交換
初めて「死にたい」と思ったのは小学4年生の時だった。
正義というものをまだ信じていたあの頃。
クラスメイトの吉田君がいじめられているのを見て「やめようよ」と言った。
先生は俺に教えてくれた。
自分がされて嫌なことは他人にしてはいけません。
だから、教えられた通りにしたら、次の日から俺がいじめられるようになった。いじめるメンバーには吉田君も入っていた。
それから、中学高校大学と気持ち悪いと言われて生きてきた。
社会人になってからは役立たずと言われて生きてきた。
俺は知った。
世の中は結局、自分がされて嫌なことを他人に出来る人間が勝つように出来ているんだと。
いつもの病院。
医者は言った。
「あなたはどうしたら生きたいと思えるんでしょうね」
俺は答えた。
「そんなのこっちが訊きたいですよ」
医者は言った。
「それもそうですね。今の言葉は忘れて下さい」
受付で支払いを済ませた俺は大きく溜め息をつきながら入口ではなく病院の中庭へと向かった。
家に帰れば母親が期待に満ちた目で訊いてくる。
「今日はどうだった?」
正解の答えは分かるけれど、言えば嘘つきになるから何も言えない。
扉を開けた瞬間に大きくなる蝉の声。生ぬるい空気が身体を包む。
ひまわりが咲く花壇と1本の大きな木とその下にベンチがひとつある小さな中庭。
ベンチに向かって歩いて行き、だらりと座る。
暑い。じっとしているだけで汗がふきだしてくる。
長袖をめくりあげると傷だらけの左手首が見える。
古い傷跡と昨日出来たばかりの新しい傷跡。
醜い。
「ああ、死にてえな……」
今や知っている言葉の中で一番口にすることが多くなった言葉を呟く。すると――
「死にたいの?」
耳元から声がした。
「……え?」
驚いて振り向くとそこには小学校低学年ほどの幼い少年がいた。
水色と白のチェックのパジャマ姿。ベンチの後ろから顔を出して、にこにこと笑っている。
「お兄さん、死にたいの?」
少年はもう一度問いかけを繰り返すと隣に座ってきた。
入院している子、だろうか。やけに色が白くて、これだけ暑い日にも関わらず、全く汗をかいていなかった。
「いや、あの……」
どう返したら良いか分からず戸惑っていると少年は更に距離をつめてきた。
「その願い、叶えてあげようか」
そう言うと少年はにやりと笑って俺の両手を掴んだ。
冷たい。
そう思った瞬間に頭がぐらりとした。
次に意識が戻った時には目の前に俺がいた。
え……。
訳が分からなくて自分を見ると水色と白のチェックのパジャマが目に入った。
これはあの子の身体? 俺、身体が入れ替わってる?
それと共に気付く。
息、してない。
今まで当たり前にしていた呼吸を自分がしていないことに気付く。
胸に手を置く。
心臓が動いていない。
さっきまで当たり前にあったものがない。
俺、死んでる?
目の前の俺を見ると俺はにっこり笑ってまた両手を握った。
温かい。
また頭がぐらりとする。
次に意識が戻った時、俺は俺に戻っていた。
大きく息を吐く。
息、してる。
胸に手を置く。
心臓、動いてる。
吹き出す汗。
生きてる。
「君は、死んでるのか?」
信じられない気持ちで震える声で訊ねると少年は静かに目を細めて言った。
「また死にたくなったらおいでよ。いつでも交換してあげるから」と。
それから俺は少年に会いに行くようになった。少年と身体を交換しては何度も死んでは生き返った。
「最近、笑うようになったわね」
ある日、母親が嬉しそうに言った。どうやら今の俺の精神は安定しているらしい。
病院に行ってくると言うと母親は笑顔で「行ってらっしゃい」と見送ってくれた。
中庭に行くと花壇のひまわりが枯れていた。
ベンチにだらりと座って長袖をめくると手首の古い傷跡が目に入る。
そう言えば、最近切ってないな……。
リストカットも睡眠薬もここで体感できることに比べれば生ぬるく感じた。
「お兄さん、また来てくれたんだね」
少年がにこにこ笑って俺の隣に腰掛ける。俺は「ああ」と両手を差し出す。
「今日も、交換してくれ」
少年は「もちろんだよ」といつも通り俺の両手を握った。
冷たい感覚がして頭がぐらりとする。
意識が戻ると視界が変わる。目の前に俺がいる。
呼吸が無くなる。心音が無くなる。
このからっぽが俺を安心させる。
目の前の俺は反対に呼吸が出来ること、心臓が鳴ることを味わっている。
嬉しそうに幸せそうに俺になった少年は微笑んでいる。
そんなにその身体がいいんだろうか。
満足した俺は両手を差し出す。
「ありがとう、もういいよ」
しかし、少年は今度は両手を出してくれない。
「? どうした? さあ、交換しよう」
少年は手を差し出さないまま、じっと俺を見つめている。
「お兄さんは死にたいんでしょ」
「え?」
「この命はいらないんでしょ」
「いや、あの……」
「僕ね、ずっと思ってたんだ。いらないんならくれればいいのにって」
「何を言って……」
「その身体は君にあげるよ。私はね、もう死にたくないんだよ」
そう言うと俺になった少年は逃げ出した。慌てて追いかけようとする。でも、身体がベンチから離れない。ここに縛られている? その間にも俺になった少年はどんどんと遠くなっていく。嬉しくてたまらないように笑い声が中庭に響く。
待ってくれ……、待ってくれ……。
先程まで安心感を与えていたものが急に怖くなる。
呼吸が出来ない。心臓が鳴らない。からっぽのからっぽの身体。
もう、二度と戻ってこないあのうっとうしかったものたち。
いやだ。
いやだいやだいやだ!
死にたくない……。生きたい……。
蝉がうるさいほどに鳴いている。
花壇では今年もひまわりが咲く。
1人の青年がこちらに向かってふらりふらりと歩いてくる。
だらりとベンチに座って自身の左手首を見ながらぼそりと呟く。
「ああ、死にたいな……」
俺は後ろから話し掛ける。
「死にたいの?」
驚き振り向く青年に俺はにこにこ笑いかける。
「お兄さん、死にたいの?」
それなら俺と交換しよう。
俺はね、もう死にたくないんだよ。