもその黒髪の少女――ノワールと、彼女の妹である白の髪を持つ少女――エーレは屋根があるだけマシといったようなあばら家で、二人膝を抱えながら身を寄せ合っていた。
隙間から運ばれてくる風は冷たく、屋根の端も一部が欠けていた。
しかし、それでも今の彼女達には充分である。
――彼女達は元ヴァイカート伯爵家の令嬢であった。
初めの不幸は第二夫人の親類である商家へと身を寄せるべく、突発的に行動してしまったこと。
一家が乗った馬車が盗賊に襲撃された。
本来貴族の乗るような馬車は盗賊も襲いはしない。
なぜならば、貴族が盗賊に襲われた場合、国内貴族は尊き血のメンツにかけて草の根をかき分けてでも襲撃者を見つけ出し、苛烈な報復するため、盗賊にとっても割に合わないのだ。
しかし、彼らは既に平民落ちした身であり、家紋付き馬車を扱う事が出来ない。
一般的な馬車を二頭の馬がひいていたことで、運悪く目をつけられてしまう。
家紋のないそこそこ立派な馬車。
それを見た盗賊達は彼らを少し裕福な平民と認識した。
事実それは間違いではない。
けれど、あまりにもタイミングが悪かったと言わざるを得ない。
賊はそこそこの規模だったのか、数名が馬に跨っていた。
恐らく兵士崩れの賊だったのだろう。
二頭立ての馬車でそんな賊から、逃げ切る事は不可能であると瞬時に判断できた。
父と母、そして子のなせなかった第二夫人は殊更ノワールとエーレを可愛がっていた。
そのため彼ら彼女らは愛娘であるノワールとエーレを逃すために、賊と戦う道を選んだ。
「いきなさい!」
母が護身用の長剣を抜いて叫ぶ。
父は他の盗賊達と剣戟を響かせ。
既にこちらを見てはいないが、必死に二人を逃がそうとしているのが分かった。
しかしノワールとエーレの二人はあまりに突然の出来事に、身体が硬直して動けないでいた。
「早くお逃げないさい!! フランツ――!! ……ノワールとエーレを頼みましたわ!」
「……はっ!」
それを見かねた第二夫人がそう言うやいなや、フランツは両脇にノワールとエーレを抱え疾走する。
長年ヴァイカート伯爵家に仕えていた最も信頼する執事であるフランツに二人を預け、三名の両親は命を賭して彼女たちを逃がす事に成功した。
背後から微かに聞こえる、聞き覚えのある悲鳴は、幼い二人にとって、どこか現実味のない叫び声に聞こえた。
◇◇◇
徒歩で町や村を経由し、三人で慎ましく生活しながら、第二夫人である彼女の親類の商家を目指した。
そうしてようやくの事で辿り着いたその商家は国内の急速発展により失業したと、行方知らずと、そう近所の住人に教えてもらった。
「……そうですか」
ノワールは目眩がする。
これからどうすればいいのか。
頼れるところはすでになくなった。
絶望を必死に抑え込み、ぐっと拳を握りしめる。
そうでもしなければ、腰からへたり込みそうだった。
「…………お姉さま」
妹のエーレが、そんなノワールの裾を少しつまむ。
正反対の髪色を持つ二人は双子だけあって身長も同じだが、どこか気弱な妹は姉と同じ藍色の瞳で、不安そうに姉の姿を上目遣いで見つめていた。
そんな妹の表情にハッとして、気丈に振る舞う。
「き、きっと大丈夫ですよエーレ。まだ資金も残っているもの。フランツと三人でなにかお仕事を探しましょうか」
そういってエーレの手を握り返しめたノワールの手は、わずかに震えていた。
エーレにとって姉は絶対の神童であった。
そんな姉は常々妹である自身の事を『私より遥かに上回る天才』と評していたが、エーレにとっては姉こそが真の天才であると考えていた。
姉は普段から大人びた様子で、常に冷静な人間であったし、この世界で知らない事などないのではないのかと思えるほど頼れる存在であった。
しかしそんな唯一頼れる姉が、今は酷く狼狽している。
その事が臆病なエーレを更に不安にさせた。
「さあ! とりあえずは今日の宿でも探しましょうか」
ノワールは姉としての矜持を強く持ち、精一杯の空元気の笑顔をエーレに見せる。
その痛々しい笑顔にエーレもフランツも当然気づいていたが、何も言わず。何も言えず。
「しばらくは節約せねばなりませぬ。ノワール様とエーレ様には窮屈な思いをさせるかもしれませんが、ここは一先ず安宿に滞在いたしましょう」
フランツが先程の空気を払拭させるよう、優しく微笑む。
「ええ。今の私達にはこの先の計画もなくなってしまいましたもの。贅沢など出来ぬ身です。フランツの進言通り安宿で構いませんわ。エーレもいいですね?」
「はい、もちろんです。お姉さま」
生まれた頃からの関係で、ノワールとエーレはフランツの事を祖父のように慕って信頼している。
そしてフランツの言う事ももっともであるため、ひとまず安宿を借りて慎ましく生活することに決めた。
しかし、幼いノワールとエーレは生粋の令嬢である。
そんな彼女たちがまともな仕事が出来るはずもなく、それでも仕事を探すが日々の暮らしは思うように上手く行かず、父と母達から託された僅かな資金は目減りする一方であった。
それでも三人でならなんとかやっていけると、なんの根拠もなくノワールはそう思っていた。
二つ目の不幸は忠臣であったフランツがノワールとエーレを置いて、残り僅かな金だけを全て持ち去り、夜の間にこつ然と姿をくらました事だろう。
正直二人は信じたくない気持ちでいっぱいであった。
もしかしたら、誰かに襲われたのかもしれないとも考えた。
しかし現実は無情であった。
宿屋の女将から、フランツは夜に一人逃げるように出ていったと聞かされ、唯一頼りになる大人であり、幼い頃から良くしてくれた忠臣に見限られた悔しさに、ノワールとエーレの目から涙が溢れる。
――ノワールとエーレはその日をキッカケに他者を信用する事が恐ろしくなった。
当然、金のない人間は客ではない。
半ば強制的に宿からも追い出されてしまった。
呆然と二人で手をつなぎながら街中を歩いていると、いつの間にか二人は貧民街に足を踏み入れていた。
フード付きのローブで顔は隠してはいるものの、自身達の容姿がひどく目立つ事は双子なだけあって、各々が充分に自覚している。
そのため、足早に貧民街を抜け出そうとする。
しかし、その途中で奇跡的に住人のいないボロの空き家を見つけたため、二人は一時的にこのボロ小屋で過ごすことになる。
なんとか衣食住の住は手に入れたとはいえ、食がなければ生きていけない。
そのため街に出ては物乞いのように、どうにかして食べ物を恵んでもらうか、残飯を漁る日々。
ある時には食料や金銭の類いを盗みもした。
危険な目には何度もあったが、なんとか二人協力して約一年もの間ギリギリ生にしがみついて生きてきた。
嘆く日々に嫌気がさし、悲しむ事にも疲れ果てた頃、ノワールが高熱を出して倒れる。
そしてそれに呼応するようにして数日後、妹のエーレも熱を出して倒れる。
ベッド代わりの藁に二人包まり、抱き合い、寒さに凍えながら、不条理な人生を嘆く二人の少女はもう半ば生きる事を諦めていた。
◇◇◇
ノワールとエーレが熱を出し倒れたこの病は、稀に魔力を多く持つ者が体内で魔力暴走を起こした結果の病であり、本来ならばそれを他者の手を借りて安定させ、体内の魔力を鎮める処置を施すのが一般的である。
魔力を持つ者の殆どが貴族階級であり、更に魔力を暴走させる程の多大な魔力量を持つ者は大貴族の中でも稀である。
それゆえこの病は〝英雄の病〟と呼ばれている。
本来〝英雄の病〟に罹患する者は大貴族である。
つまりすぐに処置できる身分だ。
放置すればいずれ死に至る病ではあるが、体内魔力の安定化に施す処置は簡易なものであり、時間的猶予も多分にある。
そのためこの病を発生させ死んでしまうような状況は、現代においてはゼロに等しい。
とはいえ大きく歴史を遡って、対処法がなかった時代の数少ない過去の症例を合わせると、その致死率は驚異の100%を誇っていた。
「……エーレ、生きていますか?」
「…………はい、なんとか、お姉さま」
もう声をだすのも億劫な少女達。
それでもこの二人は生まれた頃より常にそばにいて、そして今では誰よりも信頼できる相手であった。
「エーレ、私達は……ずっと一緒ですよ」
「はい、お姉さま。例え死んでしまってもずっと……ずっと……」
掠れた声で言葉を告げる。
二人は既に死期というものを悟っていた。
背後に死神がやってくるような、おぞましい感覚。
本能でこれが最後の会話なのだと、お互いがお互いを理解しあっていた。
「そしてもしなにかの奇跡で二人で生き残っても――」
「もしどちらかが死んで、どちらかが生き残っても――」
大の字に寝転がっていた二人はやっとの事で頭を動かし、鏡のように似た顔を見合わる。
生まれてから、何度も見た顔がそこにはあった。
透き通るような藍色の瞳からとうに枯れたはずの涙が頬を伝っているのを見て、お互いがお互い涙している事に気づく。
少し距離が離れているが、けれどそのまま懸命にお互いが片手を伸ばし合う。
互いの指先は震えており、身体の力は上手く入らず、それでもやっとのことで指先を絡めるようにして手を繋ぐ。
最後までもう決して解けぬよう。
姉妹はその手の温もりがあるだけで、背後の死神からの不安が少し和らいだ。
「「私達は二人で一人、一人で二人」」
これは二人の幼い頃からのお遊びで、おまじないのような言葉だった。
双子という強い絆で結ばれた、誰よりも信頼できる他人。
嫌なことがあった日には、よく口にしていた二人だけの秘密の言葉。
黒の長い髪と白の長い髪が床に乱雑に混じり合っている。
熱で倒れるような事がなければ、売る予定だったはずの髪。
「……だから…………ずっと一緒ですよね……? お姉さま……」
「ええ、エーレ。ずっと一緒ですよ」
「お姉さま……大好きです」
「……私も大好きよ」
二人は軽く微笑み、どちらともなく静かに意識が落ちる。
――そして幾重にも重なった偶然は、必然の奇跡を呼び寄せることとなる。