自分スケッチ
ゴムの靴裏がフローリングを擦る音。空気いっぱいのボールを乱暴に叩きつける音。音量調節が効かない声。乾いた笑い声。
その全てが必要以上に力強く、情熱的で馬鹿馬鹿しい。狭苦しい範囲を駆け回る体操着達を、置物になった気持ちで見ていた。
私は三角座りが好きだ。
自分の膝に頬を置けばひんやりして気持ちがいいし、足の隙間から視線をごまかして、好きなところを観察出来る。
「何見てんの」
急に横から声を掛けられたので、首を動かして視線をそちらへやった。
丁度女子の第一ゲームが終わったらしい。友人のミサキがそこにあぐらをかいていた。
色白の肌に、化粧もしていないのに赤い唇が映える。『天使の輪』が浮かんだ綺麗な黒髪をポニーテールにしていて、可愛い。自分の似合う髪型を分かっているのだ。汗ばんだ彼女の体からは、制汗剤のピーチの香りがふんわりと漂う。
お人形さんみたいだ。特にこんな無表情の時は。
「別に何も」
「あんまり見てたらうるさいよ」
ミサキは私の答えを無視して肩をすくめた。
そして、私達から少し離れたところで、輪を作って談笑している女子達に目をやった。彼女達は、時々驚くほど大きな声で笑う。
「何話してるのかな」
私はふと浮かんだ疑問をこぼした。
「ナカフジの彼氏は誰だーって話じゃん。あんなクソでかい声で話してるのに聞こえてないの? そういうとこ鈍感」
「ごめん」
「謝られても」
「でも多分年上の人だよ。ナカフジさんのネックレスって何万とかするやつだもん。前雑誌で見た」
そこまで言うと、ミサキは意外そうな顔をした。
「あんたのそういうとこ、ちょっと怖いんだけど」
「でしょ」
それからは話題が続かなかった。私は相変わらず膝の隙間から観察を続けて、ミサキは制汗剤の裏を眺めていた。彼女はちょっとした活字中毒なのだ。
私は観察対象を変えて、顔を横に向け、腕で顔を隠しながら、女子の輪を見た。
一番よく喋っているのは、さっちゃんだ。
最近髪を切ってボブヘアーになった。くりっとしたつぶらな瞳が、彼女の気さくさを思わせる。
なんでもそつなくこなしてしまうタイプで、友達が多い。とりあえず彼女の傍にいれば、このクラスの中で疎外感を感じることはないだろう。
さっちゃんは味方を作るのがうまい。彼女の周りには精緻な防衛線がびっしりと張り巡らされている。それが少しでも崩れると、彼女は不安で仕方がない。 彼女のような人を、みんなは『人気者』と呼ぶ。
さっちゃんの隣で時々爆ぜたように笑う茶髪のおさげ頭は、ノガミさん。
彼女の相槌はよく計算されている。相手の話に組み込まれた様々な期待を汲み取って、それとなく褒めたり、フォローを入れたり、大きな声で笑ったりする。
彼女の言葉は空虚なのに、受け取った相手はそれで満足してしまう。
重要なのは、彼女は嘘吐きではないということだ。彼女が望まずとも、彼女の言葉はどこかで意味を失ってしまったのだ。
その隣は、ミズウラさん。
陸上部で、スポーツなら女子の中では敵無しだ。表裏が無い性格に見られていて、みんなの信頼が厚い。
委員会で誰も手を上げないとき、よく手を挙げて仕事を請け負っている。責任感が強いから、仕事はきちんとやる。
表には出さないけど、本当は自分に面倒事が回ってくる状況を憎んでいる。そして自分を追い込む自分自身にも、同じくらいうんざりしているのだと思う。
その奥は、サカイさん。
他の女子と比べると大人しいが、周囲の雰囲気がざわついたとき、すっと気をきかせてバランスを取り持つような、器用な性格だ。
争いごとが嫌いで、滅多に口喧嘩をしない。その場が誰かの悪口で盛り上がったら、何気なく身を引いて輪から外れる。
彼女は誰よりもドライだ。
運動会でクラスの優勝が決まって沸き立ち、何人かが感極まって涙した時、彼女は笑顔の奥で後片付けのことを考えていただろう。あまり他人に興味が無いのかもしれない。
その隣は……。
突然、さっちゃん達が話すのをやめて、男子がバスケをしているコートの方を振り返った。
私もその方を見ると、キシモトくんがさっちゃんたちに手を振っていた。男子コートから、ボールが転がってきたのだ。
「いくよーっ」
ノガミさんが元気よく応じてボールを広い、投げ渡した。キシモトくんはぱしっと受け取って、
「ナイスー! ありがと!」
と叫んでコートへ戻っていった。ノガミさんはしゃがんで輪に戻ると、
「ナイスぅ、だって」
と笑った。
周りも釣られたように吹き出した。
何笑ってんの、と隣でミサキが吐き捨てるように呟いた。
授業終わりの鐘が鳴って、挨拶が終わると、私は小走りで更衣室へ向かった。
この後の昼休みに生徒会の仕事があるので、速く体操服から制服に着替える必要があったのだ。
引き戸の扉を開けると、無人の白い部屋が現れた。白い長方形のロッカーが、ひしめき合うように二段に立て付けられていて、部屋の三方を囲んでいる。窓はなく、電気をつけなければ薄暗い。入り口付近には、丸い鏡と流しがある。
私がいつもどおりその部屋に足を踏み入れ、パチンと電灯のスイッチを押した瞬間、周りの音が消えた。
慌ただしい足音、靴箱を閉じる音、喋り声、笑い声。その全てが沈黙した。
時が止まったのだろうか。
私は夢見心地で殺風景な部屋の真ん中に立っていた。もう私以外にだれもこの部屋には入ってこられない。その確信があった。
この奇妙な個室の中で、私の胸は高鳴った。目の前に広がる白い長方形。
このロッカーはただの着替え用だから、鍵はついてない。ただ、個々にロッカーの場所は決められている。校則で着替え以外の利用は禁止とは言われているが、ばれない限りはそこに何をどう入れるのかは自由だ。
着替えを几帳面に畳む。乱暴に突っ込んでいる。オキベンをしている。『学業に不必要なもの』を隠している。
周りの目を盗んで、違反ができる特別な場所。
私は、目の前に整列したロッカーを、片っ端から開けてみたい衝動に駆られた。その中身を暴いて、観察し、私の頭の中だけに保存しておきたい。
私はまず、ノガミさんのロッカーに手をかけた。体育の授業でのキシモトくんに対する彼女の態度は、私もなんとなく気に入らなかった。だから最初にその心の中を覗いてやりたくなったのかもしれない。
ぐいっと手を引いて、その扉を開放する。私はあっと声を上げた。そこにはノガミさんが居たのだ。
しかし、彼女は眠っていた。その身体を限界まで折りたたんで、そこに三角座りをするような格好で。さっきまで体育をしていたはずの彼女は、制服を着ていた。
ノガミさんは、全く起きる気配を見せなかった。呼吸をしているのかさえ曖昧だ。
私はまじまじとその姿を見つめた。
まつげが長く臥せって、いつも張り付いている笑みが剥ぎ取られ、口元に表情は無い。いつも日焼けを気にしているからか、肌は透明感がある。柔らかく毛が生えたむき出しの腕と足が、曲線を描いて、自らの身体を包み込んでいる。
私の頭の中のノガミさんは、いつも笑っている。
表情を自在に操って、人の機嫌を取っている。でも、目の前の彼女は、ホルマリン漬けにされたように静止している。こんなにも純粋で、美しい少女が彼女の中には居るのだ。教室で愛想を振りまく彼女より、ずっと綺麗だった。
私はそのロッカーを開けっ放しにしたまま、さっちゃんのロッカーも開けた。
彼女も同じように、いつものお喋りは息を潜めて、目を閉じて沈黙したまま、ロッカーにきちんと収まっていた。
私は次々と扉を開けていった。ミズウラさん、サカイさん……クラスのみんなを観察して、そして、ミサキの番。
ミサキは一段と美しく見えた。ポニーテールの影が浮かぶうなじは、吸い込まれそうにしなやかだ。
小さくて色白の顔に、ぷっくりとした華やかな唇。女性らしい曲線を伴った腕。スカートの淵から覗く太ももまで、にくづきが良くて、見とれてしまう。
満足した私は、ミサキから目を離し、ロッカーから数歩離れて、全て開け放されたロッカー達を眺めた。四角に収まった、制服姿の少女たちの肉体が精巧な彫刻のようで、美術館のようなその光景に、目を奪われた。
しかし、端っこに一つだけ閉ざされたままのロッカーがあった。私のロッカーだった。一つだけ閉まっているのも見栄えが悪いので、そのロッカーも開けることにした。
相変わらず、そこには私自身が眠っていた。
なんのとりえもない、平凡な私。
当然ながら、自分の寝顔を見るのは初めてだ。ここまで無感動にさせられるとは思わなかった。いつも鏡で見る顔が目を閉じているだけ。
けれど、発見もあった。私はうなじのところに、にきびがある。あることは知っていたが、これほど赤くなってしまっているとは知らなかった。
それに、鏡でみるよりも顔のえらが張っているように見える。ミサキのように綺麗な形ではない。足がなんだかむくんでいて不格好だ。腕も、肘のところにホクロがあるなんて知らなかった。唇は、色が薄くて、乾燥してる。
これは、本当に私なのだろうか。
私の目の前でロッカーに入っているのが、私?
私が私を見ている?
これが私なら今考えている私は誰?
これも私で、私は私で、私が、ここに、
ばん、と音を立てて、私は叩きつけるように扉を閉じた。
「ちょっとぉ、何急いでんの?」
背後から声がして、振り返った。
その瞬間、学校中の雑踏が息を吹き返した。
ミサキが、額に汗を浮かべてそこに立っていた。私を追いかけてきたのだろう。
つかつかと中に入り、ミサキは自分のロッカーを開けた。ロッカーの扉はもう全て閉じきっていた。ミサキのロッカーには、制服が軽く畳まれて置かれていた。
「委員会があるから」
答えて、私は自分のロッカーを開け、そそくさと着替え始めた。私の制服はいつも雑に放り込まれているな、と今更のように思った。
着替えていると、ぞろぞろと、さっちゃん達や他のクラスメイトもロッカールームで着替え始めた。更衣室は、とりとめのないゴシップや悪口や芸能ニュースのお喋りと、制汗剤とスナック菓子の匂いで満たされた。
私はその日から、三角座りが苦手になってしまった。