第86話 深淵
「あ、馬が見えてきた」
ザンギが言った。遠くの黒い点が馬とわかるのは、さすが遊牧の民だと感心した。
「よく見えますね。視力は2.0くらいですか?」
「前に調べてもらったとき、8.0だと言われた」
なるほど。それなら見えるはずだ。
ところが、馬のほうへ足を速めると、
「……む?」
ザンギの顔が険しくなった。
「どうしました」
「あの馬ども……ツノが3本ある」
「え?」
僕の目には、まだそこまで見えなかった。
しかし視力8.0が言うのなら間違いない。
「ツノが3本というと、クレイジーホースがそうですが」
ポイズンテールと同じく、山越えするときに会ったモンスターだ。炎のように真っ赤な姿は迫力があったが、【眼福】で視ると、いつでも荷物や人間を運べるように走って鍛えている、働き者タイプのモンスターであることがわかった。
「ジャック。もしあれがクレイジーホース改で、人間を襲うようになっていたとしたら、どうしたらいい?」
「前にも言ったが、鼻の先にニンジンをぶら下げれば、それを追ってどこまでも駆けていく。しかしニンジンをつけるのに手間取ってると、ツノで心臓をひと突きだ」
「どうもそれは危険だな。まず【眼福】で性質を見てみよう」
3本のツノがくっきり見えてきたあたりで、【眼福】を発動させた。
やはり……邪悪でしかない。
「本来人間の仲間になれるタイプのモンスターを、誰かが邪悪にした。そいつを許せない。そいつこそ、この世界の敵だ!」
見えない敵に向かって、拳を握る。
「アリスター、クレイジーホース改の弱点は視えた?」
「いや、本来【眼福】は、対象の隠された良い面が拡大されて視えるスキルだ。弱点まではそうそう視えない」
クレイジーホース改はぐんぐん近づいてくる。時速はおそらく100キロを超えているだろう。その数は3体。
「やるしかないな。セイラ、頼む」
「ホーリーレイン!」
抜けるような青空から、聖なる雨が降る。
しかしーー
HIHIEEEEEYN!!
狂ったように疾走するクレイジーホース改は、雨を浴びても平気で迫ってきた。
「ダメだわ。脂の汗を掻いていて、それが水を弾くのよ」
「水以外の技だ!」
「ホーリーストライク!」
聖なる衝撃波が襲いかかる。するとそれを、ジャンプで飛び越えた。
「ホーリーアロー!」
聖なる矢も、次々と躱して走ってくる。
「チビ鬼、じゃなかった、オーク! コンフュージョンを出してくれ」
「オイラはまだ、自在に技を出せない。悪いな」
クレイジーホース改は、その理性を失った顔が見えるほど近づいてきた。何かしら、手を打たなくてはならない。
「みんな、どけ」
かつての青鬼、今や覚醒して赤黒い身体になったオーガが、仁王立ちになった。
「闇属性の技を出す。危険だから、できるだけ遠くに離れていろ」
「わかった」
僕らは走った。セイラも、ジャックも、オークもラブちゃんもルイベも。ピヨちゃんは空高く飛んだ。
「?」
気がつくと、ザンギが来ていなかった。
「ザンギ、早くこっちへ! できるだけ離れるんだ!」
しかしザンギは動かない。
「ルイベ、ザンギはどうしたんだ?」
ザンギはクレイジーホース改に向かって、何かを叫んでいた。
「お父さんは、馬と話せるの。だからあの馬の目を見て、誠心誠意話してるのよ」
「バカな。あれは理性のない邪悪なモンスターだ。馬とは全然違う」
クレイジーホース改が飛んだ。
ザンギがそれに向かって懸命に手を振る。
「どけえ、男! 技を出すぞお!」
オーガが怒鳴る。しかしもう、手遅れだった。
クレイジーホース改が頭を下げ、ザンギの心臓をツノで突き刺した。
血を吐いて、大地に倒れるザンギ。
「ヒーリング!」
セイラの叫びは虚しく響いた。ザンギが即死したことは、誰の目にも明らかだった。
「キスして!」
ルイベが抱きついてきた。僕はその紅い唇を避け、セイラにルイベを預けた。
「オーガ、危ない! 早く技を!」
オーガはギリギリまで、3体のクレイジーホース改を引きつけた。
オーガの口がくわっと開く。
「ダークグレイブ!」
その瞬間、オーガとクレイジーホース改とのあいだに、真っ黒な深淵が出現した。
3体のクレイジーホース改は、その黒い穴を覗いた。
するとーー
HIEEEEEEE!
弱々しく嘶いて、深淵の中に呑み込まれていった。
クレイジーホース改が消える瞬間の目が見えた。
それは、今から永遠の墓場へ行くことを悟って、限りない哀しみを浮かべた目だった。
深淵は閉じた。
僕らは立ち上がった。
仁王立ちのままでいるオーガと、殺されたザンギの元へ行く。
先に着いたピヨちゃんが、ザンギの死体をついばんでいた。
そこへ寄っていったラブちゃんが、地面の血を舐めた。
「おい、何をしてる。やめろ」
そう言った僕は、ハッとたじろいだ。
驚くべき変化が起こっていた。




