時計
秒針の音って一度気になりだすとずっと気になるのなんなんだろう
どうしてここを歩いているんだろう。
そう思った途端、靄がかかったようにはっきりしなかった意識が戻ってきた。足を止めて、辺りを見回す。
裸の街路樹。
車が二台、やっと通れるくらいの石畳の道。
ぴかぴか照らす太陽の光。
…ここはどこだろう。僕は、少し首をかしげる。
記憶をたどるが、全く身に覚えのない景色だ。考え事をしていたから、道を間違えたんだろうか。……というか、僕はどこへ向かっているんだ?
ひゅう、と肌を刺すように風が吹く。寒いな。
着ているニットカーディガンの袖をのばして、手をさする。枯れ葉の集団が舞い踊るカラカラという音以外、何も聞こえてこない。あまりに静かすぎる街。
道の両脇には、お店のような、はたまた家のような、似たような外観の建物が連なっている。人気はなく、誰もいないようだ。
左右にきょろきょろ視線を動かす。と、一つだけ雰囲気の違うレンガ造りの建物を見つけた。
石畳の道に面した壁のちょうど真ん中にドア。
ドアを挟んで左側はレンガ、右側はガラス張りになっている。
ガラス越しに、何か見えないかな。そう思って覗きこんでみたけれど、陽の光が反射してまぶしいだけだった。
ダークブラウンの木でできたドアには何か書かれているみたいだったけど、かすれていて読めなかった。だいぶ年季が入っているんだろう。書き直さないんだろうか。
ふと気づくと、少しくすんだ金色の取っ手に右手を伸ばしていた。触れた手が痛くなるくらいに冷えている。
握って、そっと自分の方へ引く。吸い込まれるみたいに、ドアをくぐった。
室内に一歩足を踏み入れると、時計の針の動く音が、あちらこちらから覆いかぶさってきた。
かち。こち。かち。こち。
かちん。かちん。
ちっ。ちっ。ちっ。
「うわ………」
それもそのはず。部屋の中は、僕が入ってきたドアのある壁以外の三方すべて、時計で埋めつくされていた。
直径が僕の片腕分もある時計。文字盤の小さな腕時計。鳩時計やオフィスで使われていそうなシンプルなものまで。
数えきれないほどの時計が、壁を見せまいとするように並べられている。
「いらっしゃいませ」
時計たちに見入っていた僕は、びっくりして一瞬息が止まった。人がいるなんて気づかなかった。
気付かれてはいないだろうけど、多少の気恥ずかしさに、声がした方へぎこちなく顔を向ける。
ドアをくぐって左側に、ドアの木と同じダークブラウンの色をしたカウンターがあった。
そして、そこには黒のベストを着た男性が立っていた。
いくつぐらいだろう。三十代と言われればそうかもしれないが、二十代と言われても納得できる。でも、男性のまとう空気は四十代と言ってもいい程重みがあるし。いやでも老け顔の十代という線も…。年齢を推測するのは苦手だ。
そもそも、店の中は電気がついていないから薄暗い。ガラスから入る明りもあるけど、暗さを強調する役割しか果たしていない。……そんな状況で推測もなにもないか。
しゃんと背筋を伸ばして立つ男性に、この場所のことを尋ねるために口を開く。
「ここは、一体? 時計屋さん…ですか?」
「いいえ。時計屋ではありません」
首を横に振る男性の近くへ歩み寄る。
店じゃないのなら、どうしてこんなに時計があるんだろう。コレクションなのか?
「ここにある時計は、売り物ではないのです。これらは全て、私が『ひと』から預かったものなのですよ。
預け主の方が取りに来られるまで、こうしてこの場に飾っておくことにしているのです」
うるさくてすみません。と申し訳なさそうに苦笑する男性の背後にも、ずらりと時計が並べかけられている。
「それぞれ示す時間が違うのは、預かった時から時を刻んでいるため。現在の正確な時刻を指しているものは、滅多にありません」
話を聞きながら、僕はある一つの時計にすーっと目が行った。
それは針が動いていない、止まった時計だった。
「あの、」
口をついて出た言葉に、僕は文字通り固まった。
「時計を受け取らせてください」
……何を言ってるんだ?
僕はついさっきこの建物を見つけた。ここに来たことは無いはずだ。外の景色だって知らなかった。
僕が混乱しているのに気付いていないのか、それとも気にしていないのか。男性は、あぁ、と呟く。
「やはり、取りに来られた方だったんですね。音が止んだので、もうそろそろだと思っていました」
微笑んで、壁を振り返る。
そこから、あの止まった時計を取り外し、手渡してきた。梱包したり、袋に入れたりすることなく、そのまま。
「どうぞ」
「あ、りがとうございます」
白の文字盤に、丸みを帯びたフォントの一から十二の数字が、等間隔に配置されている。長針や短針、秒針の先はアイスの棒のように丸まっている。
表面に指で触れると、はめ込まれた透明なカバーに指紋がついた。周囲を支える木目の綺麗な明るい色の木材は、ひんやり冷えているはずなのに、何故か温かみを感じる。
どこかなつかしいと思った。
時計を腕の中に抱えると、これ以上ないくらいしっくりおさまった。
根拠も、預けた覚えもないけど、これは僕のも時計なんだろう。間違いなく。
◆◆◆
ニットのカーディガンを着た、自分より身長の低く、年齢も年下であろう彼が扉を開いた。
「ご利用、ありがとうございました」
私が深く礼をすると、彼はぺこりと会釈を返し、そして音もなくかき消えた。つかの間の寄り道を終えて、正しい道へ戻ったのだろう。
扉を閉めて、定位置のカウンター内へ入る。
先程まで時計があった場所は、ぽっかり穴が空いている。
彼の持っていった時計は、彼の人生そのものだ。生きている間は動き、時を刻み、思い出を記憶し続ける。
しかし、そうでなくなったら。
たくさんの針の音の一つが、また、そっと消えていく。
どこかでけたたましく救急車のサイレンが鳴っている。誰かのすすり泣きや、嗚咽がかすかに聞こえてくる。
私は、ズボンのポケットに片手を滑り込ませ、きらりと輝く懐中時計を取り出した。
そして、もうカチリとも動かないそれを、指先でなぞった。
『時計が止まると、』