第31話 美しい星
僕を打ちのめした敗北感の正体は、
(青鬼が、迷うことなく、自分の小指を与えた。しかもあの親子が、魔物かどうか知ろうともせずに)
という、人の心をなくした鬼に、「無償の愛」の点で負けたという思いと、
(あの母親は、すべての指を娘に食べさせていた。それなのに、僕はたった1本の指さえ上げることができなった。その点で、僕はあの母親の足元にも及ばない)
という、自己犠牲を払えなかった自分に対する、失望や幻滅が入り混じった感情だった。
「アリスター、元気出して」
と、老婆の力によって【変容】を使えなくされたセイラが、その悔しさや苦しさを見せずに、
「闇の世界に来たんだもん。嫌な思いをするのは当然だよ。むしろ何もなかったら、そっちのほうが異常でしょ?」
美しい笑顔で僕を励ましてくれた。
「そうだね。ちょっとくらいヘビーなことがあったからって、暗い顔してたらダメだね。さっきジャックも言ってたけど、世界中には、餓死する子どもが何百万人もいる。そのうちのたった1人でさえ、僕には救えない。その現実を直視することから、まず始めないと」
「だけど、さっきの親子のことでは、いいこともあったよ」
「何?」
「鬼さんが、実は親切だってわかったこと」
「…………」
「あと、あのお母さんが、娘想いのすごい人だってわかったことも。私、もし母親になっても、自分の両手の指をあげることなんて絶対できない」
「…………」
セイラもやはり、僕と同じことを思っていた。ただ違うのは、セイラがそれを「いいこと」と認識し、僕は「負けた」と感じたということだ。
「そうか。それを、いいことだと思えばいいんだね」
「もちろん! そういう物の見方って、私アリスターから学んだんだよ。【眼福】って、人や物の隠された良いところを、拡大して視るスキルのことでしょ?」
「う、うん。そのとおりさ。まあ僕の【眼福】は、まだまだだけどね」
それは偽りのない本音だった。僕は、まだまだだ。
「おや、月が出てきたよ。こんな闇の底も、月は平等に照らすねえ」
老婆がキーキーと言った。見上げると、半分欠けた月が空にかかっていた。そしてその光は、無条件に美しかった。
(日の当たる世界でも、闇の世界でも、月は平等か。できれば僕も月のようでありたい。セイラも、老婆も、鬼も小人も、等しく幸福になることを願える人間に)
「おや」
空を見上げた老婆が、また声を上げた。
「今度は雪が降ってきたよ。月と雪が一緒に見られるとは珍しい。きっと今夜は、良いことがあるねえ」
闇に棲む老婆が言う「良いこと」を、文字どおり良いものと思えない自分は、物事を斜めに見過ぎているだろうか?
それはともかく。
地獄谷に降る雪は、奇跡のように美しかった。
それは真珠色に光りながら、ちらちら、ちらちらと、スローモーションで舞い降りてきた。
「気持ちエエな。ワテ、雪が大好きやねん!」
ラブラドール・レトリバーのラブちゃんが喜んで、ぐるぐる走り回った。
雪はしだいに嵩を増し、谷底を銀世界に変えた。
「きれい……」
セイラの口から、感嘆の声が洩れた。
やがてーー
雪がやみ、空が晴れ渡った。
すると、満天に無数の星々が現れた。
僕は声を失った。
あまりにも、それは美しかった。
(星って、こんなに数があったのか? 空一面を覆い尽くしているじゃないか。こんな風景は見たことがない。キレイすぎて、何だか怖いくらいだ……)
僕は気づいた。闇が濃ければ濃いほど、星はよく光る。だから星空が、こんなにも美しいのだと。
(闇の世界の住民こそ、この世の真の美しさを知っている)
それをまざまざと知った。
「ねえ、ジャック」
口を開いたとき、僕はかすかに震えていた。
「僕らの住んでいる世界って、恐ろしいくらいにキレイなんだね」
「そうだな」
ジャックは同意してくれた。
「星も、月も、雪も、圧倒的に美しい。世界にこれほど美があふれていることは、感動的なくらいだ。それに比べると、人間のやってることが、醜く思えてくる」
「そうだね」
僕もジャックに同意した。
「闇の世界に来て、この世は本当は美しいんだってことを、思い知らされた気がする。なのに、醜いことがあるのは、人間に責任がある。人間が変われば、きっとこの世は、とんでもなく素晴らしい場所になるよ」
「そうなったときが、全世界が【幸福】になるときだな」
「うん。自然の美しさに、人間が追いつけばいいんだ。星や雪が、お手本を示してくれている。だからきっと、それは不可能じゃないよ」
「アリスターと話してると、不可能に見えることも、起こりそうに思えてくるな」
「おい、あんたたち」
猿のミイラそっくりの老婆が、小人の死体につけた火を手で叩いて消しながら、
「さっきから空ばっかり見て、何をごちゃごちゃ言ってるんだい。夜に星が見えて、雪が上から下に降るのは、当たり前のことじゃないか」
そう憎らしげに言うと、小人の死体を頭陀袋にしまい、軽々と肩に担いで歩き出した。
「まったく、人間ってのは変だねえ。星や雪は、人間の生まれる前から何にも変わっちゃいないのに、さも自分たちが美しさを発見したみたいに感動してさ。人間が誕生する前から、星は今と同じに光ってたよ」
僕は、小さな老婆のぴょこぴょこ揺れる背中を、ぼんやりと眺めた。なるほど、老婆の言うとおりだ。僕らが誕生しなくたって、星は美しく光る……
「何だって!?」
僕は声を張りあげた。そのくらい、驚いていた。
「ちょ、ちょっと待って。あなたは、それを見たんですか?」
老婆は、まるで機械仕掛けの人形のようにクルッと振り返った。
「そうさ」
「ということは、あなたは人類が誕生する前から、ずっと生きてるんですね?」
「ずっとずっと前からね。だってあたしの年齢は、1億歳を超えてるもの」
僕の両手は、自然と前に伸びた。この歴史の生き証人を、無意識につかもうとして。
「お願いです、教えて下さい。人間は、どのようにして生まれたんですか?」