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月を翔ける蝶

作者: 栖道

 

「もうダメなの・・・どうにもならない」

 月明かりに照らされて彼女はその場所にいた。

 彼女の悲哀に満ちた声に僕はなんて言葉を返せばいいかわからなかった。


 ***


 エクセンブルク通り25番地。

 小さなアパルトマンの3階。屋根に沿って天井が斜めになっている部屋の一室。

 そこに僕の世界の中心がいる。


 白を基調とした部屋の中にジーンズと黒いセーターを着た僕は非常に浮いていることだろう。

 部屋の奥にある窓から冷たい冬の風が入り込む。カーテンが僕の体にまとわりついた。

「いい? おとなしく私の言う通りに」

 今、僕は窓際に立って、背中にかかる指示と目の前の小さな箱に悪戦苦闘しているところだ。

「もう少し右に回して・・・違う、あとちょっと左に。いい感じ。そう、そこ。そこで止めて」

 彼女の言う通りに、そっとダイヤルから手を離すと、雑音をがなり立てていたスピーカーから美しいオペラのアリアが流れ始めた。

「時間ぴったし。ちょうど今からだわ」

 弾んだ声に振り返ると、彼女は綺麗な白い歯を見せて笑っていた。

「ラジオって便利よね。おかげで退屈しないで済む」

「いつも不思議に思うんだよ。どうしてこんな小さな箱から色んな音が聴けるんだろう」

「ジェームズは考えすぎなのよ。ダイヤルを回せば色んな世界へアクセスできる。それでいいじゃない」

 僕の疑問を取るに足らない事と彼女はいつも一蹴する。

 事実、彼女にとってラジオは外の世界へ繋がる唯一の手段だった。彼女にとってこの部屋のベッドの上が世界の全てだったから。

「今日の調子はどう?」

 彼女の柔らかな栗色の髪を撫でながら尋ねる。彼女は白鳥のようにほっそりとした首を伸ばして僕のお腹に鼻先を擦り付けながら言った。

「そうね。悪くないわ。外は快晴だし、あなたも来てくれた」

「いつも来てるじゃないか。明日だって、明後日だってくるよ」

「ふふ、そうね。そうだった。ね、仕事の話をして? エミリーとアントンの調停はうまくいったの?」

「残念ながらまだうまくいってない。エミリーもアントンもお互い言っていることが食い違ってて、折り合いがつかないんだよ」

 ねだる彼女に僕はベッドの端に腰掛けて話し始める。

 本当はクライアントの話はご法度なのだけど、ここから出られない彼女がどこかに漏らすわけないし、彼女の気晴らしになるのなら気苦労ばかりかけてくる僕のクライアントたちも許してくれるだろう。

「食い違うって例えばどんな風に?」

「エミリーがアントンが深夜にウイスキーを飲んで暴れ始めたと言えば、アントンはウイスキーを飲もうとしたけどすでにウイスキーの瓶は家の誰かに飲まれて空だったという。アントンがエミリーの虚言癖を指摘すればエミリーはアントンの浮気癖を追求する。もう泥仕合だね」

「つまり・・・似た者同士ってこと?」

「非常に好意的に解釈するなら」

 そう言って肩を竦めると彼女は軽やかな笑い声を零した。

「リンダ」

 僕が名前を呼ぶと彼女ーーリンダは小さく首を傾げる。僕はリンダの顔をじいっと見つめて、その表情を検分する。

 肌と髪の艶、目の陰り、僕は医者じゃないけどそんなことを確認する。昨日の彼女と変化はないか、死が彼女に近づいていないかどうかを。

 病が彼女に恐れをなして消えてしまえばいいとどんなに願ったことだろう。

 素晴らしい才能を病で潰えさせることは人類にとって損失にしかならない。なぜ神はそんなことを許すのだろうか。

「私の顔に何かついてる?」

 リンダの冗談めかした言葉に僕は「なんでもないよ」と微笑んだ。当人でもない僕が悲観的な顔をしてはならない。

 裁判なら丁々発止でやり合うことができる僕も彼女の前では何の力も持たない一人の男にすぎないのであった。

 彼女に僕は何をしてやれるのだろうか。


 ***


 事務所から近い喫茶店のテラス席。午後の裁判の資料を読んでいると向かいの椅子を引く音がして僕は顔を上げた。

「浮かない顔をしてるわね」

「レイ」

 僕は腰掛けた女性の名前を呼んだ。

 ぴったりと体にあった灰色のスーツを身にまとったスレンダーな美女。

 レイチェル・マシュー。同じ法律事務所の同僚だ。

「そんな顔して弁護をするのはやめた方がいいわよ。相手に付け入られて負けるのがオチだから」

「そこまでひどい顔をしてるかな」

 僕は片手で顎を撫でた。自分としてはいつも通りのつもりなんだが。

「鏡見てきたら? 何よ、また例のお嬢さんのことでも考えていたの?」

 言いながら、彼女は手を上げてウエイターを呼び止めコーヒーを注文する。

 右手で綺麗にカールのかかった長髪をかきあげるとそのまま腕を伸ばして、僕の手から資料を奪い取る。しかし、ざっと目を通しただけでうんざりしたのか、すぐに突き返された。

「あんたって、本当に弱者救済が好きよね。虐げられる労働者とか家に飼い殺される女とか食べるものに困って犯罪に手を染めた路上生活者とか。お金にならなくて手間だけかかる案件ばっかり引き受けて。能力あるんだからもっと大きい仕事やればいいのに。宝の持ち腐れよ」

 褒められてるんだか、貶されてるんだかどちらかわからない。僕は苦笑しつつ、資料をカバンにしまい込んだ。

 レイは企業専門の弁護士で、動くお金の額も僕とは桁違い。

 優秀でクレバーな彼女が僕に構う理由なんてないはずなのに、レイは他の同僚たちから爪弾きにあってる僕のことも気にせず対等に扱ってくれる。

 いつだったか、たまたま二人で飲んでいた拍子にリンダのことを話してしまったことがある。

 それからというもののレイは時々リンダのことを気にかけてくれて、女性ならではの視点で入用な物を僕に渡してくれる。

 つまり、レイチェル・マシューという女は非の打ち所がないほどいい女なのだ。

「リンダの容体はどんな感じなの?」

「良くなってるとは言えない。目も段々見えなくなってきているし、医者も転げ落ちないように薬で堰きとめるのが精一杯だってそれしか言わないんだ」

「そう、辛いわね」

 レイはコーヒーを一口飲んで、カップを持ったまま、通りを歩く人の流れを見つめている。

 何か話したいことがあるんだろうと思って、僕は催促するわけでもなく彼女の横顔を眺めながら言葉を待った。

「あのね、前から聞きたかったんだけど、あんたとリンダは付き合ってるの?」

「へ?」

 唐突な問いに間抜けな声が出る。

「へ、じゃないわよ。毎日足繁く通って、ベッドから起き上がれない彼女の生活を手伝って、お金も援助して。色々話を聞くけれど、そう、なんかあんたたちから男女の匂いがしないのよね」

「それは・・・」

「二人の関係だから、あまり部外者が口を出すものじゃないとはわかっているけれど、少し違和感を感じて」

 違和感、と声に出さず唇の上で転がす。

  レイは言葉を探すように口を閉ざし、ややあってから続きを言った。

「崩れかかった砂のお城に立って崩れるのを待っているみたいに見える。ジェームズ、あなた、何か怖がっていない?」


 レイと別れた僕はその足で裁判所に向かった。

 裁判を終え、洗面所に入ると、蛇口から思いっきり水を出してざぶざぶと顔を洗う。

 鏡に映った自分の顔にため息をひとつ。レイの言う通り、ひどい顔をしている。

 こんな顔で弁護された依頼人もさぞ不安だったろう。ギリギリのところだったけれど、判決は次回まで持ち越すことができた。次が正念場だろうから打てる手は全て打たなければならない。調べなければならないことも山積みだ。

 レイとの会話を思い出して、二度目のため息をつく。

「怖がっていないか、か・・・」

 あの時、レイの問いに僕は答えることができなかった。だって、事実だったから。

 今まで避けていた問題を目の前に突きつけられた気分だった。

 僕とリンダは恋仲ではない。もちろん僕はリンダを愛しているし、おそらくリンダも僕を愛している。

 ただ明確に言葉としてお互いの意思を確認する機会を持たなかった。

 僕がリンダと再会して程なくして彼女は病に冒されたため、それどころじゃなかったということもある。 

 同時に心のどこかで僕たちの関係には言葉は必要ないとも思っていた。

 でも、それは間違いで、ただ逃げていただけなのかもしれない。

 もし彼女を失う時が来たら僕はこの関係に名前をつけなかったことに後悔をするだろう。

 彼女を失うなんて未来は信じていないけれど、残された時間を意識せずにはいられなかった。


 ***


 リンダのアパルトマンに立ち寄るのはすでに僕の日課となっている。

 腕時計で時間を確かめるとまだ21時前。彼女は起きている時間だ。 

 タクシーから降りて、彼女の部屋がある場所を見上げると、明かりがついていないことに気づいた。

 なんだか胸騒ぎを覚えて、エレベーターのスイッチを何度も押して、やっと降りてきたエレベーターに飛び乗る。

 ドアノブを回すと部屋の鍵は開いていた。

「リンダ!」

 部屋に飛び込むとリンダはきちんとベッドの上にいた。息を切らす僕を見て、目を丸くしている。

「どうしたの、ジェームズ。そんなに慌てて」

「ああ、リンダ。良かった。明かりがついていないから何かあったんじゃないかと」

「何かって・・・どうしたの? 心配しすぎよ。過保護なんだから」

「過保護にもなるさ。だって、僕は」

 言いかけて口を閉じる。

「僕は?」

 訝しむ彼女に取り繕うように笑う。

「いや、ごめん。何でもない。寝るところだったんだろう? 起こしちゃったかな」

「ううん。ただ、今日は星が綺麗だったから。暗くしたら見えるかなと思って」

「そっか」

 僕はいつも通り笑えているだろうか。

「どうしたの? お仕事で何かあった?」

「何もないよ。大丈夫」

 ひと思いに気持ちを告げられず口を閉ざしてしまうところこそレイが指摘したとおりなのだろう。

 僕は恐れている。僕たちの歪な関係に亀裂が走ってしまうことを。

 彼女から拒絶されしまうことを考えるだけで、僕は気持ちを隠すことを選ぶのだ。


 ***


 法律事務所の夜は長い。

 ひっきりなしにかかってくる電話と事務処理と裁判の準備、すべてを並行して行わなければならない。

 日付が変わりかけるこの時間は疲労が押し寄せ、誰も彼もが機嫌が悪くなる。もちろん僕も例外ではない。

「セルジオ先生、お電話が入っています」

「わかった、回してくれ! ーーーもしもし。ジェームズ・セルジオですが」

 事務員の女性からストレスのこもった投げやりな声がかかり、僕も疲れからつい声を荒げてしまう。

 こんな時間に一体誰だと思いながら、内線のコールボタンを押す。

 受話器を耳と肩で挟みながら、資料をめくる。知り合いの新聞記者からもらった古い新聞記事の束。ここから事件に関わりのある記述を探さなければならない。

 弁護士は探偵とは違うんだぞと思いながら、電話の相手に話しかけるも返事がない。

「もしもし? こっちも忙しいんです。用件がないなら切りますよ」

 吐息の音だけが聞こえる。いたずら電話かと思って受話器を置こうとすると、


『ーーー、ジェームズ・・・』


 消え入りそうに小さな声が聞こえた。僕はハッと息を飲む。どんなに小さくともこの声を聞き間違えるはずがない。

「リンダ? どうしたんだ!?」

『ジェームズ、ごめんなさい・・・でも、どうしてもあなたに、』

 彼女の言葉が終わらないうちに、突然、ブツンと音を立てて電話が切れた。

「リンダ! おい、リンダ!」

 プープーと通話音を鳴らすだけの受話器に僕は呼びかける。受話器を叩きつけるように置くと僕はいてもたってもらいられなくなって立ち上がった。

「どうしたの? 今の、リンダからの電話?」

 心配して近づいてきたレイに僕は詰め寄った。

「レイ、どうしよう。彼女に何かあったのかもしれない。今まで事務所に電話なんかしてきたことなかったのに」

「なら、早く行かなきゃ!」

「わかってるよ! でも、明日の裁判の準備がまだーー」

「馬鹿ね。そんなこと言ってる場合じゃないでしょう! 資料集めなんか代わりにやっといてあげるからとっとと行きなさい!」

 ひったくられた新聞でバシンと頭を叩かれる。

 でも、レイは昨日も徹夜をしていたはずだ。頼っていいのだろうか、という一瞬の逡巡を見抜いたかのようにレイの少し充血した瞳が僕を睨みつけた。

「こういう時は人を頼るものよ」

「ありがとう、このお礼は必ずするから!」

 僕はレイに頭を下げると、鞄とコートを掴んで夜の街に飛び出した。



 彼女はベッドの上で月明かりに照らされていた。

 真っ暗な部屋の中、上半身を起こして座っている。

 星を見ていた昨日とは違い、部屋には今まで感じたことがないほどの重苦しい空気が漂っていた。

「リンダ・・・」

 そっと声をかけるも反応がない。月明かりに照らされて彼女の白い肌が青白く光っている。

 近づくことも躊躇われ、ドアの前で立ちすくんでいると、リンダはしばらくしてようやくこちらを見た。

「ジェームズ、もうダメなの・・・どうにもならない」 

 その悲哀に満ちた声になんて言葉を返せばいいかわからなかった。

 すでに泣き腫らした後なのだろう、目元が赤くなっていた。リンダが僕に向かって両手を伸ばす。

 僕は駆け寄ると、痩せ細った体を力一杯抱きしめた。

「ねえ、ジェームズ。私をどうにかして欲しいと言ったら、どうにかしてくれる?」

「それは・・・どういう意味?」

 不穏な言葉にリンダの顔を覗き込む。彼女の瞳にはちらちらと影がよぎっている。不安や恐れ、悲しみといった負の感情が流れていく。

「先生が今日言ったの。身の回りの片付けを始めた方がいいかもしれないって」

 僕は一瞬、何を言われているのかわからなかったが、理解するにつれザッと血の気が引く感覚がした。

 信じていなかった未来が現実になろうとしている。

「もし、病気に殺されるくらいならあなたの手で死にたい、って言ったら、どうする?」

 体に衝撃が走った。まさか彼女の口から「死」なんて言葉が出るなんて思いもしなかった。今まで一度だってそんなこと言わなかったのに、リンダの目は真剣そのものだった。

 僕は視線を合わせたまま乾いた唇を舐め、口を開く。

「それは、君が、もし本当にそれを望むなら・・・」

「・・・ごめんなさい、やっぱり忘れて。変なこと言ったわ」

 重苦しい空気が部屋の中を澱ませている。僕とリンダの呼吸の音だけが部屋に響いていた。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。

「ジェームズ。あなたはいつも私のそばにいてくれた。それは、どうして?」

 二人の関係に、歪な境界線に、先に足を踏み入れてきたのはリンダの方だった。

 僕は覚悟を決めた。彼女の勇気に応えなければならない。

「そんなの決まってるじゃないか、それはーー」

 だが、僕が言葉を続けようとするの拒絶するかのようにリンダは頭を左右に振って、僕の胸を拳で叩いた。弱々しい力だったけれど、僕には金槌で殴られたように重い一撃だった。

「わからないの! もう何もわからない。私はひどい女よ。今までもずっと誰かに依存して生きてきた。私のためにお金を出してくれるあなたを私は利用していたんだわ。いつかあなたも他の人みたいに遠くに行ってしまうんだと思ってた。それまで利用してやろうって! でもあなたはいつだって私のために来てくれた。これ以上あなたに頼っちゃいけないってわかってても、最期かもしれないと思ったらあなたに会いたくなって。ごめんなさい、ごめんなさい、ジェームズ・・・っ」

 彼女の悲痛な叫びにたまらなくなって、気付けば僕は彼女の唇を塞いでいた。

「っ」

 リンダの体が強張る。僕は彼女を宥めるように背中を撫でながら、角度を変えて何度もキスをした。

 やがてリンダも僕の気持ちに答えてくれて、二人の唇は自然と離れていった。

 僕はリンダの額にかかった髪を耳にかけて、目元の涙をぬぐってやると、しっかりとリンダの目を見つめた。

 今度は言葉で僕の気持ちを全部伝えなければならない。

「リンダ。君が僕を利用しようとなんだっていい。それでも、僕は君のことを愛している。今までも、これからも」

 シンと部屋の中が静まり返った。

 リンダは強張っていた表情を緩め、息を吐いた。

「ありがとう、ジェームズ。ありがとう・・・そして、ごめんなさい。ちゃんとするから。お願い。今だけ弱音を吐かせて」

 リンダの肩に手を置くと、引き寄せるまでもなく彼女からもたれかかってきた。両手が僕の背中に回る。

 縋るように・・・、そう。寄る辺もなく彼女は僕に縋っている。

「不安だった。あなたはいつも紳士的だったし、単なる善意で、施しでしてくれてるのかもしれないって。そんなこと違うって少し考えればわかるはずなのに、どうしても確かめることができなかった。だって、あなたみたいに素晴らしい人に私みたいな女は似合わない。気持ちを聞けば、あなたがいなくなってしまう気がして、怖くて聞けなかった」

「僕も同じだ。でも、君にそんな思いをさせるならもっと早く言っておくんだった」

 リンダが何度も首を振る。

「もう、いいの。わかったから。・・・あーあ。終わるならハッピーエンドがいいと思ってたんだけどな」

 リンダが悲しそうな声でぽつりとつぶやいた。

「ハッピーエンドになるよ。大丈夫」

「でも、どうにもならないときもあるでしょ。今がそのときなのかもしれないってそう思うの」

 いくら前向きな言葉を彼女に投げかけても意味がないことはわかっていた。彼女は生きることに絶望しているのだ。だから違う話をすることにした。

 僕がリンダに初めて会った時の話を。

「僕は・・・初めて君に会った時、この世界に絶望していたんだ。仕事も家もなくして、借金に塗れて、生きる価値を見出せずに死んでしまおうと思っていた。誰もが腫れ物に触るみたいに接してきたし、まったく気持ちのこもっていない言葉をかけてくる人もいた。いや、彼らは彼らなりに僕のことを心配していたのかもしれない。でも、僕は彼らの気持ちを受け止めることができず、全部はねのけたんだ。僕には周りを見る余裕がなくて、他人を気遣っている体力もなかった。今だからそんな風に思えるけど、当時は本当に一日を生きるだけで精一杯だった。そんなとき、君の作品に出会ったんだ。覚えてる? 月を翔ける蝶の絵だ」

 リンダに初めて会ったのは三年前の冬。まだ病気とは無縁だった当時のリンダは画家で、路上で絵を売って生計を立てていた。

 目を閉じれば今でも思い出せる。冷たい石畳の上にまっすぐと背筋を伸ばして座っていた彼女の姿を。

「月を翔ける蝶・・・覚えてる。汚いコートを着て、髪も髭も伸びっぱなしの男が買いたいから一週間待ってくれないかって言ってきたの。そんな男の言葉なんて信じられないし、買い手がついたら売るつもりだったんだけど、たまたま一週間残ってて。そしたら夕方に本当にその男がお金を持ってやって来たのよ!」

 僕は声を上げて笑った。

「はは、その薄汚い男が僕だったんだよ」

「え!?」

 リンダは心底驚いたような声を上げて、それがまた予想通りの驚きっぷりだったから僕はますます笑い声をあげた。

「え、そんな、嘘でしょう? だってあなたは弁護士で・・・」

「その時はまだ弁護士じゃなかった。全てを奪われて、失った僕はいっそ川に身投げして死んでしまおうかと考えながらゴーシャンの広場を歩いていた。その時、君の絵を見たんだ。今でも不思議なんだけど、君の絵だけが灰色だった僕の視界で鮮やかに色づいていた。気づいた時には僕は絵を売らないで欲しいと君に頼み込んでいて、一週間、日雇いの仕事をしてお金を貯めると君から絵を買った。その絵を見ながら僕は生きる力を取り戻していった。僕と同じような目に合う人がいないようにと弁護士を目指して、弁護士資格も取ることができた。今の僕があるのは全部君のおかげなんだ」 

「嘘・・・」

「弁護士になって再び君に会いに行った時、程なくして君は病気になってしまった。僕を救ってくれた君を助けるのは当然のことだと思ったよ。でもそれが君に金持ちの施しと思わせたのかもしれないね、ごめん」

 あの絵は今も大切に飾ってある、そう付け加えるとリンダの瞳から涙がこぼれた。すんすんと鼻をすする音は次第に大きくなり、やがてリンダは大声を上げて泣き始めた。

「ジェームズ、生きたい・・・。私、生きたいよ・・・」

「わかってる。一緒に頑張ろう。終わらない絶望はないんだ。だから、きっと大丈夫だ」


 僕はリンダを抱きしめ続けた。

 あの絵のように美しい月が僕たち二人を照らし続けていた。

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